立て
「これはまた、懐かしい顔ですね」
割り込んできた少女に向かい、相好を崩したロゼネリアは静かに問いかけた。
「ねえ、曹玲? 諦めるのが早いというのはどういう意味かしら?」
対する曹玲は、「さあな」と勝ち気な笑みを浮かべる。
「それにしても相変わらずくだらん笑みを貼り付けているじゃないか、ロゼネリア」
「昔のようにロゼとは呼んでくれないのですね?」
「昔を懐かしむほど歳を取ったようだな、貴様は」
「たとえ手元から離れても、あなたのことは我が子のように思っていますから」
「ほざけ。反吐が出るよ」
「ふふ……」
曹玲の不遜な態度に、落ち着いた嬌笑で返すロゼネリア。
一方、気勢を削がれた幼い堕天が、愛くるしい顔を歪めて烈火の如く怒り出した。
「なんであんたが生きてんのよ! この裏切り者のバカ女!」
シェイク・キャンディハートのヒステリー。
頭上の輪を感情と共に発光させ、蛆と瘴気を止め処なく放出させる。
グチュグチュと、不快にのたくるそれらはしかし、曹玲に痛痒すら引き起こさせることができていない。
同時に曹玲は膝を折っている大和の前に立って瘴気の渦の壁となり、駄々を捏ねる子供にでも言い聞かせるような口調でシェイクに告げた。
「つまらんことでいちいち癇癪を起こすな。堪え性の無さは畜生以下だな」
「ケケッ、放し飼いにされてるから節操無しに喚くんだろなァ! 犬っころみたいにリードでも付けてもらった方が良いんじゃねえのかお嬢ちゃん!」
「なん……ですってぇ……!」
曹玲と八咫烏の言に、眼差しを裂いたシェイクの怒気が増幅される。
ぶるぶると震える彼女であったが、やがて「ハン!」と呼気をはいてふんぞり返った。
「えっらそーに! 第五にやられたくせに威張るなバーカ!」
「……」
ピクッと、曹玲の片目が僅かに動いた。
「あれあれー? 怒った? 怒っちゃったの? そりゃそーよね、しぶとく生き残ったみたいだけど、天使の力は無くなってんじゃん! で、寂しいからってキッショイ鳥なんか連れちゃってさー。お似合いじゃん、元第七さん。にゃははははははっ!」
「本当によく喋るなお前は」
左腕をポンと上げ、改めて八咫烏を肩に止まり直させてからやれやれと息をつく。
「慎みってものを知らないのか?」
「あんたに言われちゃおしまいだっつーの! ザコ!」
「その辺にしておきなさい、シェイク」
曹玲とシェイクのやり取りにロゼネリアが割って入る。
「それにしても第五にも困ったものですね。曹玲は始末したと、ちゃんと報告はしてきたのですが。やれどうしたものでしょう」
「え、ちょっとロゼ、マッカムをどーするの?」
ロゼネリアの不穏な気配を感じ取ったシェイクが狼狽えつつ彼女に問うた。
「あいつはちゃんとやったんだと思うよ! ただあのバカがしぶとかったってだけで。……そーだ! 今からあたしが曹玲を殺すから、マッカムを許してあげてよ!」
「本当にあなたはマッカムのことが好きなのですね」
「うん! あいつ良いやつだもん! オカマでキモいけど!」
シェイクにしては珍しく、邪気の無い笑顔であった。
ロゼネリアも微笑み返し、シェイクの頭に手を乗せる。
「もちろん罰など与えませんよ。彼なりに命令を聞き、動いた結果ですから」
「よかったー! だからロゼも好き! じゃ、あたしがさっさと――」
「いえ、あなたが曹玲を殺す必要もありません」
「えー? なんでぇ!?」
不満の声を上げるシェイクにもう一度笑いかけ、ロゼネリアは曹玲に向き直る。
「御覧なさいな、曹玲のあの姿を。以前の輝きは失われ、今や見る影もありません。奇妙な力を手にしたようではありますが、私たちを害することはできません」
価値のある宝石も打ち捨てられて傷付けば、路傍の石と大差は無いと、そうロゼネリアは言っている。いくら研磨してごまかそうと、所詮それは劣化品に過ぎないと。
つまり、放っておいて問題無いのだと。
だが、対する曹玲は強気の視線を崩さない。
「言ってくれるなロゼネリア。確かに私は天使の力を失ったよ。まあ、だからといって黙ってやられてやるほど諦めも悪くなくてね」
「ほらー! あんなこと言ってるよ! 生意気だし裏切り者だし殺しとこーよ!」
