チクタク時計が掻き消したもの
優しい人だともっぱら噂の野球部エースは、噂通りの優男だった。いや、見た感じの話じゃなくて。
放課後のことである。アタシ、東谷 椿16歳は、名も知らぬ彼から呼び出しをくらってここに来ていた。なんとまあ、ベタなことに体育館裏。
君のことが好きなんだと、たった一言彼は言った。
どーすりゃいいんだ、こういう時?!
アタシは困りすぎてしどろもどろ。
頬を染める彼を見て、アタシはただ立ち尽くしていた。自慢じゃないけど、アタシ、東谷 椿。16年間生きてきたけど、異性に告白されたことなど一度もない。
「えっと…。なぜアタシ?」
疑問をそのまま口にする。すると彼は、当然のように言い切った。
「君がとても魅力的だから」
ひえーっ、である。そんなことを臆面もなく言える彼は何者か。審美眼は大丈夫なのかと、アタシは本格的に心配した。しかしアタシの思惑露知らず、彼は耳まで染めて呟いた。
「お友達になってくれませんか?」
「え? 友達?」
聞き返すアタシである。どうやらからかっているわけではなさそうだと感じたのは、彼の顔が相当せっぱつまっていたから。
なぁんだ、と、アタシは知らず笑っていた。
「そんなんだったら全然オッケー。だったら今からアタシらツレだね」
「…ツレ?」
聞き返した彼に、ああ通じないのかと思い至る。
「友達ってこと」
言い直すと、彼は、「本当ですか?」と、目を輝かせた。
そう尋ねられて、アタシは不思議な気分になった。たかが友達になるのに、ちょいと大袈裟すぎやしないか?
「ほんと、ほんと。そういやさ、名前何ていうの?」
「竹内 行弘と申します」
ユキヒロは丁寧に名乗って一礼した。
「ユキヒロね。分かった。アタシのことは椿でいいよ」
アタシが言うと、彼は嬉しそうに笑った。「では、部活があるので」なんて言って駆けて行く。
ずいぶんお上品だな、野球部エース。
アタシはそんなことを考えて、ちょっと笑った。
そんなことが起こった数日後、アタシはクラスメートとおしゃべりしていた。例によって恋バナである。
クラスメートが大切そうに出したネックレスを、見せてもらった時のことだ。
「誰に貰ったのー?」なんて、分かってるくせに聞くのは、女の子の礼儀。
予想通りその子は顔を赤らめて、
「わたくしのいい人に」
と呟いた。
「いい人って、カレシのことでしょ? いいなあ」
アタシが言うと、その子はにっこり微笑んだ。
「ええ、わたくしのツレですの」
「…はっ?」
ぽかんとするアタシに、クラスメートは不思議そうな顔をした。
「東谷様、いかがいたしまして? 交際相手のこと、ツレとおっしゃるのでしょう?」
待て待て待て!
「誰に聞いたの?!」
「野球部の方々、みなさんそうおっしゃっててよ」
まあ、わたくし、何か間違っておりますかしら、なんて、その子はクラスメートを仰ぎ見た。見られた側も首を傾げる。そして、極めつけはこの一言。
「だって東谷様、野球部の竹内様にそうおっしゃったのでございましょう?」
確かに言ったよ、言いましたとも。でも待って、と、アタシは混乱したまま制止する。
「友達になってくれって言われたんだよ? それってイコール付き合ってって意味になっちゃうの?」
アタシのあまりのパニックっぷりに、みんなは神妙な顔をして頷いた。
「ついに東谷様のおめがねに適う殿方のお出ましですわねって、みなさん噂していらっしゃいますのよ」
ああ、この今の気持ちを表すのに、と、アタシはがっくりとうなだれる。良家の子供に通じる言葉はないものか。
それからアタシは、いろんな人に尋ねて回った。
野球部エース、竹内 行弘について。
なんてったって、どこのクラスかも分からないのだ。
知っているのは名前と部活、ただそれだけ。
そんなことでカレシとカノジョと言えるのか?!
