ガサツな男の苦労話
西園寺家次男、西園寺護の日課は、朝と夕方のロードワークである。その距離、十キロ。
西園寺グループ代表取締役社長の肩書きを持つ彼は、じつはスポーツインストラクターで、役職は名ばかりなのか会社にはあまり顔を出さない。本人も西園寺家が持つ会社や財産にはまるで興味がないようである。
そんな彼がある朝、アタシを誘っていつものロードワークに繰り出した。
アタシ、東谷椿十六歳。
現在夏休みをのんびりぼんやり過ごし中。
そしてあの春以来、長男・傑と長女・牡丹は、じつにこそこそと恋人同士を満喫していた。
「なんでアタシなの?」
そう尋ねると、護兄ちゃんは照れることもせずに踏ん反り返った。
「馬鹿野郎、ひとりで行くなんて寂しいじゃねえか」
今までひとりで行っていたのに、不思議な男だ。ははあ、こりゃあ何かあるな、と、アタシは勘を働かせた。
「しょうがないなあ」
だから、アタシはそんな言葉で気がつかないふりをしてあげる。途端にほっとした顔になる護兄ちゃんを見上げると、なんだか毒気が抜かれてしまった。
護兄ちゃんは倉庫から自転車を引っ張りだして、「お前、これに乗ってけ」と、その鍵を投げてよこした。
しぶしぶ、と言った表情で、アタシはそれにまたがる。
「じゃあ行くか」
と声をかけて走り出した彼は、のっけから滅茶苦茶速かった。
ちなみに今日、学はいない。今頃は美術部の部室で自分の作品に取り掛かっているはずである。冷房の効いた涼しい部屋にいるだろう三男坊が羨ましい。
彼は、長期休み中にも新堂先生に会えるようにと、春の間に自分の作品を完成させなかったツワモノなのだ。
そんな学の思惑に気がついているのはアタシひとり。西園寺家と東谷家の兄と姉は、真面目な三男を褒め称えていた。
もう東京都から出ちゃったんじゃない? ってくらい、走りに走った先の公園で、次男・護は立ち止まった。どうやら折り返し地点のようだ。
肩でいきをするアタシを見て、護兄ちゃんは吹き出した。「お前、体力ねえなあ」
ニコニコする彼は、涼しい顔でそんな嫌味を言う。この筋肉馬鹿、と、アタシは心の中で罵った。けれどもそれは口には出さない。出さないのではなく、出せない。疲れすぎてて声も出なかった。
「ちょっと待ってろ」
アタシの様子を見ていた護兄ちゃんが、そう言い置いてどこかに行く。アタシは地面に座り込んで、Tシャツの裾をパタパタした。
「ほら」
程なくして戻ってきた次男・護は、それだけ声をかけてアタシにペットボトルのスポーツドリンクを差し出した。
「あ、ありがと」
素直にお礼を言って、それを口に含む。ああ、冷たくって美味しい、と笑うアタシに、護兄ちゃんも笑顔になった。
ようやく落ち着いたアタシは、護兄ちゃんに声をかける。
「ねえ、話があるんならさ、こんな遠くまで来なくて良くない?」
その質問に虚を付かれたような顔をして、護兄ちゃんはアタシの隣にどかっと座った。
「お前、鋭すぎ。可愛くねえの」
そんなふうに口を尖らせ照れる彼は、ちょっと可愛い。
「八十六」
アタシが言うと、護兄ちゃんは「は?」と聞き返してきた。
「桜姉ちゃんのバストのサイズ。そういうのが聞きたいんじゃないの?」
「馬鹿! そんなわけねえだろ!」
顔を真っ赤にさせて、護兄ちゃんは否定した。
まあ、なんて純情な男なんだと、アタシは少し笑ってしまう。そんなアタシを軽く小突いて、護兄ちゃんは額に手を置いていた。
「あのさ」と、彼は話し始める。
「桜、俺のこと、なんて言ってる?」
なあんだ、結局桜姉ちゃんの話なんじゃないか。アタシはすっかり呆れてしまって、それでもこの不憫な次男のために口を開いた。
「男らしい」
「それもう聞いた」
「かっこいい」
「うん、それで?」
「頼りになる?」
「なんで疑問系なんだよ」
「このへたれ」
「桜そんなこと言ってたのか!?」
アタシの言葉を真に受けて、顔を上げる次男・護。相当切羽詰っているようだ。
「ううん、言ってない。アタシの感想」そう言うと、護兄ちゃんはアタシの頭をゴツンとした。
「お前、生意気」
ぶたれた頭をさすりながら見上げる。その視線の先にいた護兄ちゃんは、なんだかすごく、悲しそうだった。首をかしげて彼を見つめる。いつものふてぶてしさはどこへやら、護兄ちゃんは消え入りそうな声で呟いた。
「やべえ、俺、桜のこと好きだ」
その言葉を、アタシは黙って聞いていた。護兄ちゃんは寂しそうに俯いて、それでも本当に困惑した様子で、「どうしよう」などと言っている。
「俺、どうすりゃいいんだろうな。あいつといるとドキドキして、兄貴とあいつが喋ってんの見るとイライラして、すげえ、らしくねえ。俺、桜のこと、本気で好きだ」
分かる気がした。ドキドキする、イライラする。アタシは苦悶する護兄ちゃんを横目で眺めた。
「そんなこと、桜姉ちゃんに言ってよね」
あんたにはそうする権利があるんだから。
そんな思いが心を掠めたことは、絶対秘密だ。
「そりゃそうだ」
アタシの言葉になぜか納得したらしい護兄ちゃんは、そんなことを言って豪快に笑った。
「帰るか」
と、立ち上がる。
「アタシ、足がくがくなんですけど」
アタシがそう文句を言うと、護兄ちゃんは呆れながらもアタシを自転車の後ろに乗せて、それをこいで帰ってくれた。
「なあ、椿」自転車をこぎながら、護兄ちゃんはそう声をかける。
「なに?」
「お前、兄貴と牡丹ちゃんのこと、気づいてんだろ?」
「・・・・・・うん」
それだけ言うのが、精一杯だった。アタシの思いには気がつかないで、護兄ちゃんは続ける。
「もしあの二人が結婚なんてしたら、牡丹ちゃん、俺の姉貴になるんだよな」
結婚? 考えてもみなかった。護兄ちゃんが何気なく発したその一言が、なんだかひどく、息苦しい。
「家族になるんだな。俺と、桜も」
そう呟いた護兄ちゃんの声が沈んでいるような気がして、ああ、この人も苦しいんだなあと、アタシはなんだか親近感を覚えていた。
かつてアタシを安堵させた長男の発した家族というひとくくりは、次男にとっては忌むべきものなのだ。その事実が、ひどく、重苦しい。
「でもまあ、関係ねえけどな」
突然言い出す次男・護は、アタシの葛藤などどこ吹く風だ。
先ほどの苦悩はどこへやら、護兄ちゃんは自信満々に宣言した。
「従兄妹だろうが、なんだろうが、関係ねえよ。好きでなにが悪いんだよなあ?」
じつに清清しい男だ。アタシは驚きを隠せない。好きでなにが悪い。そんな単純な一言が、アタシの心に染み込んでいた。
西園寺家に到着すると、護兄ちゃんは早速笑顔で走って行った。元気な男だ、と思う間もなく、護兄ちゃんは視界から消える。
「ありがとな、椿。桜に言ってくる!」
去り際に聞こえた気持ちの吐露は、アタシに言葉を与えない。
そんな単純な、とは思ったけれども、何も言えなかった。好きな人に好きだと言える護兄ちゃんが、なんだかすごく、羨ましかった。




