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餓狼

 それは天上世界に木霊するBGMだろうか。

 高音発する笛の音色。聖歌のような荘厳さでありながら、しかし愉しげな音調も揺蕩たゆたっては人心を鷲掴む。


 ともすれば、脳髄が蕩けてしまいそうな危うさと心地よさで、およそ麻薬の比ではない。


「ふんふふんふんふーん」


 リズムよく身体を揺らし、両目を閉じてフルートの演奏に耽溺たんできしているのは長い金髪をはためかせた小さな少女。


 細く、真っ白な美しい指。たおやかなその十指が艶めかしく横笛を愛撫する。

 打ち震えたフルートが喘ぐように音を発せば、それを咥えた少女のくちびるはぞくりとする嬌態をさせて見るものを挑発する。


 一見すれば、その様子は芸術の域に達するほどの情景だ。絵本の世界から飛び出してきた妖精かと見紛うこの少女、一枚絵や写真に収めたなら相当の価値が付くことに違いない。

 そう、あくまでも少女単身であれば。


「きゃはっ、あはははっ、あはははははは!」


 汚濁に塗れて嗤う堕天――シェイク・キャンディハートが悪魔の如き情念を撒いていた。

 その一帯は地獄というのも生温いほどの光景であった。


 人間という人間がバラされて、血肉や臓腑が絨毯のように敷き詰められていたのだ。

 そこに群がるのは巨大な蛆で、死体となった人々の屍肉をもぞもぞと咀嚼する。頭部がごろんと傾けば、その眼孔から脳漿まみれのそれが顔を出し、大きめの胴体からは一斉に数匹が臓物もろとも喰い破って現れる。