幸い、野球部エースとだけあって、彼は有名人のようだった。クラスのみんなは、アタシにそのつもりがないと分かると何だか残念がりながらも教えてくれた。
「教室までは存じませんけど、2年生でいらっしゃいますわ」
なんとまあ、彼は先輩だったんですか。そう目を丸くするアタシに、クラスメートは呆れていた。
野球部エースはよほど名が通っているようだ。
「先輩に断る時ってさ、何て言ったらいいのかな?」
その質問に、答えは返ってこなかった。
「その場でお断りになりませんと…」だそうだ。なんてこったい。
ああ、東谷 椿、一生の不覚!
とりあえず学に相談しようと、アタシは放課後になるのを待ち続けた。
帰りのホームルームが終わってから、学のクラスに直行する。しかし彼はいなかった。
こんな時にどこ行ったんだ、と理不尽にも憤慨するアタシに、学のクラスメートが、部活に行ったのではないかと教えてくれた。
仕方なく、美術部部室に走って行った。入口である『地獄の門』の前で、アタシは思わず立ち止まる。門には紙が貼り付けられていた。
『美術部に所属されている皆さんへ。
諸事情により、本日お休みさせて下さい。
部室にご用のある方は、職員室にて鍵をお借りして下さい。
美術部顧問 新堂 尚樹』
紙にはそう書かれていた。
へえ、新堂先生の名前って尚樹っていうのか、なんて、感心している場合ではない。だったら学はどこにいるんだと、アタシは悔し紛れに部室の扉をガタガタ揺らした。
するとカチッと音がして、扉はアタシを招き入れた。
誰かいるのかと、アタシは時計だらけの廊下を進んだ。もし学がいなくても、誰かいるなら聞けばいいのだ。
生徒の作品が置いてある部屋から声が聞こえて立ち止まる。休みの日にまで作品に取り組む生徒の邪魔をしないようにと、アタシは極力音を立てないようにドアを開けた。中を覗く。いるのは学ひとりだった。
目当てのものが見つかったのに、アタシには声をかけることが出来なかった。
学はただ、立っていた。ただ立って、彼は教室の前方を見つめていた。
「好きです」
と、声が聞こえて、その主が学なのだと気付く。
「先生のことが、大好きです」
最後は涙声になりながら、それでも学はしゃがみ込むこともしないで、ただその言葉を繰り返していた。
好きですと、たった4文字の愛の言葉を。
アタシはというと、学の気持ちの深さを、改めて思い知っていた。自分の心に気が付かないふりをして、ごまかしながら生きるしかないアタシたちの恋心は、聞く人もない場所でしか吐露できない。
「新堂先生…っ」
学はきっと泣いているんだと、アタシはぼんやり考えていた。大切な人が出来たらちゃんと伝えるように、とアタシに諭した美術部顧問は、自分に恋する男の子に、そうする隙を与えない。
悲しいとか、やり切れないとか、そんな言葉で学に同情することは出来なかった。アタシに出来ることといったら、学の告白を聞きながら、嗚咽を漏らさないように喉に力を入れること。
ただそれだけ。
アタシはなんて役立たずなんだと、学を見つめながら途方に暮れた。
飛んで行って抱きしめることも、新堂先生に罵声を浴びせることも、アタシには出来ない。
そんなに辛いならやめちまえ。そう学を説得することも出来ないのだ。
学は立ちんぼうのまま、新堂先生の名前を呼び続けていた。大好きですと、自分の気持ちを添えながら。
アタシはまた、物音を立てないように気を配りながら、美術部部室をあとにした。通路に所狭しと並べられたアナログ時計の出す音が、学の声をかき消してくれることを、ただ、願う。
直接言うことなんて出来ないから、今この時だけでも、学に堂々と言わせてあげて。
新堂先生にいだいた想いは、世界で1番ピュアだから。
結局頼みの綱である学の助言を得られずに、アタシは野球部の使うグラウンドに歩いて行った。 ベンチに座って、野球部は談笑している。
休憩中だ、と、アタシは何だか気まずくなった。だけどその時のアタシは必死すぎて、全員の見ている前で竹内 行弘に向かって、頭を下げて謝った。
「ごめんなさい! アタシ、友達ってマジ普通の友達のことだと思ってました! 付き合うとか、そういうのじゃないと思ってて、だから」
いざとなると、言葉って浮かんでこないもんだなって、ちらっと思う。
わめき散らすアタシを、野球部全員が不思議そうに見上げていた。
「えっと…、東谷さん、どうしたんですか?」
困惑顔でそう尋ねる竹内 行弘である。
どーしたもこーしたもねーやい!
