第二話「戦略選定——俺はどの戦場で戦うべきか」
日曜日の朝、9時。
田中誠一は珍しく早起きして、コーヒーを一杯淹れてから書斎に籠もった。妻が子どもを連れて実家に向かったのが8時半。玄関の扉が閉まった瞬間から、今日という日は「誠一の時間」に変わった。
スケジュール帳を開く。「14時帰宅予定」と妻のメモがある。
つまり約5時間。
先週のノートに書いた一文が、頭の中でぐるぐると回っていた。
——自分が戦ってはいけない場所を知ることが、最初の一歩だ。
だが、戦ってはいけない場所がわかったところで、では「どこで戦うのか」が決まらなければ意味がない。コーヒーを一口すすり、誠一はノートの新しいページを開いた。
「今日中に、投資方針を決める」
声に出した。誰もいない部屋で、一人で宣言した。少し恥ずかしかったが、口に出さないと決心が逃げていく気がした。
まず誠一は、自分が調べた投資スタイルを片っ端からノートに書き出した。
デイトレード。スイングトレード。長期投資。バリュー投資。成長株投資。高配当株投資。テーマ株。国策銘柄。インデックス投資——。
書き出してみると、実に多種多様な「流派」があることがわかる。そしてそれぞれが「これが最強だ」と主張している。まるで武道の道場が乱立している戦国時代のようだ。
誠一は一つひとつ、自分の状況を照らし合わせながら検討していくことにした。
◆ 候補その一「デイトレード」
最初に検討したのは、SNSで最も派手に語られている手法だ。
一日に何度も売買を繰り返し、小さな値動きで利益を積み上げていく。成功者の画像には、六台のモニターが並んだ豪華な部屋が映っている。「月収300万」「専業3年で億り人」という言葉が躍る。
誠一は5秒で却下した。
相場が最も動く9時から11時半、そして12時半から15時の引け——その核心部分に、自分はまったく関与できない。会社の業務中に株価ボードを眺めることなど、誠一の職場では自殺行為に等しかった。夜は夜で、子どもの世話と家事を終えると22時を過ぎる。そこから寝るまでの一時間が、誠一にとって唯一確保できる平日の自由時間だ。
デイトレードは、フルタイムで画面に張り付ける人間のゲームだ。参加する土俵が根本的に違う。
「これは俺のリングじゃない」
次。
◆ 候補その二「長期投資・バリュー投資」
いわゆる「本物の投資」と呼ばれるやつだ。割安な優良株を見つけ、数年単位で保有し続けることで大きなリターンを狙う。ウォーレン・バフェットの名前が必ずセットで語られる。
理念は素晴らしいと思った。
しかし、誠一が調べれば調べるほど、壁の高さを実感した。
バリュー投資の核心は「企業の本質的な価値を正しく評価する」ことだ。決算書を読み、事業の競争優位性を分析し、業界の構造を理解したうえで「この株は安い」と確信を持って買わなければならない。
誠一には、その基礎がない。
決算書の読み方はまだ勉強中だ。PERとPBRの違いは辛うじてわかるが、ROEとROAを使いこなすには程遠い。企業のビジネスモデルを深く理解するには業界ごとの専門知識が必要で、一つ一つ調べていたら週末の5時間など一瞬で消えてしまう。
また、長期投資には「信念を持って保有し続けるメンタル」が求められる。株価が30パーセント下落しても「これは一時的だ」と持ち続けられるかどうかは、企業への深い理解があってこそだ。知識も確信もないまま長期保有すると、ただの「塩漬け」になるだけだ。
「基礎知識が足りない今の俺には、まだ早い」
いつかは到達したい境地だが、今ではない。
◆ 候補その三「インデックス投資」
調べるほどに、実は最も「正解に近い」とわかってきた手法だ。
S&P500や全世界株式に連動する投資信託をひたすら積み立て続ける。難しい銘柄選択は不要で、時間もほとんどかからない。長期で見れば市場全体は右肩上がりになるという統計的根拠もある。
誠一は深く頷いた。
そして——一つの問題に気づいた。
面白くない。
いや、これは不真面目な理由ではない。誠一が株式投資を始めた動機には、「お金を増やしたい」という欲求と同時に、「相場というゲームを理解したい」「自分の分析で勝負したい」という知的好奇心があった。毎月決まった額を積み立ててあとは待つだけ、というのは資産形成としては正しくても、誠一が求める「経験の蓄積」にはならない。
