目覚まし時計が鳴った朝
学校が始まって、アタシ、三女・椿はまた戦場に駆り出されることになった。名門私立のお嬢様の環の中へ。
夏休みと同じように、アタシは「おはよう」を繰り返した。お嬢様たちはにこやかに応対する。
「東谷様、ごきげん麗しゅう。夏休みはいかがお過ごしでしたの?」
それがさあ、と、アタシは話し始めた。
「うちの次女と学んとこの次男がデキちゃってさ」
ところがクラスメートの大半は、デキたの意味が分からないようだった。全員、小首を傾げてアタシを見ている。
「付き合ってんの」
と言い直すと、その瞬間、厳密に言えば十秒後、ええっ、と驚きの声が上がった。
「従兄妹同士じゃございませんこと?」
「うん。でも護兄ちゃんは、好きなんだからそんなもん関係ねえって言ってたよ」
「まあ・・・・・・」
という呟きは、全員一致だ。それから更に十秒後、「なんて素敵!」とみんなは言った。
「ラブロマンスですわね。みなさん、憧れでしてよ」
「だよね。こっちも恋したくなっちゃうよね」
そうしてアタシたちの話は恋バナに発展していった。サッカー部のキャプテンがかっこいいだの、野球部のエースは優しいだの、女の子同士の他愛ない会話。
夏休みの間に知り合った男の子に恋している、などというお嬢様のカミングアウトを聞きながら、アタシはここがホームになったことを実感していた。
ここは戦場。でも敵地じゃない。
そう思えるようになったことが、アタシには何より嬉しかった。
しばらくすると担任教師が入ってきて、アタシたちはしぶしぶばらけた。朝礼が始まったので聖書を取り出す。アタシの聖書はとっくの昔に届いていた。だけど、アタシはそれを使うことが出来ずにいる。未練がましく傑兄ちゃんのお古を使う自分を危ないなあとは思うけど、と、アタシはぼろぼろの聖書を開いた。
これだけでも手元に置いておきたいと望むのを、アタシはアタシに許してあげたい。
放課後になり、アタシは久々の部活に、でももうビビったりはしなかった。学が恋した場所だと思うと、なんだか感慨深くすらある。
久々に顔を合わせた新堂先生は、相変わらず静かに微笑む彫刻のようだった。やっぱりあのお化け屋敷のオバケに似ていると思ったのは、学には内緒にしておこう。
「東谷椿さん、お久しぶりです。夏休みはいかがでしたか?」
「片道五キロのロードワークに、意味なく付き合わされたりしました」
柔らかな笑顔を浮かべる新堂先生の頭の上に、クエスチョンマークが見えた気がした。なんか美術部員っぽいこと言わなきゃ駄目かな、と、アタシはもう一度口を開く。
「向日葵の絵の話を学としたり」
「向日葵の絵?」
聞き返した新堂先生に、おや、と思った。一緒に見に行ったはずではないのか。
そう尋ねると、新堂先生は「参ったなあ」などと言って頭をかいた。
「本当は良くないんです。特定の生徒を連れまわすのは。でも、そうですか。西園寺君、喋ってしまったんですね」
「超浮かれてました」
アタシが言うと、新堂先生は「そうですか」と笑みを深めた。
「あの、それってえこひいきとか、そういう話になっちゃうからですか?」
「そうですね。私は、そう言われても仕方のないことをしていると思います」
「それって、つまり、先生は・・・・・・」
学のこと、特別に目をかけてくれてるの?
そう尋ねたかったけれども、出来なかった。心情的な問題ではない。部室に入ってきた学が、「椿ちゃん!」と、半ば叫ぶようにアタシを呼んだからだ。
「先生となに話してたの?」
学の慌てように、アタシはすっかりしどろもどろになっていた。別に悪いことしたわけでもないのだから、そうする必要は全くないのだが。
すると新堂先生が、アタシと学を見比べて少し笑った。
「大丈夫ですよ、西園寺君。東谷さんを取ったりしませんから」
そうじゃないのに、と、思った。それは学も同じように感じていたに違いない。アタシはなんだか居たたまれなくなってしまって、ちらっと学に目をやった。学は下を向いていて、唇を噛んでいるようだった。そして、言う。
「ほんとに、もう、先生やめて下さいよ。椿ちゃんは、ぼくの親分なんですから」
「親分?」
不思議そうな新堂先生に、学は頷いた。
「そうです。ぼくはずーっと、椿ちゃんの子分なんです」ね、椿ちゃん。そう言って向けられる学の笑顔が、アタシにはなんだかすごく痛々しく見えた。
「そうでしたか」
新堂先生はにっこりと笑う。そして、人差し指を口元に立ててみせた。
「ですが西園寺君。いくら親分さん相手でも、おしゃべりは駄目ですよ」
悪戯っぽく言う先生に、学は「はい!」と片手を上げる。
「もう言いません。内緒にしてます、新堂先生」
笑っておどけるしかない学の気持ちが、手に取るように分かった。
笑うしかないんだ、アタシたちは。アタシは傑兄ちゃんを思い出す。笑っておどけて、頭の悪いふりをしていなければ、アタシも学も、きっと壊れてしまうから。
それを実感したのは、その日、西園寺家に帰ってからだった。