アタシはすっかりパニックに陥って、ただひたすらに頭を下げた。
「ごめんなさい! アタシ、好きな人いるんです! 付き合えないです! すいません!」
それだけ叫んで、アタシは引き止める行弘の声を振り払うように走り出した。
自分のしたことに後悔したのは、校門を飛び出してしばらく走った後だった。
うおーっ、言っちまったー!
好きな人がいるなんて、あんな公衆の面前で叫ぶだなんて。
ああ、と、アタシはうなだれる。
東谷 椿、16歳。一生の不覚が、一生の恥になりました。「しないのではなく、出来ないんです。東谷 椿さん、私の部屋に飾ってあったゴーギャンの言葉、覚えていますか?」
『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』
覚えていますと答えたアタシに、新堂先生はほんの少し俯いた。口元には、笑みをたたえたまま。
「あれは、私の心そのものなんです。彼女に対する想いがどこから来て、あんなにも私を蝕んだあの気持ちは何者で、叶えられなかった恋はどこへ行ったらいいのか模索している。答えはどこにもありません。どんなに時計の針が進んでも、抜け出すことは出来ないでしょう」
そんなことを言う新堂先生は、どこか遠くを眺めていた。そして、「東谷 椿さん」とアタシを呼ぶ。
「大切な人が出来たら、想いを伝えないといけませんよ」
それは出来ない。そう思った。
だけど、口に出すのは憚られた。「はい」と殊勝に頷くアタシに、新堂先生はにっこりと笑う。
「みんなが噂していますよ。西園寺くんのいとこの東谷 椿さんは魅力的だと」
えっ、とアタシは声を上げる。
「アタシ、そんなにモテてます?」
アタシが尋ねると、新堂先生は頷いた。
「ええ、大人気ですよ。女生徒に」
女生徒かよっ!
思わずズッコケたアタシに、新堂先生は声を上げて笑った。
「そのうち男子生徒の耳にも入りますよ。恋人が出来たら教えて下さい。職員室で賭けをしているので」
「賭け?」
聞き返したアタシに、新堂先生は悪びれもせずに答えた。
「ええ。賭けです。学校一人気の西園寺くんが親分と慕う東谷 椿さんを射止めるのはどの生徒か、教員同士で賭けをしているんですよ。やはり、各部活のキャプテンが有力ですね」
教師がそんなことしていいのか?!
目は口ほどにものを言う。言わなかったけれど、新堂先生はいたずらっぽく微笑んだ。
「内緒ですよ」
なんて、秘密の多い部顧問だ。
その翌日から、まるで謀ったかのようにアタシのもとには来訪者が増えた。一体全体どういうわけ?と首を傾げるアタシに、クラスメートはただ、笑う。
「わたくしの兄、図書委員をしておりますの。東谷様は、どんな物語がお好みですの?」
とか、
「双子の弟がサッカー部に所属しておりますの。よろしければ、東谷様もご見学あそばして?」
とか、
「わたくしの幼なじみですけれど、東谷様のお話ばかり聞かされますのよ。彼、オペラに興味がおありなの。東谷様、ご一緒にコンサートなどいかが?」
とか。
つまるところ、アタシに興味を持つ男に近い女の子がやって来るのだ。
えーい、情けない!
