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暗い森  作者: 工藤るう子
2/3

中編

 18禁にはいたらないとは思うのですが、グロテスクな表現がありますので、苦手な方はご注意ください。



※ ※ ※




 この森のどこかにあるという館に、エリクシルがあるという噂は古くからあった。が、さすがに、夢物語とみなされるほどに創り出すのが不可能な賢者の石を作ったと噂される魔術師の棲みすみかである。森に足を踏み入れたものたちは、リング・ワンデリングの罠にとらわれ、森を出ることも館にたどり着くこともかなわないままで、飢えて果てる運命にあった。


 ならば、なぜ、噂があるのか。


 それは、ザンテと名乗る男の故である。


 リング・ワンデリングの術がかけられているということは、この森に関係するものが、少なくとも魔術を心得ているということだ。


 踏み込んだものたちが出てくるのを目にしたものも、噂を聞いたものも、いはしない。にもかかわらず、いつごろから存在するのか、時折りなにがしかの用で森から里に出てくることのあるその男は、少しも年老いることがないというのだ。姿かたちが変わらない。その秘密を、ひとびとが、殊に魔術師たちが、賢者の石と結びつけて考えるのは、無理からぬことであったろう。


 そうして、幾十幾百もの野心家たちが、この森に踏み込んだ。


 しかし、館にたどり着けたものは、皆無であった。


 これまでは―――――






 獣じみた呼吸に、噛み殺しそこねた悲鳴が混じる。


 下卑た笑いと、異臭。


 血に酔った男たちが、饗宴を繰り広げる。


 供物は、ひとりの青年。

 

 むき出しの床板の上では、黒い犬から流れ出した血にまみれて、黒い髪と瞳の青年が、血に酔った男たちに蹂躙されていた。

 

 青年の滑らかな白い肌には、いくつもの、決して浅くはない傷が穿たれ、赤黒い液体を流しつづけている。少なからぬ量の血が、青年のからだから、失われていた。


 青年――メルローズは、朦朧とした意識の中で、ただ恋人の面影を追っていた。もはや何をされているのか、凄まじいばかりの熱と寒さとにかわるがわる襲われ、理解してはいなかった。


 力なく横を向くメルローズの白くかすんだ視界には、恋しい、欝金のまなざしがある。――それは、彼の愛犬の瞳であったが、もはや、メルローズには区別がつかなくなっていた。


 自分を穿つ灼熱が、その瞳の持ち主のものであるのだと、縋りつくようにただ、光をなくした欝金のまなざしを見つめつづけていたのである。




※ ※ ※




 ザンテが帰宅したのは、館を出てから四日目の朝であった。


 森に一歩足を踏み入れるなり、背筋がざわりと粟立つ。


(空気が、違う。破るものがいたのか)


 ぺろりと、赤い舌がくちびるを、舐め湿した。


 きな臭いとでも表現するしかないような、不穏な空気が森に充満している。


 それは、足を速めたザンテが館に近づくにつれて強烈になっていった。


 館周辺の結界が一部わずかに綻びていることに気づいたザンテは、欝金の瞳をゆるりと閉じた。


 一刹那の後まぶたを開いた時、そこには、縦長の瞳孔の、ひとならざる証の瞳があった。






「メルローズ!」


 血の匂いをたどったザンテの足が、らしくもなく、開け放たれたままのドアのところで、止まった。


 割れた窓ガラス、裂かれたカーテン、叩き割られたソファとテーブル。


 簡素ではあったが居心地の良かった居間の面影はない。


 足が動かない。


 目の前の光景が信じられないのだ。


 朝の、昨日の出来事をすべて洗い流したかのように、すがすがしい陽光に照らし出されて、そこに横たわっている、もの。


 どうして、信じることができるだろう。


 たとえ、たしかに、今、目の前にあるものだとしても。


 意識が、それを認めまいとして、黒い犬の骸に向かう。


「メルが悲しむ」


 そのメルローズはといえば、ヴィイから少し離れた場所で、既に息をしてはいない。


 それを見ることもできず、カッと見開いたままの自分のに似た欝金の瞳を閉ざしてやり、ザンテは、現実を拒むかのように、その場に佇みつづけた。




※ ※ ※




 寒くて寒くてならなかった。


 メルローズ―――


 遠く近く、自分を呼ぶ声がする。


 それは、恋しいひとの、声だ。


 額を撫でる、乾いた掌。


 ああ――


 心の奥深いところに芽吹いたのは、これ以上ない歓喜だった。


 大好きなひと―――


 しかし、この寒さは、なぜなのだろう。


 うれしさの裏側に寄り添っている、苦痛は。


 目覚めてはいけないと、ささやきつづける何者かの声が聞こえる。


 おまえは、目覚めてはいけないものなのだ―――――と。


 どうして?


 当然の疑問。


 しかし、それに答えてくれるものは、いない。


 ただ禁止だけを口にしつづける姿のないものに、うれしさに水をさしてくれたことに対する反発ばかりが、わだかまってゆく。




 ――目覚めてはいけない。


 なぜ? やっと、彼に会えるのに。


 ――いけない。


 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。


 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。


 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。


 ――ザンテ。


 恋人の名前を口にする。


 こんなにも会いたくてならないのに。


 愛しいものの名前を味わうように、口にする。


 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。


 だから! 


 からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、メルローズは、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。




※ ※ ※

 



 ザンテの、少し神経質そうな白皙の顔が目の前にあった。


 金色の瞳に縦長の瞳孔を持つ、白銀の髪の魔術師。


 伸ばされた白い指先が、メルローズの目元を拭い、


「どうした?」


と、問う。


 泣いているつもりなどなかったメルローズの白い頬が、朱に染まる。


「よかった」


 そう独り語ちると、ザンテは静かに立ち上がり、メルローズに背を向けた。


「待っ」


 押し出すようにしてかけた声はかすれて、最後まで発声することができなかった。

 

 手を伸ばそうとして、できなかった。


 慌てたメルローズは起き上がろうとして、全身の痛みに呻いた。


(なんだ――これ)


 何日も眠りつづけて筋力が衰えたような、力のはいらなさに目を剥いた。自分のからだが、自分のものではないかのように、頼りない。


 起き上がることもできない。


 ようやくのことで上半身を捻ることに成功したが、逆に勢いがつきすぎた。


 ずるりとベッドから上半身を落としかけたメルローズに気づいたザンテが、引き返してきた。メルローズの体勢を寝よいように整え、上掛けを顎の下まで引き上げてやる。


「焦るな。おまえは一ト月近く病気で寝たり起きたりしていたんだ」


 記憶にないことに小首を傾げたメルローズの黒い瞳を覗き込み、ひとが悪そうな笑顔を見せる。


「どうした。なにも覚えてないのか? おまえの名は? 私のことは?」


「ザ………ザンテ」


 こみあげてくる熱いかたまりが喉元にわだかまって、声がますますかすれる。


 滂沱と流れる涙に視界はかすみ、恋しくてならない欝金の瞳が宿しているだろう、皮肉げな光を見ることができない。


 ザンテがメルローズの髪を優しく撫でた。


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