反転
「代々、と言っても私が知っているのは二人だけだが、第六のセフィラは選別した人間を天使として招致しても、完全にその力を明け渡すことはしなかった」
「……ちょっと待て、選別した人間だと?」
聞き逃せない言葉に反応して割り込む大和に、曹玲は返した。
「そうだ、それぞれのセフィラに帰属する天使たちは全員が元人間だ」
「……」
「セフィラは自らに相応しいと思う者に力を与える。それは言わば天命というやつだ。対象者がその力を望んでいるかどうかは関係無い。思考と才能は必ずしも一致しないからな」
「つーことは、第六の天使はみんな未熟だったり頑固だったりしたわけか?」
一瞬だけチェルシーの顔を思い浮かべた大和だが、即座に首を振った。
「まあ半分は当たっているかもしれん。だが何よりも生命の樹にとってやっかいだったのは、お前もよく知っている天照だ」
太陽の女神であり八百万の最高神、天照。
彼女が照臨し、世界を照らしていたからこそ、邪悪な太陽が昇ることがなく、第六は他のセフィラのように反転できなかったのである。
つまり、九割がた反転したセフィラ群の中で、第六だけが唯一聖なる光を発しているのだ。むしろ天照と共存しているかのようにも見える。特異点と言っても良い。
そして同時に天照の陽光は、他の反転した邪悪なセフィラの影響を幾分か和らげる効果があった。
だからこそ、彼女の本拠地である日本は比較的平和であったし、反対に夕方と夜の間は陽光の加護が薄れるために治安が乱れた。
同じく、外国の戦争や犯罪が雨の日や夜に集中し、昼間は彼らがまだ人間らしい生活を送れていたのもその影響だ。
もし、天照が地上を照らしていなかったら――
「疾うに邪悪な樹は完成し、この世は反転して混沌としたものになっているだろうな」
「ちなみに反転って言うが、具体的にどうなるんだ」
「文字通りだ、ひっくり返るんだよ。分かりやすく説明してやる……ちょっと待ってろ」
そう言って、曹玲が温泉から脚を引いて立ち上がる。
だがなぜか数瞬の間を置いてから腰を下ろし、再びその脚を湯に浸けていた。
「八咫烏、あそこから適当に張り紙を一枚取って来い」
「ケッケ。おいおい曹玲、さてはお前めんどくさくなったな」
「いいからさっさと行け」
「痛っ!? 首引っ掴むのはやめ――」
そのままポイ捨てされる鳥。地面にぶつかる間際に羽ばたき、八咫烏は泣きながら言いつけ通りに飛んでいく。
「鳥使いが荒いな……。あそこの掘っ立て小屋に何があるんだ?」
「掘っ立て小屋ではない」
「ガベベベベベッ!?」
失礼な発言にイラついた曹玲が両手を組み、その隙間から水鉄砲のように瘴気温泉を無礼者の口に発射していた。
何すんだと、大和が憤慨して立とうとすれば、「肩まで浸かれ」と湯に捻じ込まれる。
完全に暴君だった。
仕返しに足の裏でもくすぐってやろうかと思ったが、そんなことをしようものならネリチャギが飛んでくるに違いないので止めておく。
「おらよー、持ってきたぜー」
「うむ」
八咫烏が運んできたその張り紙を受け取る曹玲。
『金城湯池』と書いてあった。ボロ屋に黒湯じゃんとは言わない。同じ轍は踏まない。
「よーいしょっと」
当たり前のように自分の頭に止まる八咫烏をうざったく思いながらも、意識を曹玲に向ける。
長年貼り付けられていたその紙は、空気や埃に晒されていたために黄ばみ、汚れてしまっていた。
だが裏面は案外きれいで、未だその白さを保っていた。
曹玲はその白い裏面を大和に向かって見せつける。
「いいか? この紙が今の宇宙だとするぞ。で、邪悪な樹が完成したとしよう。するとこうなる」
言って、彼女は紙をひっくり返す。
すると黄ばんで汚れた表面がまた現れる。
「これが反転だ。悪に染まったセフィラと共に、宇宙も裏返ってしまうんだ。常識や事象、倫理などを巻き添えにして正邪が入れ替わるんだ」
「ケケッ、このやり方だと左右も入れ替わっちまうが、そこは気にすんな」
「ああ、シンプルで分かりやすい説明だった」