「積み立てNISAは別途やる。でもそれとは別の話だ」
並行してやるべきもの、であって、今考えている「自分の戦略」にはなりえない。
◆ 候補その四「テーマ株・国策銘柄」
ここで誠一の手が、少し止まった。
テーマ株とは、時代の流れや社会の変化に乗った銘柄群のことだ。AI、半導体、脱炭素、防衛、インバウンド——そういった「大きな潮流」に関連する企業が、一括りに「テーマ」として市場で注目を集め、まとめて買われる現象がある。
国策銘柄とは、政府が政策として力を入れている分野に関連する銘柄のことだ。政府が「この分野に予算をつける」と宣言した瞬間、関連銘柄が動く。
誠一はここで、初めて「これは使えるかもしれない」という感触を得た。
そこで彼がたどり着いたのが、現政権が掲げる「17の戦略分野」という政府資料だった。野村證券のレポートを入り口に、内閣官房の公式資料まで芋づる式に読み進めていくと、政府が「危機管理投資・成長投資」の名のもとで、具体的な17分野に対して官民挙げた重点投資を推進していることがわかった。
誠一はノートに、その17分野を書き写した。
【高市政権・重点投資対象17の戦略分野】
① AI・半導体
② 造船
③ 量子
④ 合成生物学・バイオ
⑤ 航空・宇宙
⑥ デジタル・サイバーセキュリティ
⑦ コンテンツ
⑧ フードテック
⑨ 資源・エネルギー安全保障・GX
⑩ 防災・国土強靭化
⑪ 創薬・先端医療
⑫ フュージョンエネルギー(核融合)
⑬ マテリアル(重要鉱物・部素材)
⑭ 港湾ロジスティクス
⑮ 防衛産業
⑯ 情報通信
⑰ 海洋
17個、全部書き終えて、誠一はしばらくそのリストを眺めた。
壮観だった。
「AI・半導体」から始まり、「造船」「量子」「バイオ」「宇宙」「防衛」「海洋」まで——日本という国が、これから力を入れていこうとしている産業の地図が、そこに広がっていた。
誠一には経済の専門知識はない。決算書の深読みもできない。しかしこのリストを見て、一つのことを直感的に理解した。
——政府が「ここに金を使う」と宣言しているということは、その周辺の企業は恩恵を受ける可能性が高い。そしてそれは、数年単位で続く話だ。
たとえば「防衛産業」。防衛費はGDP比2パーセントへの増額が既定路線で、これは数兆円規模の予算が毎年防衛関連企業に流れ込むことを意味する。単年度で終わる話ではない。
「AI・半導体」も同様だ。野村證券のレポートには、自民党が毎年1兆円規模の予算確保を目指す方針と書かれていた。TSMCが熊本で3ナノ半導体の生産を表明したという情報もある。これは一過性のブームではなく、国家戦略として10年単位で続く潮流だ。
「海洋」も面白い。南鳥島沖のレアアース試掘が完了し、2027年に本格試掘が予定されている。日本の排他的経済水域に眠るレアアースが商業化されれば、採掘・精製技術を持つ企業が息の長い恩恵を受ける可能性がある。
誠一は興奮を抑えながら、考えをまとめた。
テーマ株や国策銘柄の魅力を整理すると、こうなる。まず「なぜ上がるのか」の理屈がわかりやすい。政府が予算を投入すると宣言している以上、関連企業が恩恵を受けるという論理は直感的に理解できる。決算書の深読みがなくても、「この会社はこの分野に関係しているか」という問いに答えるだけでいい。
次に、テーマが続く時間軸が長い。17分野はいずれも「今年だけ」ではなく、複数年にわたるロードマップが示されている。毎日張り付かなくても、週末に「このテーマはまだ有効か」を確認するだけで対応できる可能性がある。
そして何より、政府が後押ししているという事実が、ある程度の下支えになる。もちろん絶対ではないが、「国が育てようとしている産業」は、そう簡単には潰れない。
「これは俺の時間軸と相性がいいかもしれない」
誠一のペンが、少しだけ速くなった。
◆ チャート(テクニカル分析)との組み合わせ
テーマや国策で「何を買うか」を決めたとして、次の問題は「いつ買うか」だ。
良いテーマの良い銘柄でも、天井で掴めば大損する。「この銘柄は良さそうだ」と思ったときにはすでに急騰後だった、という失敗は初心者が最もやりやすいパターンだとどこかで読んだ。
