美術部顧問はゴーギャンがお好き?
職員室まで案内してくれた学が、「じゃあ後でね」とアタシのもとを去ってから、約一時間が経過した。
アタシ、東谷椿十六歳は、担任教師に連れられていった教室で、またもや質問責めにあっていた。
「東谷様、西園寺様と同居なさっているって、本当ですの?」
「従兄妹でいらっしゃるのでしょう? なんて羨ましいこと!」
「あの方、本当に素敵でいらっしゃいますもの。東谷様も、そうお思いになりませんこと?」
こんな調子である。
アタシはすっかりうろたえてしまって、「はあ、まあ、そうですねえ」などと言って、お嬢様たちの失笑を買っていた。
それにしても、学はそんなに人気なのか。ちっちゃい頃はアタシのうしろを付いて周って、ちょっと転んだくらいでビービー泣いていたというのに。
お嬢様たちに囲まれた環境が思っていたより窮屈で、アタシはさっさと授業が始まらないかなあ、なんて考えていた。
始業のベルらしきものが鳴ったのに、教師がやって来る気配がまるでないのだ。一体全体どういう学校だ、と、アタシはすっかり辟易した。たまらず隣の女の子に、勇気を振り絞って声をかける。
「ねえ、先生、遅くない?」
するとその子は、一瞬驚いた顔をして、それからゆったりと笑顔になった。
「お気になさることございませんわ。あの先生、いつもおそそもじのお出ましですもの」
「はっ?」
「頓着がおありにならない方ですから」
なに、なに、なに?! どういう意味?!
混乱したアタシはちょっと苦笑いして、「あ、そうなんだ」しか言えなかった。
それから丸一日、そんなんだった。
お嬢様言葉は難解だ。例えばの話。
(多分)恋バナをしていた女の子が泣き出した。それをクラスメートがこぞって慰めている。
「わたくし、おさびさびの毎日ですの」
・・・・・・なんだって?
ああ、東谷椿十六歳、早くも後悔。
こんなところに来ちまうなんて!
放課後、教室まで迎えに来てくれた学に、アタシは早速泣きついた。
「学、ここは日本じゃないよ。アタシの知ってる日本語なんか、ひとつも出てきやしなかったよお」
「なにそれ。どうしたの、椿ちゃん」
それでアタシは、今日一日のことをすっかり話した。涙ぐむアタシに、学は突然笑い出す。
「アタシが真剣になってるっていうのに、笑うわけ?!」
「ごめん、ごめん」
適当に謝りながら、それでも学は笑顔を崩したりはしなかった。それがますます、腹立たしい。
「おそそもじっていうのはね、遅いって意味だよ。だから、『心配しなくっても、あの先生いっつも遅いんだ。時間にルーズな奴だから』ってこと」
「・・・・・・おさびさびは?」
「寂しいってことだよ」
そんな日本語、知るかっ!
そう悪態をつくアタシに、学は笑って話題を変えた。
「ところでさ、椿ちゃん、部活どうすんの?」
「そんなもん入る元気ないよ。どうせお嬢様に囲まれるんでしょ」
アタシが言うと、学はちょっと困ったように微笑んだ。そして、言う。
「ぼくと同じとこ入りなよ。美術部だけど」
「美術部!!」
アタシは思わず悲鳴を上げる。
そんな、お嬢様のアジトみたいな部活なんか入れるか!!
「でも、この学校、全校生徒入部義務あるんだよ」
無邪気な学のその一言で、アタシは人生初のブラックアウトを体験した。
そしてやってきた、美術部部室。なんと校舎とは別棟でアトリエつき。
どういう了見だ。
今日一日ですっかり打ちひしがれていたアタシは、美術部部室の前で最後の力を振り絞って抵抗していた。
「やだやだやだ!! アタシもう帰るっ!!」
「大丈夫だよ、椿ちゃん。怖くないから」
学は困り果てた様子でアタシの腕をぐいぐい引いた。
怖くないだと? 嘘をつけ!
アタシは学ごしに美術部部室の扉を睨む。
「何でよりにもよって、扉が地獄の門なわけ?!」
「へえ、すごいや、椿ちゃん。これが地獄の門って分かるなんて」
分かるに決まってんでしょ、と、アタシは涙声で訴えた。
そう、美術部部室の入り口は、まさに地獄へのそれだったのだ。
ロダン作の「地獄の門」。毒々しいフォルム、天に向かって腕を伸ばす、地獄に堕ちた亡霊たち。ああ、上におわすは考える人。角度的には、絶対こっちを睨んでる。
「何でこんなもんがこんなとこにあんのよ?!」
「先生の趣味」
アタシの尤もすぎる質問に、にっこり笑って学は答えた。
ね、ユニークな部活でしょ? なんて、まったく冗談じゃないっての。
学は何故かしゅんとして、「おかしいや」と呟いた。
「椿ちゃんは昔、ぼくの女親分だったのに」
そんなこと言われたって、と、困惑するアタシである。落ち込んだ様子の学に何と声をかけていいのか分からない。アタシの気持ちを知ってか知らずか、学は気を取り直したようで笑顔になった。「勿論本物じゃあないよ。先生が持ってきたんだって」
笑いながら学は地獄門を押し開ける。さぞかしすごい音がするかと思いきや、案外スムーズにそれは開いた。
持ってきたって、一体どこから?
