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決意

 朧げな足取りで石段を一つ一つ上がっていく。

 足を踏み出すたびに、全身を激痛が駆け巡る。


「あ……のアマ……! 馬鹿力でぶん殴りやがって……!」


 胸を押さえつつ鳥居をくぐり、顰めた顔で境内を渡って自宅の方へと進んでいった。


「ッ! いっ――てぇ…………!」


 ドアを開けようとして、指先に溜まった静電気が迸った。青白い光が夜に閃き、刹那の間にそれは消えゆく。

 残るのは痺れるような痛みと、反射的に手を引っ込めたまま固まった情けない格好だ。


「ちくしょう!」


 当り散らすようにドアを殴りつけるが、骨に響く拳の痛みがただ虚しく突き刺さるだけだった。

 舌打ちし、全身を引きずるような弱々しい動きで大和は家へと入った。

 暗闇の中、手探りで壁を伝って進んでいき、リビングの明かりを付けると、


「あ…………」


 キッチンの方でとある何かが目に映った。


『おふくろの味を食わせてやるー』


 美琴が作ってくれた肉じゃがであった。

 ふらふらとそこまで歩き、鍋を触ってみれば未だ温もりを保っている。


「く…………!」


 どさりと、その場にへたり込む。

 俯いて、手で顔を覆って固まった。


 思い起こすのは神崎美琴と過ごした日々であった。


 小さいときからお互いに感情を出し合った仲だった。笑って、泣いて、怒って、そして喜んで。大和もそうだったが、美琴は特に喜怒哀楽を惜しみなく表現する子供だったのだ。

 天真爛漫な彼女が笑えば周りも笑う。笑顔で周囲を明るくさせる女の子は、成長するに従い周囲を思いやる少女へと変化した。

 それでも、共通するのはお日さまのように皆を笑顔にするそのキャラクターだ。大和もその笑みに何度救われたことだろうか。


 だが――神崎美琴はもういない。


「…………」


 力無く立ち上がり、おぼつかない手で菜箸さいばしを使って肉じゃがを一つ口に運んだ。


「っくしょー……」


 温かい。すごく温かい。

 よく噛み締め、ゆっくりと飲み込んだ。

 じーんと軽い痺れが起こる。

 全身を脱力させ、呆けた表情のまま数秒の間を置いて――


「……ッ! ――っ!!」


 せきを切ったように鍋の中身を箸で引っ掴む。

 餌を見つけた野良犬のように、ただひたすらに貪った。

 脇目も振らず、とりつかれたように食べて、食べて、かっ喰らう。

 喉に詰まらせ咳き込んで、しかし再びがっつき、咀嚼し、嚥下した――


「……うめぇ…………」


 震えた声で、ただ一言。

 戦慄いて落としたその肩は、とても大の男が見せるものとは思えない。

 鍋の中を全て平らげた彼は、からんと箸を放り捨てた。


 そのまま収納棚に背中を預けてずるずると崩れ落ち、俯いた大和は深く目を瞑っていた――


 耳をつんざく嗤い声が響いている。

 その主はきゃっきゃと声を上げ、金色の髪を振り乱しながら側にいる少女を痛めつけていた。

 明るいオレンジ色の髪を力一杯引っ張り上げ、苦悶の表情をさせている。

 少女は身体を丸めて暴力に耐えつつ、うわ言のようにとある名前を呟いていた。

 やまと、やまと、と。


 ――大和……助けて……。


「ッ! 美琴!」


 少女の名を呼び跳ね起きた。反射的に伸ばしていた手はしかし、虚空を虚しく掴むだけ。

 胸を突き破るような動悸のせいで、心臓の鼓動が耳に届いて離れない。

 掻き毟るように胸元を押さえた大和は「夢かよ……」と吐き捨てた。


「……酷えツラだな」


 鏡を覗けば、濁りきって死んだ魚のような目をした自分がそこにいた。

 自嘲しつつ窓の外を眺めると、まだ闇一色に染まっている。時計の針は九時を指していた。


「……?」


 九時だと? 妙だ。

 昨日帰ってきたのが夜の九時半頃だ。まさか一日以上も眠っていたというのだろうか。

 どうやら相当に精神が参っているらしいが、それも当然だろう。