と、アタシはすっかりホームグラウンドと化したクラスの中で憤る。
アタシに用があんのなら、直接アタシのツラ見てもの言え!
そんなアタシに、「東谷様のそんなところが」と、クラスのみんなは笑う。
「みなさん、憧れる理由のようでしてよ」
「どこが?! アタシなんてガサツだし、ズケズケもの言うし、口悪いし、女の子らしいとこなんてひとつもないじゃん!
アタシが男だったら、絶対みんなを嫁にしてるよ!」
そう言うと、クラスメートたちは眉根を寄せてたしなめた。
「他の場所では、おっしゃらないほうがよろしいわ。東谷様とお近づきになりたいのは、むしろ女性の方々ですもの」
じゃあ何か?男にかこつけて、アタシはじつは女の子たちにモテているのか?
その話を学にすると、彼は腹を抱えてゲラゲラ笑った。
「なんであんたはそう笑うのよ!」
「だってだって、椿ちゃん、確かに女の子って感じじゃないんだもん。女親分って感じだもん」
もしくはボスとかアニキとか、なんて言う学の後ろ頭をはたいてやったのは、西園寺家でのことだ。
一緒に聞いていた護兄ちゃんや桜姉ちゃんも笑っている。
「確かにお前は、女の子って感じじゃねえよなあ」
と、次男・護。
それを聞いて、桜姉ちゃんはニコニコした。
「いいじゃないの、椿。私安心したわ。好きな人が出来たら、1番に教えてちょうだいね」
もういるんだよ、という言葉は飲み込む。
あんたの姉貴のカレシだよ。
あんたの旦那の兄貴だよ。
言えないなあと、アタシはこっそり溜息をついた。
ふらふらと部屋に戻る。ふて腐れたみたいにベッドにごろんと横になって、アタシはひとり考えていた。
みんなに好かれるのは、すっごくすっごく、嬉しいことだ。だけどさ、と、アタシは溜息と共に考える。
本当に好きな人に好かれなきゃ、そんなの全部、ないのと同じ。
そう思い付いて、アタシは少し、うろたえた。
ああ、アタシもおんなじだったんだって、思い出しちゃったから。
傑兄ちゃんの好きな人は何を隠そう東谷 牡丹で、東谷 椿では、ない。
西園寺 傑にとって重要なのは牡丹姉ちゃんとの未来であって、アタシの彼に対する想いは、ないのと同じ。
そこでアタシは、自分の頭をポカポカやった。
ええい、暗いぞ、東谷 椿!いつものパワーはどこ行ったんだ!
そんなふうに自身を奮い立たせたその日の夜、アタシ、東谷 椿16歳は、自分の非力さを思い知る。
「椿、学校で人気あるんだってな」
仕事から帰って来た傑兄ちゃんが、アタシにそんなことを言ってきた。
思わずアタシは学をにらむ。
すると彼は、「ぼく知らないよ」とかぶりを振った。
「桜から聞いたんだ。大喜びだったぞ」
傑兄ちゃんの弁解に、アタシは桜姉ちゃんに目を向けた。…傑兄ちゃんがほどいたネクタイを、牡丹姉ちゃんが受け取る場面を見ないように。
「だって、嬉しいじゃない」
次女・桜は取り繕う。
「椿には、幸せになってほしいもの」
その一言に、護兄ちゃんがどう思うのか分かってるのか?