「虚勢ですよ。誇り高かった彼女が一生懸命。ふふっ、可愛いじゃありませんか」
「かわいくなーい! うざいー!」
不満を垂れるシェイクであったが、口許に手をやって笑うロゼネリアを見てしぶしぶ大人しくなる。
「我々はこれから座して待てばいいのです。天照が沈んだ今、いずれ第六――太陽のセフィラが本格的に覚醒しますので」
「第六の恩寵を受ける者は?」
曹玲の問い掛けに、「決まっているでしょう?」とロゼネリアが含み笑う。
「チェルシー・クレメンティーナですよ。あなたも良く知っている」
「お前なんかと違って良い子だからねチェルシーは。バーカ!」
「……そうか」
僅かに顔を顰めた曹玲に、なおもロゼネリアが続けた。
「新たな太陽が昇るその時こそ、生命の樹は完成します」
「邪悪な樹の間違いだろう?」
「さて、どうでしょうか。行きますよシェイク」
「はーい」
曹玲の皮肉を受け流し、ロゼネリアとシェイクは踵を返す。
その途中で振り返り、
「ああそうそう、何か企んでいる様子ですが、妙な真似はしない方が身のためですよ。お二人共に拾った命、せめて大切にお使いなさい。特に、ね? 八城さん」
「あたしはべつに来てもらっても良いけどねー。あの女と同じくぶっ殺してやるから。きゃははははははははは!」
「…………」
八城大和は何も答えない。
ただひたすらに下を向き、重なる絶望に打ちひしがれているだけだった。
それを眺め見たロゼネリアは目を細め、シェイクは高笑いを決め込んでいた。
そして二人が姿を消すと、ふうっと曹玲は息をつく。
「立てるか?」
膝を付いた大和に手を貸す曹玲だが、「……必要ねえ」と彼は自力で起き上がる。
「……一体何なんだよ、あんたら」
「それもおいおい話してやるさ。とりあえず私に付いてこい」
「はっ……」
乾いた笑いだった。皮肉が混じり、あらゆるものを諦観して漏れ出た感情。
「得体の知れない奴に付いていけだと? ごめんだね」
「悪い話じゃないと思うがな」
「この……!」
尊大な態度を崩さない曹玲に、大和はささくれ立った感情の矛先を向けて唸る。
「さっきから聞いてりゃふざけやがって……! あんたあいつらの仲間だったんだろ。美琴を殺した天使どもの……ッ!」
「そうだ。私もかつては奴らの同胞だった」
「ぬけぬけと……!」
「そう熱り立つな」
なおも瞳孔を剥く大和に「悪い話じゃないと言ったろう」と視線を向ける曹玲。
そして曹玲は、大和の目をしっかり捉える。
一瞬たりとも離さずに。僅かばかりも逸らさずに。
じっと見つめ、その強固な意志を秘めた双眸を輝かせながら告げた。
「彼女は、神崎美琴は、生き返ることができる」
「……あ?」
今……何と言った、と。
八城大和の脳内でその言葉が幾度となく反芻される。
何度も。何度も何度も何度も何度も何度でも――
――カンザキミコトハ、イキカエルコトガデキル。
「……くそが…………」
犬歯で唇を噛み切った大和の微かな声音。
次いで迸発されたのは、気泡を生み出すほどに燃え滾る灼熱の怒りであった。
「ぶっとばすぞこの野郎!」
生き返る。蘇る。それは今の大和にとってどれほど魅力的な言葉だろう。
実際彼自身、縋るようにロゼネリアにそう懇願した。無様に頭を下げて願った。
だがそうする一方で、大和だって理解しているのだ。人が生き返ることなどありはしないと。
生と死、その境界線は絶対的なもので、越えることも潜ることも決して叶わないのだと。
けれど、それでも大和はそうせざるを得なかったのだ。認めたくない気持ち。取り戻したい気持ち。爆発する感情の前には理屈など木端に砕かれる。濁流の中でもがき、必死に藁を掴もうとするのは条件反射なのだから。
そしてそれこそが人間という生き物なのだ。泣いたところで過去は変わらない。
しかしそれでも、無駄だと分かっていても声を上げて涙を零してしまう。当然だ、彼らは機械ではないのだから。
だがそれは非常にデリケートゆえに、本人以外には不可侵の領域だ。
希望を孕んだ甘い言葉は、患部への掘削行為に他ならない。
「舐めたことぬかしやがって! 俺をおちょくってそんなに可笑しいかよ!」
「熱るなと言ったろう。頭を冷やして少し落ち着け」
