夜明けまでには
逃げている途中、アタシは部屋の前で学に腕をつかまれた。見ると学は泣いていて、アタシは慌てて彼を部屋の中に引っ張り込んだ。
扉を閉めて、鍵をかける。
ただそれだけの作業を終わらせただけなのに、アタシの息は上がっていた。
「椿ちゃん」
学の小さな呼びかけに、アタシは返事もしなかった。変わりにアタシの口をついて出たのは、嗚咽混じりの素朴な疑問。
「なんで、あんたが泣くのよお」
それに学は、「だって」と、こちらも涙声で言うのだった。
「だって、分かっちゃうんだ。関係ないって言うしかない、椿ちゃんの気持ちが分かっちゃうんだよ」
学に背を向けたままだったアタシは、ゆっくり彼に振り返る。ああ、アタシたちは、と、アタシは流れる学の涙をぼんやり見つめた。
同じ穴のムジナなんだ。片や同性の部活顧問、片や従兄妹で姉の恋人。馬鹿らしくって、笑い話にもなりゃしない。
だけどあんたはまだいいよ。先生が、異性愛者とは限らないんだから。
そう呟いたアタシに、学は悲しそうに首を振った。
「新堂先生ってさ、ルノアールも好きなんだ」
言葉の意図が読めずに、アタシは学に目で問いかける。
「夏休みにさ、新堂先生とルノアール展にも行ったんだ。大きなリボンをつけた女の子の絵の前で、新堂先生が言ったんだよ。忘れられない人がいるんです、って。いい年をして彼女を未だに引きずっているなんて、って」
学はそこで言葉を切った。目に浮かぶようだった。彫刻みたいな青白い顔の先生が、その絵を見上げる情景が。そしてそれを隣で見つめる、学の暗い瞳の色が。
「結局アタシたちは、ごまかしていくしか道はないってことよね」
アタシが言うと、学は「そうだよ」と、肯定した。
「ごまかしながら生きるしかないんだ、ぼくたちは」
それも、自分の心に対して。
その考えに、アタシは絶望感を抱いていた。二人向き合ったまま、涙をぬぐうこともしないで、ただ、相手を見つめた。決してお互いを見てはいないことを、共に理解していながら。
学の視線の先には新堂先生が佇んでいて、アタシの瞳には傑兄ちゃんしか映っていないのだ。思う人との目線とは、決して交差しないと知っているのに。
それから二人で、また泣いた。
夜明けまでには、と、アタシは窓の外を意識しながら、ただ願う。
この夜が明ける前に、空が白み始める前に、涙も彼に対する思いも、枯れ果ててしまえばいいのに。