黄泉の堕天
血の臭いが充満し、そこかしこで炎が音を鳴らして燃えていた。
それらに混ざるのは、吸っただけで致命となる悍ましい瘴気である。
忘れ去られた廃墟の街で、延々と木霊するのは悲鳴と懇願だ。
命乞いの声が上がり、断末魔が響き、やがてそれらは搔き消えて。再び絶叫が発せられる。
その、繰り返し。
ここはまさに地獄絵図。血肉が撒かれて燃やされて、積み上がるのは屍の山。
死屍累々としたそれらを嘲笑うかのように照らすのは、煌々と輝く銀色の月であった。
「るーん、パッパー、ルッパッパー」
凄惨な様子をありありと晒す現場にて、呑気な鼻歌が奏でられていた。
それを発するのは、まだ十代になって浅いだろう見た目をした、小さな英国人の女の子である。
腰まで届く見事な金髪とミニスカートを風に躍らせ、ブチュブチュと足元の死体をトングサンダルで踏み潰しながら歩いていた。
明らかな異端。
夥しい量の血に塗れているそれは少女自身のものでは――ない。
彼女は捕食者。月光により妖しく反射する紅の衣服は返り血により染まったもの。
少女の獲物となった、身動き取れない哀れな女子大生が泣き叫ぶ。
「ひっ! ひいっ! お、お願い! 許して! 助けて!」
「もっちろん! 許す許す! 安心してよ!」
張り裂けるような命乞いを耳にして、幼い少女は無邪気に返す。ただただ無垢に、自然体に。
対する女性は一歩も動けぬありさまだった。
恐ろしさに腰を抜かしている事実もあるが、しかしそれは些末な問題だった。
「ほ、ほ……んとぅ……? あ、ぐ…………っ」
一瞬だけ安堵の表情を浮かべた女性の顔が、嫌悪と恐怖に塗り潰された。
もぞりと、辺り一帯に湧く黒い靄が蠕動し、震える全身を侵していた。
この可視レベルの瘴気が彼女に寄生し、根こそぎ自由を奪っているのである。
「……ぃぃ、ぁ……! ぁ、ははぁ……っ……」
彼女は笑った。だらしなく、媚びるように。
一緒にいた友人は皆惨殺された。次なる標的は自分だと、女子大生は解剖される実験動物にでもされたような絶望に突き落とされていた。けれど、許すと、助けてやると、言ってくれたのだ。
その光明に縋り付き、愛想笑いを浮かべた女性の足を、にこにこと笑う少女が突然踏み潰す。
「ぃい――ぎぃ!? あ、ぐ……ッ! や、やだやだ死にたくない! 死にたくない!」
「だいじょぶだいじょぶ何もしないって。じゃ、まずは背中からねぇ?」
「ひ――!?」
対話などまるで意味を為さない。
金髪の少女は女性の背中に人差し指を突き込み、ズブズブと深く差し込んでいく。
悲鳴を上げることすら許されない。反射的に仰け反ったその喉元を、空いた手の指先で薙ぐようにして切り裂いていたから。
「コ――プ――――」
「キャッハッハッハッハ! すっげぇ顔ー! すっげえブスだよこいつ! バーカ!」
恐怖と痛みから、絶望に歪ませている女性の顔を、英国人の少女は指を差して嗤笑する。
悪魔というのも生易しい。その愛くるしい見た目ゆえ、なおのこと戦慄する。
「ねえねえ、死にたくない? 助けてほしいー?」
その口角を、空に浮かぶ三日月のようにニタニタと歪めながら、愛らしい羅刹の少女は死に瀕した女性に問いかけていた。
「ぁ……、ぁぁ…………」
もうダメだ……。死ぬ……。
女性の脳内が『死』一色で塗りつぶされていた。
だが、それでも、黙って殺されることだけは嫌なんだと、必死に身体に鞭を打ってコクコクと首肯するのは、人としての生存本能だろうか。
涙をだだ漏らしての懇願はしかし――
「あー、泣いちゃったー。拭いてあげなきゃじゃーん」
ただ茶化す。イジメの現場を見た小学生が、先生に告げ口するぞと言うような声のトーンで、その少女は女子大生を見下ろしてから、ゆっくりと立ち上がった。
すると彼女の頭上に白金の――そう、まるで天使の輪のようなものが顕現されていき――
そして――虚空に向かい、友達でも呼ぶかのように声を上げた。
「おいでぇ、迦具土」
瞬間、堕天の少女の背後に轟々と火柱が迸った。
威圧するような派手な焔の音に、景色すら歪む極大の陽炎が発生している。
全長十メートルはあるであろう、巨大な蜥蜴のような見た目をした炎の神――迦具土。
その威武と覇気で、周囲を熱線と光で蹂躙し、死体や廃墟を炭クズへと変えていく。
邪悪な明かりで照らされたのは、更に上を行く邪悪な天使の顔、その嗤い。
「――――…………」
奇跡など絶対に起こらない。確実な死が待っている。
女子大生はこのとき後悔した。
遊び半分で、立ち入りを禁止されている地域に足を運ぶんじゃなかったと。
サークル仲間との肝試し大会は、自分たちが死霊の仲間入りになるという皮肉な結果で幕を閉じることになってしまったのだ。
これは天罰なのだろうか? 愚かにも神の巣穴を突いた人間への。
諦観の混ざった彼女の思考は、爆ぜる炎熱によって永久に途絶した。
「きっひひひひひ! あははははははははは! 燃えちゃえ燃えちゃえ死ね死ねーッ!」
肉塊になってなお、粉微塵の灰と化して地面に混ざる被害者たちに罪など欠片も有りはしない。
ここは紛れもない現代日本。
だというのに、救いは無く慈悲も無い。倫理など蹴飛ばされて打ち捨てられる。
「あははははははははは! キャハハハッハハハハハッ!」
堕天の哄笑が死者を躙るが如く、いつまでも響き渡っていた。
黄泉の国を蠕動させる可愛らしい醜女の嗤いがひたすらに。
彼女は天使。反転した生命の樹を守護する堕天が一人。
第十の、シェイク・キャンディハート。