大和を宥める曹玲の肩の上で、八咫烏が「おいおい坊ちゃん」と横槍を入れてくる。
「お前さんの常識で考えるなよ。俺たちゃちっと普通じゃないぜ」
「っ……」
言われて歯噛みする。
黒髪の少女の方は瘴気が効かない元天使。
その肩に止まっているのは三本足の、しかも喋るカラスと来たものだ。
大和とて八咫烏の伝説は知っている。様々な伝承を持つ聖なる鳥だということを。
握り込んだ拳が、緩んだ。
怒らせた肩を常態に戻し、逸る呼吸をどうにか落ち着ける。
「仮に……あんたらが本当に美琴を救い出す方法を知っているとして……」
だがしかし、これだけは聞いておかねばならない。
「あんた達……今日こうなることを予測していたのか?」
その言葉に、その視線に、全ての意味を込めた上で問うた。
曹玲と八咫烏は――神崎美琴が天使に殺害されることを知っていたのかと。
思えば不自然が目立っていた。いや、言い換えるならば今までの道筋は整備された川のように都合の良い流れだったのだ。
美琴の負傷、ロゼネリアの診療所、銀闇の夜、墟街地、イルカの報道、堕天の降臨、そして――
考えれば考えるほどに疑念が膨らむ。
あのタイミングで割り込んできた曹玲たちは、美琴が死ぬと分かった上で、何もせずに傍観を決め込んだのかと詰問したのだ。
それに対し、曹玲は眉を動かすことなく答えた。
「ああ、そうだ」
「――てんめえ!!」
悪びれることのない無表情を通す曹玲に、とうとう大和の怒りが爆発する。
目を剥き牙を剥き、烈火の感情のまま曹玲に掴みかかろうとして――
「少し黙れ」
「が――――!?」
逆に砲弾のように弾き飛ばされた。
みぞおちに、軽く触れる程度の曹玲の裏拳。だというのにその衝撃は人智を遥かに超越していた。
自らの身体で木々をへし折り、ぶち抜きながらなおも吹き飛び後退する。
そして、ようやく大樹の幹に叩き付けられたところで停止し、血反吐を撒きながら地面に落下した。
「か……はっ……! がぁ……! げほ、ごほ……ッ!」
数瞬遅れて頭上からパラパラと降ってくる木屑を浴びつつ、酸素を全て吐き出し、胸を押さえて蹲る大和に檄が飛んできた。
「痛いか! 苦しいか! だがな、彼女は今のお前とは比較にならん程に苦しんだんだぞ! それを助けたいとは思わんのか!」
「ッ…………」
痛みと脳震盪で飛びそうになる意識を穿ち、無理やりに覚醒させてくる怒号の棘。距離はあるが意味はない。
「私たちの責任にして自分を慰めるつもりか! 見誤るな! 甘ったれるな! 矛先を変えて喚いたところで何一つ変わらんのだ!」
激しい発破とシンクロするように、烏羽色のポニーテールが天を衝く。
一声一声に念が込められ、その威武で小動物や妖魔が我先にと逃亡する。
対し、八城大和は何も答えられない。寸分狂わず事実だったから。
少しの間を置いて、曹玲は口調を和らげてから告げてきた。
「顔を洗う時間をやる。明日の正午、墟街地で待っている。神崎という少女を助けたいならば来い」
「ま、気楽に来いや。待ってるぜー」
曹玲と八咫烏はそう残し、林の中から去っていった。
取り残された大和は、全身の痛みと心の痛みに顔を顰めて歯軋りをする。
そこで、雑草の踏み鳴らされる音が夜闇に響いた。
「八城さん……、あの……」
チェルシーであった。制服姿のまま、ばつが悪そうな表情を浮かべて視線を泳がせている。
「なんの、用だよ?」
「…………っ」
自分でも驚くほどに冷え切った声音であった。
氷の刃となったそれはチェルシーの肝を冷やし、凍りつかせていた。
「美琴……死んじまったよ」
「…………」
夜ゆえによく通り、木々に反響するその言葉。
微かに大和の耳朶に届いたのは、震えながら握り込んだ手が引っ掻いたスカートの音だった。
「お前の顔なんか……見たくねえや……」
一切目を合わせず、吐き捨てるように絞り出した言葉に、「……はい」との返事。
そしてチェルシーは、起伏の無い無感情な面持ちで、
「さよなら、八城さん」
「……」
言ってから歩き出し、大和の方を振り返ることなく、姿が見えなくなるまで歩んでいった。
「……くそったれ!」
遣る瀬無い感情をぶつけるため、固めた拳を地面に叩き付ける。
瘴気はもう、影も形も存在していなかった――