そこでチャート、すなわちテクニカル分析の出番だ。
誠一はテクニカル分析に当初、懐疑的だった。「過去の値動きから未来を予測する」という発想が、なんとなく占いのように感じられたからだ。しかし調べていくうちに、見方が変わった。
テクニカル分析とは、未来を予言するものではなく、「市場参加者の心理と行動パターン」を読み取るためのツールだ。多くの人が「ここが支持線だ」と信じて行動すれば、実際にそこで株価が反発する。移動平均線がゴールデンクロスを描いたとき多くのトレーダーが買いを入れれば、実際に上昇が続きやすくなる。それは自己成就的な予言であり、だからこそ機能する面がある。
加えて、テクニカルは「損切りの根拠」を作ってくれる。なんとなく「下がったら嫌だな」という感情論ではなく、「この支持線を割ったら損切り」という客観的な判断軸を持てる。これは感情的になりやすい初心者にとって、特に重要だと誠一は感じた。
移動平均線、MACD、RSI、ボリンジャーバンド——まだ全部は理解できていないが、週末にじっくり学ぶ価値は十分にある。難しい財務分析ほどの専門知識は要らない。チャートの読み方は、努力と時間で習得できるスキルだ。
国策・テーマで「どの銘柄か」を絞り、テクニカルで「いつ買うか」を計る。二段構えの戦略が、ぼんやりと形を見せ始めた。
「テーマで銘柄を絞り、チャートで買い時を計る。これだ」
◆ 結論——騰落詩翁の投資方針、決定
コーヒーの二杯目が、すっかり冷めていた。
気づけば時計は12時を過ぎていた。3時間が、あっという間に消えた。しかし今日の3時間は、これまでで最も密度の濃い時間だったと誠一は感じた。
ノートに、太い字で書いた。
【田中誠一・投資方針 ver.1.0】
戦略:国策17分野を軸にしたテーマ株をテクニカル分析で仕掛ける
銘柄選定の流れ:
ステップ① 政府の17分野から「今、最も予算と注目が集まっている分野」を週末に確認する
ステップ② その分野に関連する銘柄を複数ピックアップし、出来高が大きいものを優先する(流動性重視)
ステップ③ チャートを確認し、週足・日足の移動平均線の方向と、押し目のタイミングを見計らう
ステップ④ 損切りラインをあらかじめ設定してから買う
注目する分野の優先順位(現時点):
優先度高→ AI・半導体 / 防衛産業 / 海洋 / 資源・エネルギー安全保障・GX
次点→ 情報通信 / 防災・国土強靭化 / 造船
様子見→ 量子 / フュージョンエネルギー / フードテック
リスク管理:
・一銘柄への集中投資はしない(最大でも全体の30パーセント)
・損切りラインを割ったら原則即撤退(感情で持ち越さない)
・含み損が15パーセントを超えたら問答無用で見直す
時間の使い方:
・平日夜22時以降の1時間:ニュースと17分野の動向チェック、保有銘柄の確認
・日曜日5〜8時間:週足チャートの精査、翌週の候補銘柄リストアップ、テクニカルの勉強
書き終えて、誠一は少し照れくさい気持ちになった。
こんなに真剣に「方針書」を作ったのは、就職活動のエントリーシート以来かもしれない。あのときと同じような、真剣で少し滑稽な高揚感があった。
ただ、あのときと違うのは、相手が「会社」ではなく「市場」だということだ。市場は情け容赦がない。面接官のように建前で褒めてくれたりしない。自分の判断が正しければ利益として返ってくるし、間違えれば即座に損失という形で現実を突きつけてくる。
誠一はノートを閉じ、窓の外を見た。
2月の空は、薄い青だった。
まだ何も勝っていない。銘柄も決まっていないし、実際の売買も始まっていない。これは戦略の「設計図」を書いただけであって、建物はまだ一ミリも建っていない。
でも——と彼は思った。
設計図のない工事は、ただの穴掘りだ。
方針が決まった。次は実行だ。
玄関のドアが開く音がした。「ただいまー」という妻の声と、子どもが廊下を走る音が聞こえた。
誠一はノートをそっと引き出しにしまい、コーヒーカップを持って立ち上がった。日常が戻ってくる。でもその日常の奥に、小さな火種が灯ったままだった。
――第二話・了――




