ヘンリー・ヒギンス今いずこ
学校から帰ったアタシ、三女・椿に、長女・牡丹と次女・桜は心配そうに眉根を寄せた。
「椿、どうだった? お友達はできそう?」
「できなさそう」
夕食の席でそんな事を言ってしまったアタシの失態だと分かってはいる。けれども、だからってこの状況には賛同できない。アタシ、三女・椿の言葉に不安を抱いた長女と次女は、揃って西園寺家長男・傑に泣きついた。それでアタシは今、長男・傑の部屋に軟禁されているというわけである。姉いわく、
「周りがお嬢様ばかりなら、椿もお嬢様になればいいじゃない!」
とのことだ。
すっかり困り果てた様子の長男・傑は、これみよがしに溜め息をついた。
「お前みたいな跳ねっ返り、どうやって調教しろっていうんだ」
これが彼の、第一声だったのだから。
「いいよ、そんな無理して牡丹姉ちゃんのご機嫌とんなくて」
悔しくなったアタシは、そう言ってそっぽを向いた。ポイント稼ぎの道具に使われたんじゃたまらない。
「何があったんだ?」
長男・傑は、アタシの気持ちなんかがっつり無視してそう尋ねた。仕方なしに、アタシは放課後学に言ったことと同じ説明を彼にする。西園寺傑は、「ふうん」などと適当な相槌を打っていたかと思うと、にやりと笑ってアタシの頭に手を置いた。
「それは大変だったな。でも、今更お嬢様もないもんだろ」首をかしげるアタシに、傑兄ちゃんはにっこり笑う。
「俺はお前が変わってなくて、正直安心したけどな」
「でもさ、話が通じないって、寂しいよ。おさびさびだよ」
アタシの言い方の何がおかしいのか、長男・傑はケラケラ笑う。そして、アタシの髪をぐしゃぐしゃにした。
「意味が分からないなら、聞けばいい。無理に合わせようなんてするな、お前らしくないぞ」
何をもってアタシらしいとするのか尋ねることもないまま、アタシはただ、俯いた。その後に続けられた、
「椿は椿のままでいればいいんだ」
などという臭い台詞にアタシがどれだけ救われたかなんて、恥ずかしくって言えやしない。単純だなあって自分でも呆れちゃうけどさ、でもこれで、アタシは答えを見つけた気がした。
なあんだ、アタシ、このままでいいんだ、って。
お礼を言って部屋を出て行こうとするアタシに、傑兄ちゃんは声をかけた。
「椿、俺たちは家族なんだから、いつだって頼っていいんだからな」
「うん、ありがとう、傑兄ちゃん。アタシ、頑張る」
おやすみと笑う傑兄ちゃんに同じ言葉を返しながら、アタシ、三女・椿は、なんだか誇らしい気持ちでいた。
この家に来てから初めて彼に対して素直になれた。
その単純な事実に、気持ちは静かに昂ぶっていた。
翌朝、アタシは歩いて登校した。大体車で十五分の距離を歩かないなんて、運動不足もいいとこなのだ。
教室の前に立つ。深呼吸をする。アタシはアタシのままでいい。
東谷椿、十六歳。他人に合わせる心の広さなんて、あいにく持ち合わせちゃあいない。
昨日はしずしず開けたドアを、今日は勢いよく全開にした。そして、叫ぶ。
「おはよー、みんなっ!」
穏やかに談笑していたお嬢様たちは、一瞬アタシにきょとんとしたようだった。けれども数秒後に、彼女たちの表情は笑顔になる。
「まあ、東谷様、ごきげんよう」
「ご機嫌うるわしゅう」
全くお嬢様って人種は、朝も早よからお上品だ。一瞬くじけそうになったけど、おしとやかなクラスメートたちに、アタシはあくまで「おはよ!」を貫いた。
朝礼のために聖書を出す。アタシの分は、まだ届いていなかった。
傑兄ちゃんのお古であるそれを眺めて、アタシは安堵の溜め息をつく。
大丈夫だ。アタシには、嫌味なエリートがついている。
そして今日は、昨日と打って変わって楽しかった。
体育のために体操着に着替える最中、運動が苦手だというクラスメートに、アタシは顔をしかめて同意する。
「だよね、体育なんて、超かったるくない? アタシも運動オンチだからさあ」
すると言われたその子はクスッと笑って、
「東谷様って、ユニークな方でいらっしゃいますこと」それが褒め言葉なのか、それともけなし言葉なのかなんて、庶民たるアタシには分からない。だとするならば、褒め言葉と受け取ったほうが気が楽だ。
「でしょ? アタシってほら、エンターテイナーだからさ」
片目をつぶってそう言うアタシに、クラス中がクスクス笑った。
お嬢様たちのお嬢様言葉が、耳に心地よいと思える日がくるのを夢想する。それは、そう遠くない未来だろうという予感もあった。お古の聖書を握り締める。昨夜の傑のあの言葉たちが、アタシを元気付けている。そう感じた。
アタシの内側をぽかぽかと暖めるあの台詞。そうそれは、例えていうなら魔法のように。
マイ・フェア・レディになんて、なれなくていい。
アタシは、究極のシンデレラストーリーを思い描く。
素行の良くない花売り娘を淑女に変える、足長おじさんなんて必要ない。
アタシ、東谷椿十六歳には、花売り娘のままを受け入れてくれた、嫌味な西園寺傑二十五歳がついているから。