アタシたちを呑み込んだ地獄門がバタンと閉まる。もうそれ以上追及するのはやめようと、アタシも気を取り直して前を向いた。そして、固まる。
廊下いっぱい、いたるところに時計の山。
通路を避けるようにして、窓枠から棚の上から、見れば見るほど、時計、時計、時計。
「・・・・・・学」
こっちだよ、などと言いながら、学は笑顔で進んで行く。アタシはそこから動けずに、もう一度声を荒げて学を呼んだ。
「学、これは何? 何でこんなに時計だらけなの? しかもカチコチうるさいんだけど!」
そう、ごまんとある時計は、全てアナログだったのだ。
時針が、分針が、秒針が、あっちでカチカチ、こっちでコチコチ。
学はやっぱり笑顔のまま、またもや同じ台詞を吐き出した。
「これ? 先生の趣味」
どういう教師だ!
「かちかち山じゃあるまいし」
アタシが文句を言った時である。「いいえ、どこにもない家です」と後方から声が届き、振り向くと、すらりとした男の人が立っていた。
「先生! 椿ちゃん、美術部顧問の新堂先生だよ」学の表情がぱっと明るくなる。アタシはそれを意識しながら、時計に囲まれて佇む新堂先生を眺めていた。
彫刻みたいに綺麗な男だ、と、思った。
新堂先生はにっこり微笑んで、アタシと学を見比べた。
「西園寺くんが人を連れてくるなんて、珍しいですね。西園寺くんの恋人ですか?」
「従兄妹です」
と、学は即刻否定する。
「今日から編入してきた、東谷椿さんです。美術部に入るんです」
新堂先生は、「そうですか」と目を細め、アタシに向かって右手を差し出した。
「美術部顧問の新堂です。よろしく、東谷椿さん」
はあ、どうも、なんて言いながら、その手を握るアタシである。そしてそのまま、さっきから疑問に思っていたことを口にした。
「あの、どこにもない家って、どういう意味ですか?」
「ああ、ご存知ないですか」
残念そうな新堂先生である。
「ミヒャエル・エンデのモモという作品に出てくる家ですよ。時計で埋め尽くされているんです」
「つまりそこの再現版?」
「そうですね。残念ながら、私はマイスター・ホラではありませんが」
全く意味が分からず、アタシは困り果ててしまった。すると、学がクスッと笑って口を開く。
「先生がマイスター・ホラなら、ぼくはカシオペイアです」
その言葉に新堂先生も大いに笑い、
「では、東谷椿さんはモモですね。東谷さん、ようこそ美術部へ」
そう言って、またアタシの手を握るのだった。
不吉極まりない入り口に、カチコチ、チクタクうるさい廊下。極めつけは、彫刻のようなこの男。
わけわかんないとこに来ちゃったなあと、横目で学を睨みながら、アタシは「よろしくです」なあんてのたまっていた。
とりあえず歓迎はされているらしい、と思ったからだ。
「ねえ、椿ちゃん。新堂先生って、すごくいい先生だと思わない?」
帰りのロールスロイスの中で、学は目をきらきらさせてそう言った。そうかな、と、アタシは返す。見学ということで見せてもらった美術部の顧問部屋に、これまたでかでかと、
「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」
などと書かれた壁を発見してしまったからだ。
何ですかこれ、と尋ねたアタシに、新堂先生は説明してくれた。
「ゴーギャンの言葉です。大変感慨深いと思いませんか?」
その目があんまりにもうっとりしていたものだから、アタシは瞬時に思ったのだ。
美術部顧問は、変人だ。
それを学に伝えると、学はぎゃーぎゃー言いながらアタシの部屋までついてきた。
「変人じゃないよ! 新堂先生、優しくて何でも知ってて、物静かで、ぼくの憧れなんだから!」
ああ、うるさいうるさい、とあしらうアタシである。
新堂先生の魅力について語り続ける学に視線をやって、アタシはふんと鼻で笑った。
「なによ、学。新堂先生のことそんなに褒めちゃってさ。ひょっとして恋でもしてんの?」
「え・・・・・・」
そこで西園寺学、一時停止。見るとどんどん顔が赤くなっていって、アタシはその変化に驚いていた。
ほんのちょっとからかうつもりで言ったのに、何なんだ、その反応は。
「・・・・・・そうだよ」
困惑するアタシを差し置いて、学はそう、呟いた。
「ぼく、新堂先生のこと、好きだよ。恋だと思う。変だよね、気持ち悪いよね。でも、好きなんだよ」
思いがけないカミングアウトに、アタシはただ、呆然としていた。
でもそのうち、目に涙をいっぱい溜める学が愛しくなって首を振る。
「別に、いいんじゃない?」
アタシのその一言に、学ははっと顔を上げた。
「恋してないよりは幸せだよ。恋愛なんて個人の自由なんだから、別にいいんじゃないの?」
「・・・・・・気持ち悪いとか、思わないの?」
涙声のまま学は尋ねる。アタシは笑って言ってやった。
「思うわけないじゃん。あんた、アタシの子分でしょ? 親分はね、子分がどんなに変わったって、見捨てたりはしないもんなんだよ」
アタシの台詞に、学は一瞬、押し黙る。
それでもようやく言葉をつむいで、出てきたのはお礼だった。
「ありがとう、椿ちゃん」
それと共に学の目から、涙が一粒零れ落ちた。