「……あの女は正午に墟街地、って言ってたな」


 知らずに反故にしていたようだ。今から向かっても無駄だろうし、元から眉唾もので信用できたものではない。

 どうしたものかと途方に暮れているその瞬間だった。


『あっ! ああーッ! た、助けてくれーっ!!』

「っ! な、なんだ!?」


 遠方から耳を突き刺すような男性の悲鳴が聞こえ、反射的に大和は声の方角を見やった。


「……つっても、俺にゃ関係ねえ」


 光の無い目を濁らせて、顔を逸らす大和。

 だが、窓の向こうの闇の中、続けてその絶叫が迸る。


「…………ッ」


 何度も何度も止むことなくひたすらに。

 絶叫が聞こえる度に拳を固め、強く爪を喰い込ませてしまい――


「ちい……っ!」


 舌打ちし、眉間に皺を寄せながら大和は飛び出し、神社の石段を駆け下りていく。

 すると、一人のサラリーマンが仰向けに倒れ、なおも大声を上げていた。


「き、君! た、頼む! 助けてくれ!」

「――な!?」


 こちらに向かって手を伸ばし、助けを乞う男性の腹の上に、奇妙な生物が這っていた。


 身体は蜥蜴とかげで、頭はカタツムリのような外見。嫌悪感をもたらす姿のそれは、子犬ほどはある巨大さであった。


 瞬間、シェイクの操る蛆を思い浮かべた大和は咄嗟にその生物を掴み上げ、男性から引き離す。ずっしりとした重みの生き物は、大和の手の中でもぞもぞと手足と頭を動かしている。


「なんなんだこいつ……は――」


 そこで絶句する。何気なく辺りを見渡せば、様々な形状をした混合生物キマイラが一帯にのさばっていたからだ。


 猿の顔を持つ蛇、豹柄の蜘蛛クモ、蛾の羽を持つムササビは旋回しながら宙を舞う。

 ぼとりと、戦慄した大和が握っていた生物を落としてしまうと、それはカサカサと逃げ出していった。


「いやー助かったよ。すごいね君、ありがとう」

「……怪我はしてませんか?」

「ん? いや大丈夫だよ。攻撃してきたりはしないらしいからね」

「は?」


 じゃあなんであんな悲鳴を上げたのか。

 問えば、サラリーマンは苦笑して言った。


「いやほら、いきなりあんなのにくっつかれたら……ね?」

「人騒がせな……」


 濁った目をジトリと向けるが、何にせよ無事ならばそれでいい。

 それよりも、周囲のこの状況だ。見渡すだけで悪寒がし、肌が粟立ってしまう。まるで魑魅魍魎ちみもうりょうの百鬼夜行だ。

 趣味の悪い造形の生物たちはどこからやってきて何を目的としているのか。


 見やれば、混合生物キマイラは好き勝手に動いているだけで、確かに人間を攻撃する様子は無い。先ほどこのスーツの男性の上に這っていた個体も、害意は持ってはいなかったのだろう。


 けれど、それと人間が持つ感情とは別問題だ。耳をすませば、辺りから怒号や悲鳴が聞こえている。いきなり大発生してあの見た目とサイズである、無理もない。


 しかし妙だ。恐らくは堕天の連中の仕業だろうが、人を襲わないという理由が正直分からない。

 しかめ面で思案する大和に、男性が話しかけてきた。


「君、学生さんだろう。やっぱり休校かい? いや私も出社しようとしたんだが、案の定休みになってしまってね」

「……休校?」

「おや、違うのかい? だって今、朝の九時(・・・・)じゃないか」

「――――」


 光の無い目を引ん剥いた。

 朝の……九時? そんな馬鹿なと大和は天を仰ぐ。

 ならばなぜ、こんなにも空が真っ暗なのかと。


「まさか……!」


 息を呑んだ。脳内に湧いて出るのはロゼネリアの尊大な顔であった。


『今の太陽は堕ち、私たちが新たな太陽神を創造する。その黎明れいめいにより、世界を我々天使の一群が照らしていくのです』


 堕ちた太陽に、闊歩する魍魎。


 かつて太陽神である天照が、天岩戸あめのいわとという洞窟に姿を隠してしまった出来事があった。その影響で世の中は暗黒に染まり、暗闇を好む妖魔が跋扈する世界になってしまう。