そう思ったけれども、黙っておいた。
桜姉ちゃんは嬉しそうで、そんな彼女を見つめる次男は幸せそうだったから。
「どんな人に好かれているの?」
そう尋ねたのは長女・牡丹だ。
知らないよ、とアタシは返す。
「男の子は、直接アタシのとこには来ないもん。頼まれた女の子が来るんだもん」
わあカワイイ、と呟いたのは、次女・桜だった。
「男の子たちは照れてるのね。カワイイ」
そんなことを言う桜姉ちゃんの頭を、護兄ちゃんがパシンと叩いた。
「痛ぁ。もう、護くん何するのお」
「俺の前で他の男なんか褒めんじゃねーよ」
そう言ってそっぽを向く次男・護である。そんな弟を目の当たりにして、傑兄ちゃんは笑い出した。
「狭量な奴だな。お前そんなに自信がないのか」
「…兄貴みてーな兄貴持って、どう自信持てって言うんだよ」
それを聞いて、傑兄ちゃんは「ちょっと待て」と牽制した。
「俺が完璧なのは仕方ないとしてだな、もっと余裕を持ったらどうなんだ」
護兄ちゃんはその言葉にむっとしたのか、桜姉ちゃんの腕を掴んで立ち上がった。
「うっせーよ、馬鹿兄貴!桜、部屋行くぞ!」
そして桜姉ちゃんをぐいぐい引っ張る。
傑兄ちゃんは笑いながら、「おい、護!」と声をかけた。
「壁が厚いからって、あんまり無理させるなよ?」
うっせーんだよ!と言う護兄ちゃんの怒声に、傑兄ちゃんはまたひとしきり笑うのだった。
「傑兄ちゃん、言い過ぎ。護兄ちゃんがかわいそう」兄二人のやり取りを見ていた学がそう呟いた。
「護兄ちゃん、じつは繊細なんだから」
それはないだろと思うアタシの横で、傑兄ちゃんはひとつ唸って腕を組んだ。
「そうだな。どうもあいつは、一途と言うか、女に対してぐずぐずしてると言うか」
「大事にしてんでしょぉ。ぼくは護兄ちゃんのああいうとこ、好きだけど」
呆れる長男に、溜息をつく三男である。
「学、お前はあそこまでにはなるなよ」なんて、傑兄ちゃんは釘をさした。
「…なっちゃうかも」
学はそう言って、傑兄ちゃんを慌てさせた。「俺の心配事をこれ以上増やすな」とのことだ。
心配事と言えば、と、それまで聞き役に回っていた牡丹姉ちゃんが、アタシに顔を向けて口を開いた。
「椿、お願いだから変な男の子には引っかからないでね。ちゃんとした子でなきゃ、お姉ちゃん認めませんよ」
「母親か、お前は」
そう突っ込んだ傑兄ちゃんに、牡丹姉ちゃんは抗議する。
「だってだって、椿はまだ小さいんですもの。私、心配で心配で」
そんなことを言って瞳を潤ませる長女・牡丹に、傑兄ちゃんは大いに笑った。
「分かった分かった。よし、椿。好きな男が出来たら連れて来い。俺が直々に品評して、ダメだと言ったらすぐに別れろ」
連れて来い、なんて。アタシは思わず下を向いた。
鏡でも持って来ればいいのか。
そんなアタシを見やって、慌てているのは学だった。「はいはい」なんて言って、アタシは席を立つ。そのまま部屋に向かったら、背後から学の怒声が聞こえた。
「傑兄ちゃんの、馬鹿っ!!」
きっと傑兄ちゃんは、意味が分からず立ち尽くしているんだろうな。そう思うと、アタシは滑稽なほどの悲しみに、酔うことも出来なかった。
部屋のドアが叩かれて、学だろうなと考えた。けれども予想に反して部屋に入って来たのは、ばつの悪そうな傑兄ちゃんだった。
「椿」
呼ばれてアタシは顔を上げる。けれどもすぐに俯いた。今、自分がどんな顔をしているのか分かっていたから。
「悪かった」と、傑兄ちゃんはそう言った。
「お前の気持ちも考えずに」
傑兄ちゃんを見る。知ってたの? アタシの気持ちに気付いてたの? そうだ、この人、刑事なんだ。
そう思うと血の気が引いた。審判を待つ罪人の気分で、アタシはただ、傑兄ちゃんの言葉を待っていた。