 漂う瘴気は悍ましく、まるで人肉を食い荒らした蛆が吐き出すおくびのようであった。


 物言わぬ肉塊となった彼らはしかし、シェイクの独奏会の楽器に等しい。

 ガサガサと、ゴリゴリと、彼らに湧く蛆がシェイクの笛の音を聞く度に、一層張り切って咀嚼音を発するからだ。


 死肉のコンサート会場。まさに混沌、狂気の沙汰だ。

 陰陰滅滅いんいんめつめつ屠殺場とさつばに塗り替えられたこの路地裏は、その景観だけで他者を発狂させかねない。


「きゃはははははっ! あーおもしろーい! どいつもこいつも死ねよバーカ!」


 ブロック塀に腰かけて、ぱたぱたと愉快気に足を振るシェイクの笑顔は歳相応のものだが、しかしその内容がド外れている。

 彼女が笑うということは、すなわち『死』が関係しているということ。黄泉の堕天は死によって他者を支配し制圧するのだ。

 止められる者など決していない。


 ――そう、彼女と同格以上の存在でない限り。


「ずいぶんと楽しそうじゃねえかよ。なぁお嬢ちゃん」

「はあー?」


 気分良く浸っていたところに割り込んでくる放埓な物言い。

 明らかな険を含んだシェイクが、その声の主を不快な感情混じりに殺害しようと振り向くと、


「――ッ!?」


 驚愕し、反射的に勢いよく立ち上がっていた。

 そのまま塀の上で一歩二歩と後ずさり、パタンパタンとトングサンダルの音を響かせる。


「あ……あんた……!」

「あァ?」


 悪逆極まる狼男がそこにいた。

 頭頂部から大きく立派な耳をピンと立て、毛並みの良い銀の尾を振り動かす。獰猛な獣の威武が我が物顔で迸発されている。


 そのように、見えた。


 実際は違う。その男はまだ(・・)外見上は人間そのもの。ただ、発する凶念がテリトリー内の生物に喰い掛かり、そうした幻視を叩き込んでいるのである。

 それはシェイク・キャンディハートを以てしても、恐怖の念を覚えてしまうほどに甚大極まるものであって――


「何を怯えてやがんだよ。ええ? 可愛い可愛い第十マルクトさんよ」

「ひ――!?」


 餓狼の冷淡な目が幼い少女を射抜いて穿つ。

 その瞳孔は縦長に開ききっており、己以外の全てを見下して嘲弄する。

 射竦められたシェイクは呼気を速め、さらに一歩退いた。


「なん、で……、あんたがここにいんのよ……ウォルフ……!」

「ハッ!」


 黒い外套、そのポケットに両手を突っ込みつつ嗜虐を浮かべた男は闊歩する。

 その哄笑で、シェイクが作り上げた血と死の臭いを寸分残らず吹っ飛ばす。


 彼は天使。第九イェソドのウォルフ・エイブラム。

 全世界から伝説と恐れられている、戦場の狼男であり死を引っ提げる魔獣そのもの。

 ブーツで乱暴に血だまりを踏み付け歩き、グチュリと泡立たせれば赤い波の華ができあがる。

 そのまま、彼はシェイクの元まで近付いて――


「色々と好き勝手やってるようじゃねえか。あ?」

「な、何よ! あんただって色んなとこでむちゃくちゃして――」

「いやー、そういうことをよォ……」


 割り込み、シェイクの反論を途絶させる。

 彼女の乗っているブロック塀に、薄ら笑みを浮かべつつ突き出す拳。


「ッ――!?」


 刹那に爆ぜて瓦解する塀の上、バランスを崩したシェイクに向かってウォルフが激昂した。


「言ってんじゃねえんだよこのクソガキッ!!」

「ギ――ィッ!?」


 宙に投げ出されていたシェイクのどてっ腹に、一切の容赦無しの回し蹴り。

 ぶち込まれ、くの字となったシェイクが反動で弾丸となり、音すら超えて建造物を破砕し突き進む。


「ガ――ア……ァ――――! い、だァ……! 痛……いッ! く……そ……! こ、ころ……す……!」


 瓦礫に塗れ、腹を押さえて胃液を地面に吐き散らすシェイクの呪詛が空気を伝う。

 だがそれは、危険な獣の耳朶をくすぐり、甘美な刺激となって脳に届くのだ。

 シェイクに近付くザリザリとした靴底が擦れる音。それを発する餓狼が「ほお……」と嗤いながら双眸を引ん剥いていた。


 一方で、毒の瘴気と巨大な蛆が、主を傷付けた無礼な輩に対して一斉に襲い掛かる。

 が――


「うざってえ」


 苛つきを孕んだ声音と共にそれらは悉く爆ぜ、霧散した。

 身体に触れることすら敵わない。届くことすら出来はしない。

 ウォルフが全身にだだ漏らしているだけの鬼気や神気、それがシェイクの召喚した黄泉の概念を木端微塵に砕いたのだ。


「――ッ!?」


 蹲りつつそれを見て、驚愕と絶望に染まるシェイクの鼻先で、ウォルフの靴がダンと地面を打ち鳴らしていた。


「殺すだと? 誰が誰を? くっだらねえことうそぶきやがって、やってみろやコラ」

「いったあッ!! く……そっ! 離せよクソ犬、バーカ!」


 シェイクの金髪を引っ掴んで持ち上げる。

 喚き散らして暴れる彼女を歯牙にも掛けず、むしろ黙らせるが如くそのみぞおちに拳をぶち込む。

 鈍くて重い衝撃音。吹き飛ぶシェイクは電信柱をかち割って、打ち捨てられた人形の如くその下敷きにされていた。


 その様相を眺め、右手に絡む千切れたシェイクの髪を放り捨て、なおもウォルフは涙を流してむせ込む彼女の元へと歩んでいく。


「げほっ、げほッ! な……なによ……。なに怒ってんのよ……? く、くんなよ、ばーか。…………や、やだ、こないで。こないでよ。あ、あたしが何をしたってゆーの……?」

「てめえ例のガキ共を、使いもんにならねえ寸前にまでバラそうとしたじゃねえか。大事な大事な計画が御破算ごはさんになったらよォ、俺ぁ悲しくて隅っこでわんわん泣いちまうぜ」

「ガキ……共?」


 おどけ、諧謔かいぎゃくを混ぜたその言に我知らず慄くシェイク。

 ウォルフが言っているのは美琴と大和のことである。


 神崎美琴は殺すだけ。

 八城大和は攻撃しない。


 このロゼネリアの告達こくたつを、しかしシェイクは感情のまま二つ共に背こうとした。

 悦楽のために。憂さ晴らしのために。

 しかしロゼネリアは彼らに告げている。この二人は新たな太陽、つまりは第六ティファレトを覚醒させるに必要なのだと。


 だからこそウォルフの逆鱗に触れたのだ。

 太陽光を浴び反射する、月光という彼にとってこの上ない愛と幸福を感じさせるものを、結果的に壊そうとしたシェイクという少女は。


 なぜならば、ウォルフ・エイブラムは月を象徴とする第九イェソドを掴み取った暴虐の化身。誰よりも月を愛し、そして愛されたからこそ彼は天使として昇りつめた。水面みなもの月に捉われて溺れ死ぬ愚鈍な猿と彼では次元が違う。