曹玲と八咫烏の言葉に頷いて納得する大和。
そこで、グシャリと紙を握り潰した曹玲が続けた。
「だからこそ、天照を内包していた神崎美琴は連中に狙われた。奴らにとって正の光は邪魔以外の何物でもないからな」
「……」
「天照が堕ちたことにより、残された最後の聖なるセフィラである第六が反転するのも時間の問題だ。そうなったら最期、邪悪な樹が完成し、この世は本当に終わって――」
「悪いけどよ」
芯の入った声が横入りする。
「俺は美琴を助けることしか頭にねーんだ。大事なやつでさ、絶対に失いたくない」
「顔つきが変わったところに悪いが、神崎美琴を救い出しても世界が反転してしまったら意味がないだろう」
「勘違いすんな」
一点の曇りもない視線が曹玲を射抜いた。
「そんな話を聞いて知らん顔するほど人間辞めた覚えはねえよ。乗りかかった船だ、美琴を助けた後でならいくらでもあんたの言うことを聞くし、どこへでも付き合うさ」
告げて、水面から出した拳を握る。
とにかくやるせなかった。無力な自分が許せなかった。
目の前で次々と家族を亡くしたからこそ強く想う。日に日に傾く地球を見ているからこそ固く誓う。もう誰にも自分と同じ思いをさせたくないのだと。
それは安っぽい信念かもしれない。未熟ゆえの思い上がりかもしれない。
けれど、八城大和はそこでそっぽを向いてのうのうと歩けるほど器用ではないのだ。
そういうところは美琴の性分だったのに、何時の間にか自分にも移っていたのかもしれない。我ながら難儀なものだ、移したあいつに文句を言ってやる。
ちゃんと――この世に連れ戻してから。
「それに、美琴がこっちに帰ってくりゃ、また陽が昇って第六の反転を防げるってことだろ?」
「ああそうだ。……意地の悪い言い方をしてすまなかったよ」
「気にしなさんな。曹玲、あんたにゃ感謝してる」
「さん付けしろ、ガキめ」
「……曹玲さん」
「うそだ」
笑ってからかう曹玲に、「うぜえ」と舌打ちする大和。
その大和の頭の上で翼をバタつかせながら、「ケーッ! かゆっ!? 身体かゆくなるやり取りだなあ!」と騒ぐ八咫烏は曹玲の手によって温泉内に沈められていた。
「さて、あまり神崎を待たせてしまっては彼女も心細いだろう。明日、いよいよ貴様には黄泉に行ってもらう」
「ようやくか。で、どうやって行くんだ?」
「慌てるな、黄泉に行く方法は後で教えてやる。もっとも、最終試験をクリアできなければ許可できんがな」
「最終試験?」
「ああ。この三日間お前には準備運動をしてもらったわけだが」
「準備運動……だと?」
あれが? と身震いしてしまう。
それでは一体これからどんなシゴキがあるというのか。
戦慄する大和に苦笑し、曹玲は柔らかい眼差しを彼に向ける。
「そう身構えるな。なに、今のお前であれば恐らくは簡単なことだ」
言って、曹玲はジーンズのポケットをごそごそと探る。
すると中から櫛が二つ出てきた。
「どーでも良いけど、あんたのポケットって色んなもんが入ってるな」
「飴もあるぞ、ハッカ味。風呂上がりにくれてやる」
「分かりやす過ぎる飴と鞭だな」
明らかに比率はおかしいが。
そんな大和の気持ちなど露知らず。曹玲は取り出した二つの櫛を左右の手でそれぞれ掴んでいた。
「この櫛、一つは職人が手掛けたものだが、もう一つは大量生産品だ。ではどちらが職人が作った櫛か選べ。間違ったら頭まで浸かって一万秒追加だ」
「死ぬ死ぬ」
ジト目を向けつつも、しかし大和は即座に答えていた。右手の方と。
瞬間、ピクリと曹玲の目が動く。
「ほう、理由は?」
「そっちの櫛にはなんつーか、モヤモヤした魂みたいなもんが見える」
「ふむ、じゃあ次だ。卵が二つあるが、どちらが有精卵だ?」
「左手の方」
「……片方は植物の種そっくりの小石だが、もう片方は本物だ。どちらが本物――」
「また左手の方」
「どっちがつぶあん……」
「今度は右手」
「つまらん!!」
怒鳴られた。
「なんだよ急に?」
「つまらんつまらん! 教えがいが無くてつまらん!」
バシャバシャバシャ!