「これから俺の妹になるんだと思うと、つい…。変なこと言って悪かった。口出しなんかしないから、恋人が出来たら会わせてくれるか?」
アタシは返事が出来なかった。気付かれてなかったんだという安心感と、相手にもされない空虚な気持ちが、手に手をとってアタシを襲った。
ごまかさなくちゃ、何とかしなきゃ。
アタシは自分を励ましてみる。
口の両端に力を入れて、笑って何かを言わなくちゃ。
「…当ったり、前じゃん」
顔を上げて、傑兄ちゃんを見なくっちゃ。
「絶対、超いい男、連れて来るんだから」
さあ、笑うなら、今。
「だから…」
あと一言。心配しないでって、それだけ言わせて。お願いだから、ねぇアタシ、泣いたりなんてしないでよ。
「だから…」
「椿? どうした」
向き合う傑兄ちゃんにそう聞かれて、アタシは自分がもう泣いているのに気が付いた。
傑兄ちゃんは、ちょっと困ったように微笑んで、アタシの頭をよしよしした。
もうダメだった。涙腺はアタシを待ってはくれなかった。その事実を思い知って、アタシは、傑兄ちゃんに泣きついた。
大声を出して、小さな子供のように泣く。
傑兄ちゃんは、アタシをギュッと抱きしめて、背中をトントン叩いてくれた。
「悪かった、椿。ごめんな」
謝ってなんか欲しくない。そう思った。もしも悪いと思うなら、アタシの気持ちに気付かないことに対して謝ってよ。
そんなことを恨みがましく考えてしまう自分が情けなかった。何でこのタイミングで泣くのよ、と、アタシは自分に罵声を浴びせる。
子供みたいに泣きついて、いい加減にしてくれない?傑兄ちゃんはアタシのことなんか、これっぽっちも愛してないんだから。揃ってそんなことを言うこの恋人たちに、アタシと学は、ただ頷くことしかできなかった。
ありがとう、なんてふたりに言われて、アタシたちはなんだか変な気持ちになった。どうしてそこまで気を使うのか。愛し愛されているくせに。好きだと言える関係のくせに。
傑兄ちゃんは困惑している。それでもアタシは泣き続けた。
そんな自分に嫌悪を覚えるかたわらで、泣いていれば傑兄ちゃんはアタシを抱きしめててくれるなんて、卑怯な打算があったから。
ようやく涙も枯れた頃、傑兄ちゃんはアタシの目元を長い親指で拭ってくれた。鼻をすするアタシに笑いかけて、彼は言う。
「お前が学校で、上手くやってるみたいで安心した」
目で問いかけるアタシに、傑兄ちゃんは自信満々に口角を上げる。
「俺の言った通りだったろ?そのままでいいんだって」
頷くと、アタシの目から残っていた涙がポロンと落ちた。それを見て、傑兄ちゃんは「また泣くのか」と少し笑う。そして、そのまま地べたにどかっと座った。
「ほら、来い椿。泣き止むまでギューしてやるよ」
そう言って、傑兄ちゃんは両手を広げた。アタシは膝を折って彼に抱き着く。
もう涙は出て来なかった。今こそ泣けたらいいのにと、不謹慎にもそんなことを考えていた。
好きだよ、と、傑兄ちゃんの腕の中でアタシは思う。
傑兄ちゃんの背中に腕を回して、「俺の妹は泣き虫だな」なんて言葉には耳を塞いで、今だけは、西園寺 傑を独占したい。
それが精一杯アタシを慰めようとしている傑兄ちゃんに対しての裏切り行為だと、分かっていた。
分かってはいたけど止められなかった。
きっと生涯最高となる幸福のただ中で、アタシ、東谷 椿16歳は、新堂先生の言葉を思い出していた。
傑兄ちゃんに対するこの想い。
これは一体どこから来て、これは一体何物で、そしてどこへ行ったらいいのだろうか。
答えは出ないと先生は言った。
アタシだって、別に答えを知りたいわけじゃない。
ただ、その問題を抱えたままでも構わないから、今この時の幸福が、永久に続けばいいと願うだけ。