 まなじりを裂き、金色のウルフヘアーを怒髪の如く逆立たせて低く唸る。


「ボケが。三下のジャリん子に過ぎねえてめえが一丁前にこの俺をイラつかせてんじゃねえよ!」

「い……だいぃ……! も、やだ……! やめて、やめでよォ……ッ!」


 転がる電信柱を蹴り飛ばし、間断置かずに寝転がるシェイクの横顔を踏み付け、アスファルトごと陥没させていく。

 絞り出されているかのような悲鳴と涙はしかし、狼男の鼻先すら動かさない。

 ピンと張った舌を出し、手足を不自然に硬直させるシェイクが気を失うその直前である。


「そのへんにしときなさいよ、ウォルフ」

「……」


 突然肩に手を置いてきた者の鼻っ面に、ウォルフは裏拳をぶち込んでいた。

 つつぅ、と鼻から血を流しつつも、寸蒙も動かなかったその男はなおも続ける。


「一度注意すれば良いだけのことじゃない。仲間同士で争うのはやめましょうよ、不毛だわ」


 二メートルは超える大男であった。大柄なウォルフよりも更に巨大な身丈である。

 奇妙な男だ。坊主頭にサングラスをかけており、黒いレザーのパンツ、そして筋骨隆々な上半身に直接サスペンダーを巻いている。

 その大仰な女性口調と仕草と合わさることで奇妙な威圧感が増幅され、大半の者は一歩引いて彼を見るに違いない。


 彼はマッカム。

 第五ゲブラーのセフィラに認められた、マッカム・ハルディート。


「仲間同士……だと? ククッ、フハハハハハハッ!」


 打ち込んだ腕を下ろしながら呵々大笑を上げ、ウォルフはマッカムを睥睨する。


「一括りにするんじゃねえよ。口開けてピーピー鳴いてりゃ親鳥セフィラから餌貰えるてめえらヒヨッコとこの俺を」

「…………」


 誰彼も信頼せず必要としない、見下しきった冷たい視線。

 その両眼を裂くように細め、ウォルフは遥か天空に向かって手を伸ばしていた。


「俺ァ掴んだんだよ、あの月を。てめえらみたく馬鹿面晒して扶養されてるわけじゃねえ」


 運命、天命、そんな馬鹿げた事象は掻っ捌いて踏み砕く。

 自分からは何もせず、天運の上に胡坐あぐらをかいて踏ん反り返る愚か者に一体何の価値があるという?


 だから彼は暴殺した。自分を侮るかつての第九イェソドを。

 そして彼は虐殺した。恋人を失って激昂したかつての第六ティファレトを。


「つまんねえ博愛主義を俺に押しつけてんじゃねえ、反吐が出んだよ。クソ生意気な第七ネツァクの小娘を殺らなかったのもそのチンケな矜持が理由か? 破壊のセフィラが泣くぜ」

「あの子は力を失い、そして今は新たな第七が帰属している。問題は無いわ」


 マッカムの言葉に、「そりゃそうだ」とウォルフも続く。


「俺にとっちゃあ、月と太陽以外はどうなろうが知ったことじゃねえ。だがな――」


 言って、ウォルフはその冷眼をマッカムに向けた。


「月光を影らす真似なんぞしてみろ。お前だろうがロゼネリアだろうがぶっ殺す。あの女に従ってこんなクソ島国に来てやったのも、太陽が関係してるからだ」

「肝に銘じておくわ」

「ハッ。……よお、てめえ命拾いしたなシェイク。文句があんならいつでも来い、繋錠光輪てんしかしたって構わねえ。俺に勝てると思うのならな。クハッ、ハハハハハハハハハッ!」


 爆笑を撒き散らし、狼男は去っていく。


 見届けて、小さく息をついたマッカム。

 苦悶の表情で引きずるように身体を起こしたシェイクが、「だ、だいじょぶマッカム?」と声を掛けていた。

 反応したマッカムが顔を向け、二人は数秒の間見つめ合い、そして――


「いったーい! 鼻が痛いわ! あぁん! かさぶたになっちゃう!」

「痛いよ! めっちゃおなか痛いよ! くっそーあのバカ犬めー! ぜったい殺す! ぜええったいに殺してやる! マッカムが!」

「アタシ!? 嫌よそんなの! 命がいくつあっても足りないわ! フゥ――――ッ!」


 ギャーギャージタバタ。


 互いに手足をぶんぶん振り回して騒いでいた。

 マッカムに至っては腰も一緒に振っていた。

 ひとしきり腰を振った彼はやがて「ふう……」と落ち着いて、


「ま、ウォルフの言うことにも一理あるわ。ダメじゃない命令に背いちゃ」

「あんただって曹玲ツァオリンのバカを殺さなかったじゃん。オカマゴリラ」

「ひっどーい!? アタシってば心は立派な女なの! フッフゥッ!」

「だから腰振んなよ変態乳首! ずれて見えてきてるよ、そのきったないのが!」

「んまあ、乳首だなんて嫌らしい! 女の子ならもっと慎みを持ちなさい」


 言いつつ、そっとサスペンダーの位置を直すマッカム。

 それをジト目で見やるシェイクだが、数秒後にピョンと跳んでマッカムの肩に乗っていた。


「ちょっとぉ、自分で歩きなさいよ」

「やだ疲れた。いいから動けハゲ」

「キーッ! ハゲじゃないわよ剃ってるの!」

「でもハゲ」


 ハンカチを噛むマッカムの頭をペチペチ叩き、馬のように扱うシェイク。


「あー、ムカついたら甘いもの欲しくなっちゃった。いくわよマッカム」

「お腹出ても知らないわよ?」

「若いからへーきだもん。おっさんのアンタと違って」

「ムッキ――――!!」

「あははははははは!」


 憤るマッカムに跨り、シェイクは邪気の無い澄んだ笑顔を浮かべていた。

 対する彼も満更ではない様子で、「……まったくもう」とシェイクを肩に担いだまま歩むのであった。

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