不服の表れなのだろうか、バタ足をかます曹玲。子供だ。
というか飛沫が顔にかかる。しかも瘴気付き。
はあーっと、長い溜息をついた曹玲がようやく顔を引き締めて聞いてきた。
「じゃあ大和、お前は全部見えていたわけだな?」
「ああ。生命っつーか力っつーか、とにかく全部にエネルギーみたいなもんが見えた」
「不可視である強い信念や生命エネルギーを知覚したんだ。ここ熊野で直接神気を鍛え上げたから出来る芸当だな。まあお前は元々瘴気を視認していたし、これくらいすぐに見えてもらわんと困るが」
言ってから、曹玲が右手を握り込んだ。
「万物には力や想い、生命が宿る。霊魂信仰や汎心論、大和たち日本人で言えば八百万の神々や付喪神などがそうだな。そしてそれはこのように――」
「――ッ」
轟音発するその右手。次いで得体の知れない靄が迸発される。
打ち震え、波立つ温泉。
瞠目する大和を見据え、曹玲は言ってのけた。
「これが神気だ。人体にも万象の力を宿すことができる。大和、貴様も例外ではない。お前がずっと付き合ってきた現象は何だ?」
「俺は……」
付き合ってきた現象。心当たりはもちろんある。
忌々しいとすら思ったその放電現象。
「心を開け。希い、受け入れろ。熱も痛みも痺れもお前は熟知しているはずだ。またスタンガンを喰らいたいか?」
「…………」
父親の迦具土を羨ましいと思った。
あんな力が自分にもあったらと、悪鬼を払う神が自分にもいてくれたらと。
心臓の鼓動がやけに耳に届く。
ドクンドクンと血液が全身を駆け巡る。
送り込まれるのはそれだけだろうか、いや違う。否定する。今までの自分と共に。
力が欲しい。大事な人を救い、二度と悲劇を引き起こさせないために。
心を開く。希って受け入れる。それは忌まわしい体質では決してなく、幼少の頃より自身と共に歩み、見守ってくれた神の具現だ。
意識のあるまま夢を見る。忘我には決してならず、自我を保ったまま集中して自己の世界へ己自身を飛ばす。
目を見張る。今や慧眼に等しいそれで以て、心臓から全身に巡る心地の良い痺れを実体としてはっきりと捉えた。
足を踏み入れ、迸る聖なる神気をその肌で、耳で、匂いで、味覚で、そして網膜に焼き付け、五感全てを解放して意識に叩き込む。
だから、心を通わせられる。その神と深層意識でお目見えできる。
纏い、弾けるそれは雷光の神威。
それはもはや、大和の血肉に等しく同化している。
心臓のポンプと共に身体に流れるそれを、
「あ、でもちょっと待て。こんな水場でそんな力を――」
八城大和は、確かに引っ張り出した。
バチバチバチイッ!
感電してお湯に浮かぶ少年。脚をビリビリ痺れさせた少女。ピクリとも動かない鳥。
三者三様の光景がそこにあった。
その後の曹玲の恫喝は熊野に住む生物を悉く震撼させた。




