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生命の樹と邪悪な樹

 霊験豊かな樹々が連なり、崇高で厳かな雰囲気を保ち続ける聖地、熊野くまの

 神聖な山河や樹木の一つ一つに熊野神である櫛御気くしみけの息吹が掛かっている。


 なればこそ、この一帯に邪気は存在できず、また濃度の高い神気により魂を直接鍛えることができるのだ。


『ここで五時間、ずっと全力で走り続けろ』


 と、広場に出たところで曹玲ツァオリンは大和に言った。

 長距離のペースではなく、短距離で。つまりは百メートルダッシュの勢いを五時間維持しろということだ。


 ペースが落ちるのは当然だし構わない。だが力を抜いたり休んだり、まして倒れたりしてはいけない。肉体に精神、心臓や血流を短時間で底上げするのが目的だ。泣き言など許されないし、そうなった場合は九十万ボルトのスタンガンで鞭を打たれた。


 五時間ダッシュを終えて死にかけた大和を待ち構えていたのは、体操種目で用いられる、あん馬であった。

 がぶがぶと水を飲む大和に、あん馬を目で指しつつ曹玲は、


『これを使って倒立し、このコップを汗で一杯にしろ』


 告げて、一つのコップをあん馬の中間に置いた。

 逆立ちして顎先から垂れる汗で、コップを溢れさせるまでは終わらないと言ったのだ。

 反抗する大和にぶち込まれるスタンガン。黙ってやれと威圧される。鬼だった。


 倒立したまま、口に含んでいた水をバレないようにコップに噴いてかさ増しした。すぐバレた。顔面にトゥキックを貰い、コップはバケツに変身していた。


 両腕を痙攣させ、水分という水分を絞り尽くした大和にポニーテールの鬼は言った。


『今日は疲れただろう。近くに温泉が湧いている。英気を養って明日以降に備えろ』


 ポニーテールの女神の言葉に、大和は感激して涙を流しそうになった。

 女神に「情けない顔をするな、さっさと入ってこい」と苦笑され、ボロ雑巾に等しい身体を這うように進ませて、その黒い温泉に辿り着いた。成分は不明だが、その黒色は大和には輝いて見えた。


 服を脱いでダイブする。で、悶絶しながら絶叫した。

 黒の正体はへどろに等しい瘴気。砂糖と思って舐めた附子ぶすは本当に毒だったのだ。

 慌てて這い出ようとする大和の頭をポニーテールの羅刹が押さえた。

 羅刹は言った。笑顔で。


『肩まで浸かれ。一万秒数えるまで出るな』


 死ぬ未来しか見えない。

 こんな理不尽がひたすら続いた。





「はっせんひゃくはちじゅうに……はっせんひゃくはちじゅうさん……」


 ――慣れというものは恐ろしいもので、大和は曹玲の訓練いじめを丸三日耐え、乗り越えようとしていた。

 今現在も彼は全身筋肉痛のまま涅色くりいろの温泉に浸かって数字を数えている。


 そこに無駄な仕草は一切無い。身体を膨らませて吹雪をやり過ごすペンギンのように、その身を極悪環境に適応させている。というか目がヤバい。完全に人を殺す目であった。主に曹玲を。