 幸い、その場は他の神々の機転により天照を洞窟から連れ戻すことに成功したため、世界は太陽と安寧を取り戻すことができたのだ。


 だが、この状況はその当時とはまるで違う。天照を内包した美琴は黄泉に堕ち、そして頼れる八百万の神々も大和の側には現れない。


 そしてこの状況は序章に過ぎないのだ。漆黒の世界に化け物が這い回るこの事態が可愛く思える未来が待ち構えているだろう。

 なぜならば、ロゼネリアら天使たちが昇らせる太陽など邪悪なものに決まっている。恐らくは、夜に浮かぶ銀の月と同種の存在に違いない。


「…………」


 そして、もう一つ疑念が浮かぶ。

 太陽が堕ちたということは、つまりその光が地上を照らさなくなったということ。

 闇一色の景色は銀色の夜を思い起こさせる。


 つまり、人々は昼の時間帯でも荒み、攻撃的になってしまっているのではないかと、大和はスーツの男性を改めて見据えたのだ。


「……ハッ。ハア……ッ」


 疑心暗鬼が膨れ上がり、我知らず呼吸が速まる。

 夜の人間の怖さは差異こそあるものの、決して友好的なものではない。酷い者は暴虐に身を委ね、容赦無しに他者を傷付け愉悦する。


 もしここで男性が豹変し、罵詈雑言を放ちながら襲い掛かってきたのなら、ただでさえズタズタになっている大和の心は木端微塵に砕かれて、二度と他人を信用できなくなってしまう。


 ぐらつく目線、震える手足。さっさと立ち去れば良いのだが、縫い付けられたように身体が動いてくれないのだ。

 死刑宣告でも待つかのような大和に飛んできた声はしかし、「どうしたんだい?」という気遣うものであった。


「え……?」

「いや分かるよ、分かる! いきなりこんな真っ暗になっちゃ不安になるのも無理ないよね」


 呆けた大和に、なおもサラリーマンは邪気の無い言葉を続ける。


「けどさ、まあどうにかなるよ。世間じゃ大騒ぎだけど、反面私のようにとりあえず出社しようとする人もたくさんいたし、案外みんな図太いのかもね。それに、君のような若者がいる限りは日本は安泰さ」

「俺……のような?」


 光の無い目を歪める大和に「それはそうだよ」と男性は言った。


「君は見ず知らずの私のためにわざわざ駆け寄ってきてくれて、あんな怖い生き物を素手で追い払ってくれたんだもの。そうそう出来ることじゃないよ、本当にありがとう!」

「……っ」


 屈託の無いお礼の言葉に、大和はその双眸を丸くする。


「えーっと、こんなものしか無いけど貰ってよ。お礼というには安すぎだけど」

「あ……」


 缶コーヒーだった。先ほど買ったのだろう、ほどよい熱さである。

 じんわりと、手から伝わるその熱が全身へと浸透し、凍りかけた大和の心を溶かしてゆく。濁った目を揺らしながら、やがてその視線を男性に向けた。


「あの、もし……」

「うん?」

「もし俺が……九分九厘不可能なことを成し遂げようと動いたら、どう思います?」

「そりゃ応援するさ!」

「――ッ!」


 晴れやかな笑顔であった。


「君が私を助けてくれたこととは関係無しに、ね。不思議と君は、何か大きなことを達成してしまいそうな雰囲気がある。まあ、もう少し君は笑った方が良いかもだけれど」


 しかめ面ばかりしてると福が逃げちゃいそうだからねーと、サラリーマンの笑い声を俯きながら聞く大和。

 人はまだこんなにも明るく笑えるのだ。こんなにも暖かな声を掛けてくれるのだ。


 確信した。

 太陽は――まだ堕ちてはいない。


(美琴……!)