学も夏休みが終わると同時にアタシと一緒に歩いて登下校していたから(護兄ちゃんは猛反対してたけど)、アタシたちは二人一緒に帰路についていた。
玄関を開けたアタシを出迎えたのは、旅に出ていた母だった。
「椿、おかえり」
「お母さん?」
にっこりと笑顔で佇む母を見て、アタシの語尾が上がったのは無理もない。手にはアカギレ、髪はぼろぼろだった筈の母親は、着ている服も立ち姿も、美しく洗練されていたからだ。
「お昼寝バカンスはどうしたの?」
「一時帰国」
アタシの質問に、母はにこにこしながらそう返した。
「私の可愛いお花ちゃんたちが、ちゃんと枯れずに育っているか見に来たの」
そんな台詞の後で、母は学に目を向ける。
「あら、学くん、こんにちは。相変わらず可愛いわね」
こんにちは、などと律儀に頭を下げる学である。すっかり呆れるアタシをよそに、母は我が物顔で西園寺家の奥へと進んだ。
「船の旅って本当に豪華よ。色んな人に求婚されたけど、全部断ったの」
西園寺家のリビングで、母は「うふふ」などと笑いながら報告した。その隣で、叔母が溜め息をついている。
「あなたばっかりモテるんだもん。そんなのずるい」
「未亡人ってオイシイの」
ほほほ、などと笑う母である。そんな母を、叔母はぎろりと睨んだ。
「どうせ私は既婚者よ。上の息子はもう二十五よ」
そんな悪態をつく叔母に、母は苦笑し、「あら、私だって、上の娘は二十五よ」と言い返していた。そして、「いいじゃないの」と、叔母をなだめる。
「パリに行けば、義兄さんに会えるんだから」
その言葉でアタシは初めて、亡くなった父の兄、つまり学たちの父親が、パリにいることを知ったのだった。
「そうよ! それなのに、傑が呼びつけたりするから! パリ目前だったのよ!?」
母の言葉で憤慨する叔母である。
「傑兄ちゃんが呼んだの?」
と尋ねると、母は黙って頷いた。
そしてその夜、仕事から疲れて帰ってきた傑兄ちゃんを出迎えたのは、何を隠そう、叔母の怒声であった。
「傑! あんたって子は、人を呼びつけておいて遅いじゃないの!」
夜十時のことだ。全員が集まるリビングで、それまで護兄ちゃんや牡丹姉ちゃんたちとモノポリーに興じていた彼女は、傑兄ちゃんを見るなり目を吊り上げてそう叫んだのだ。
「仕方ないだろ、仕事だったんだから」
うんざりした表情で言い返す傑兄ちゃんを、叔母は「ふん」と鼻で笑う。
「相変わらずワーカホリックなのね。お父さんそっくり。やんなっちゃうわ」
むっとして何か言おうとした傑兄ちゃんを牽制して、護兄ちゃんが笑い声を上げた。
「兄貴、勘弁してやれよ。母さん、ゲームで負けていらだってんだよ」
「口はばったいこと言わないでちょうだい、護」
叔母はぴしゃりと言い放つ。そして、傑兄ちゃんに視線を戻した。
「で? 傑、母さんのこと呼び出したからには、それなりの話があるんでしょうね?」夫との再会を邪魔された叔母は、恐ろしく気分を害していた。そんなに怒ることなのかとアタシは首を傾げたけれど、戸惑っているのはどうやらアタシたち東谷家の三姉妹だけみたいだった。母や西園寺家の三兄弟は、普通の顔で彼女を見ている。
「もちろん」
と、傑兄ちゃんは口角を上げた。
「西園寺家の存亡に関わる重大な話だよ、母さん」
「あら、大袈裟。じゃあ、まあ、聞きましょうか」
叔母はそう言って椅子の背もたれに身体を預け、長い足を組み替えた。
傑兄ちゃんはツカツカとこちらに歩み寄り、アタシの隣に座っていた牡丹姉ちゃんの肩を抱き寄せる。大丈夫、と言うように、その手は数回、牡丹姉ちゃんの二の腕をさすった。
「牡丹を西園寺家の嫁に迎えます」
「は?」
この反応は、東谷家長女・牡丹を除く全員がしたものだ。牡丹姉ちゃんは頬を赤らめて、叔母に向かってお辞儀をした。
「そういう運びになりました」
牡丹姉ちゃんのそんな小声を遮って、「ちょっと待って」と声をかけたのは、アタシたちの母だった。
「あなたたちが再会したのって、確か今年の春先でしょ?」
そうよ、と、牡丹姉ちゃんは肯定する。
「いつから付き合ってるの?」
「春の終わりごろ」
「で、いつプロポーズされたの?」
「この間・・・・・・」
この間って、と、鸚鵡返しをした母に、傑兄ちゃんが付け足した。
「母さんたちを呼んだ、前日の夜です」
母はそれを聞いて、素早く計算を張り巡らせているようだった。そして、叫ぶ。
「展開、早っ! ちょっと待ってよ、結婚適齢期だからって、いくらなんでも展開早くない?」
「別に、適齢期だからとか、そんなんじゃないわ」
牡丹姉ちゃんは、それだけ言って俯いた。
「アタシさっ」
と、アタシ、三女・椿は叫び声を上げる。そして席を立ち、「アタシ」と、もう一度呟いた。
「なんか関係なさそうだし、もう寝るねっ」
そうまくし立てるように言って、あたしはリビングを飛び出した。
閉めた扉の向こうから、「幸せにします」と言う傑兄ちゃんの声に耳を塞いで、なんだか逃げてばっかりだと、アタシは情けなさのあまり泣きそうになった。