「よし、完全に瘴気には耐性が付いたな。数えるのはやめて良いぞ」

「……」


 そのぶん殴りたい張本人がやってきたので、大和は横目でジロリと睨み付けていた。


「むくれるな。黄泉に行くんだ、軟弱な身体で出向けば一瞬で住人の仲間入りだ」

「……そりゃ分かってるけどよ」


 墟街地きょがいちから熊野に案内された際、逸る大和に曹玲は言った。


 貴様に三日で最低限の力を叩き込むと。

 神崎美琴を助けに行きたいのなら死ぬ気で付いてこいと。


 確かに、瘴気の濃度が多少高いだけでまともな行動ができなくなる大和では、黄泉に付いた瞬間に死んでしまうのがオチである。

 それを自覚しているからこそ彼は曹玲の言に従った。


「にしても全力マラソンだの、あん馬の倒立だのと意味はあったのかよ」

「言ったろう? ここ熊野は神気が高く、魂を直に鍛えることができると。体力や臓器の強化の他に、お前自身の神気を叩き上げたんだ」

「神気ねえ……。俺にもそんなもんあるのかよ?」

「もちろんだ。元々お前は瘴気を視認できていたし、札やお守りも扱えていたんだろう? 神気や霊力に恵まれている証拠だ」

「つーよりも、お前の身体にゃ神が宿っているのさ、坊ちゃん」


 大和と同じく瘴気の温泉に浸かっていた八咫烏やたがらすが会話に入り込んできた。

 濡れた身体もそのままに、大和の頭の上に飛び乗って休憩する。


「くつろいでんなよ、お湯が垂れてくんだ――ぶへっ!? 身体をぶるぶるさせんな! 口に入ったじゃねーか!」

「なかなか止まり心地良いなここ。曹玲の肩に次ぐぜ、喜びな大和ー」

「喜べねえし馴れ馴れしいし爪がいてえ! どっかいけお前!」


 怒号に対し「気にすんな」と笑う八咫烏。

 そのやり取りに再び曹玲が割って入る。


「今そこのアホウドリが言ったように、お前にも神崎美琴と同じように神が宿っている。ロゼネリアが言っていただろう、八百万の神は人間を含めた森羅万象に内包すると」

「アホウドリ……」


 ショックで肩を落とす八咫烏を放置して大和は思索に耽る。

 そして真っ先に浮かんだのは、


「ガキの頃、確かに具現化した神を見たことがある」

「その神の名は分かるか?」

「親父が呼び出した火の神、迦具土かぐつちだ」


 産まれ出ることで母である伊邪那美いざなみを纏う炎で焼き殺し、それを見て激昂した父、伊邪那岐いざなぎに斬り殺された焔の化身、迦具土。

 神話で有名なその神を召喚し、弾ける炎舞で悪い妖魔を散らす様を幼い大和は見つめていた。


「……そうか」


 名を聞いて、僅かに曹玲の眉尻が下がる。

 大和の父親がシェイクに殺されたことを知っていて、彼に遠慮したのかもしれない。


「天使たちについて少し話をしようか」


 言って、曹玲は大和が背中を預けている温泉の端まで近付いてくる。

 そしてスニーカーを脱ぎ、同じく靴下も脱いで、その健康的な素足をさらけ出した。


「え!? あ、あんたも入るわけ!?」

「何を慌てている馬鹿が。足湯だよ」


 ジト目で大和を見やり、曹玲はジーンズを膝上まで捲る。

 引き締まったしなやかな脚を動かし、「じゃまするぞ」と大和の側に腰かけて、その脚を湯に浸けた。


「ケケッ、残念だったな大和」

「うっせ!」


 頭の上で茶々を入れてくる鳥を一喝する。べつに残念ではない。決して残念ではない。


「良い湯だな。瘴気に耐性があればこうして普通にのんびりできる」

「……そもそもなんで聖地に瘴気があるんだよ?」

「それも後で話してやる。まずはそうだな、ロゼネリアたち天使という存在が何者なのか、それから話そう」


 烏羽色のポニーテールを右手で払い、曹玲は眼下の大和に目を向けた。


「まず、作物や水産物がここ十年で異常に高騰しているのは知ってるな?」

「ああ、大根一本が五百円を軽く超えてるからな。土や海が汚れてるせいらしいが」


 近年、土壌や海の汚染が進み、植物や魚介類の減少が著しいと指摘されている。

 数日前にイルカの群れが砂浜に打ち捨てられていたことも、それが影響しているのではないかと言われている。


「それはシェイクが天使として存在しているからだ」

「は?」


 大和は思わず間抜け面を返してしまう。