 大切な者の顔を、笑顔を思い浮かべる。

 そして――決心する。もう一度、その陽色ひいろを世界に呼び戻すために。

 地上を照らすのは第六ティファレトではなく、天照なのだと。


 ギュッと缶コーヒーを握りしめ、瞑目していた双眸を静かに開けて顔を上げる。

 その両目には、再び光が宿っていた。


「……っ」


 瞠目する男性の視線を受けながら、大和は缶コーヒーのプルタブを開けて一気に呷り、溜まりに溜まった溜飲と共に腹の中に流し込んだ。

 その体勢のまま数秒過ごし、右手をグンと下げた大和は勢い殺さず頭を下げた。


「ありがとうございました!」

「ど、どうしたの? なんだか急に良い顔になったね」

「吹っ切れました。俺、頑張ってみます」


 踵を返す。男性の声援に後ろ手で応えつつ、大和は全力で自宅へと駆けていく。

 スチール缶を握り潰しながら、速く、速く、力強く。

 家のドアを開け、タオルを引っ掴んで洗面所へと駆け込んだ。


(くそったれが……! 情けねえ!)


 がしがしと顔を洗う。弱々しかった自分と決別するかのように。


 洗面し終えた大和の目に入ってきたものは、瘴気に侵された美琴のリボンであった。

 テーブルの上にあるそれを掴み、右手で瘴気を払って滅菌する。

 そしてその紅いリボンを、ギュッと手首に巻いた。


(待ってろ……美琴!)


 支度を終えた大和は勢い良く家を飛び出した。


 ――テレビは、どのチャンネルも同じ内容であった。

 当然だろう。この暗闇と奇怪な妖魔は人々をパニックにさせるには十二分なのだから。

 終末論が囁かれたり、大量のダストや未知のウィルスが地球を覆ったという説など、様々な憶測や議論がなされていた。


 そして、美琴の両親には嘘をついた。

 自分の家に泊まっていると。外の状況に不安になり、疲れて眠っていると。

 たびたび美琴が大和の家に泊まりがけで遊ぶことがあるからこその嘘だ。信用されているといえば聞こえは良いが、やはり心苦しかった。

 でも、その嘘を真実とするために決起したのだ。必ず美琴をこの世に連れ戻すと。


 目を眇める。飛び込んでくるのは昨日と変わらずの濃い瘴気。

 それがどうしたと言わんばかりに、大和は墟街地の大地を再び踏みしめていた。


「ほう……。ずいぶんマシな顔になったじゃないか」


 聞こえてくる勝ち気な口調に、威勢良く言い放つ。


「あんたの言葉を信じてここに来た。早くおっ始めようぜ」

「ふん、その意気だ。おい八咫烏」

「あいよー」


 目配せされた八咫烏が曹玲の肩から離れ、その総身から霊力を発しつつ、虚空に向かって図形を描くように飛び回る。


 すると――


「なんだ……そりゃ?」


 目を丸くした大和は思わず問い掛けていた。

 何もない空間に奇妙な陣が描かれていて、陽炎のように揺らめいていたからである。


「かつて熊野くまのに一柱の神が舞い降りたとき、一羽のカラスがその場を案内したという」

「それこそがこの俺だぜー。ケケッ」


 笑う八咫烏を肩に止まらせ、不可思議な陣に近付いていく曹玲。

 なおも驚いて見据える大和を尻目に、曹玲は魔力の図形に向かって手首をスナップさせた。

 バギン! という轟音。次元が割れ、その隙間から違う景色が覗いてくる。


「ようこそ、熊野へ」


 空いた亀裂に足を掛け、不敵な笑みを浮かべて曹玲はそう言った。

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