 対し、曹玲は両眼を眇めて言い放った。


「奴が帰属しているセフィラは第十マルクト。司るものは世界、つまりはこの地球だ。シェイクがマルクトの天使であることにより、大地も海も空も汚濁されているんだ」

「……」


 何言ってんだコイツ? と不審な目を向ける大和。


「むかつく顔をしているな貴様……。まあ良い、順を追って説明してやる。大和よ、お前は生命の樹(セフィロト)というものを知っているか?」

「名前くらいは知ってるが、詳しくは知らん」

「ならば集中して聞け」


 そして曹玲の説明が始まった。


『セフィロト』――十個の球である『セフィラ』から成っている図象であり、それぞれのセフィラを線のように結ぶ、二十二本のパスというものも存在している。

 そして『セフィロト』とは、宇宙というものの存在や現象を全て、十個の『セフィラ』の特性に従って類別している。または、宇宙を含めたあらゆる万物を掌握していると言いかえても良い。

 次に挙げる存在が、その十個のセフィラである。


 マルクト(第十)――物質的世界、つまりは人間が暮らす世界を司るセフィラである。また、死の概念をも掌握しているので、黄泉の国ですら手中に治めている。


 イェソド(第九)――精神世界、いわゆるアストラル界の基盤のセフィラ。天空に浮かぶ月を象徴とし、司る金属は銀である。


 ホド(第八)――栄光のセフィラ。概念であった『形』をよりはっきりと顕現させる。


 ネツァク(第七)――含有するのは勝利。こちらは『精神』を具象させるため、第八ホドと対をなすセフィラである。


 ティファレト(第六)――言わずと知れた太陽のセフィラ。生命の樹(セフィロト)の中心に位置するがゆえに、六番目でありながらも第二コクマー第三ビナーと同じく、第一ケテルと直接ギーメルというパスで繋がっている特別なセフィラである。


 ゲブラー(第五)――峻厳を意味し、及びあらゆる意味での力を内包している。


 ケセド(第四)――あらゆる慈愛を含有し、また概念的存在である第三ビナー以上の三つのセフィラを除けば、最高位のセフィラである。


 ビナー(第三)――『形』及び『時』を支配する。第三ビナーによって宇宙は顕現され、時の流れを歩むのだ。また、女性を象徴する母なるセフィラ。


 コクマー(第二)――『生命力』を発現させる。森羅万象の活力はこのセフィラによってもたらされている。第二ビナーと対を為す父なる存在。


 ケテル(第一)――あらゆる存在の源泉であり根源。第二コクマー以下の生みの親で、神に等しい純白のセフィラである。


「というわけだ」

「……つまり、さっきあんたが言ったように、あのシェイクってガキが世界を治める第十マルクトを手にしているから、結果として自然界が汚染されるってわけだ」

「理解が早くて助かるよ。本来、全てのセフィラは聖なる存在なんだが、それに帰属する者が邪心に満ちていれば、セフィラも反転して邪悪に染まってしまう」


 それが邪悪な樹(クリフォト)

 だからこそ世界が、月が、輝かしい誉れが、逆境に抗おうとする心が、正しい力が、愛情が――薄まり、捻れ、汚染されていく。


 愛憎が表裏一体なように、世界情勢の傾きとはすなわち、世を律するセフィラが裏返った結果なのだ。


 夜を照らす銀月光の正体は、銀を司るイェソドの邪心を曝け出したもので。

 世界中で紛争が絶えないことは、力を間違った方向に発するゲブラーの影響で。

 人々が傷付け合い、孤児が増えるのは、ケセドが愛を憎しみに変えたからである。

 曹玲は続ける。


「だが、それでもどうにかしてこの世は存続していた。それは太陽のセフィラだけは反転していなかったからだ」


 第六ティファレト

 中心となって世を照らす光の象徴。このセフィラが輝くことで、人類は希望を捨てずに今日こんにちまで生きてこられたのである。


「なぜ神崎美琴が天使たちに狙われたのか、私と連中の関係はとか、お前がこれからどうしていくのか、詳しく話していくぞ」

「……分かった、頼む」


 溜まった唾液を嚥下する。

 依然として黒い温泉に浸かり、曹玲を見上げたまま大和は聞く姿勢に入っていた。

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