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第一話「平凡なサラリーマン、株式市場に立つ」

画面の端に表示された時刻は、23時47分。

 田中誠一——享年38歳、いや、まだ死んではいない——は、薄暗い書斎でモニターを眺めながら深いため息をついた。

「……むずかしい」

 その一言が、すべてを物語っていた。

 証券口座を開設したのは三ヶ月前のことだ。「このまま給料だけで生きていくのか」という漠然とした焦燥感が、ある夜ふいに臨界点を超えた。妻はもう寝ている。子どもも寝ている。誰も見ていない深夜に、震える指で口座開設のボタンを押した。あの夜の自分は、少しだけ勇者だったと思う。

 しかし現実は、残酷だった。


 誠一の一日を正直に書き記すと、こうなる。

 朝6時起床、7時半に家を出る。電車の中でスマホをいじる時間はあるが、吊り革につかまりながら複雑なチャートを読むのは至難の業だ。会社に着けば怒涛の会議と資料作りが待っている。

 

 夜は子どもの世話や家事を終えると22時を過ぎる。そこから就寝までの一時間、ようやくパソコンの前に座れるが、脳みそはすでに残業代が出ない状態だ。ぼんやりとした頭で「この銘柄は……なんの会社だっけ」と調べているうちに日付が変わる。それが日常だった。

一時間。

たった一時間で、数千銘柄が乱舞する市場を理解しようというのだから、我ながら無謀な話である。


 救いは日曜日だ。

 妻が子どもを実家に連れて行く隔週の日曜、あるいは子どもが友達と遊びに出かけた午後——そういう奇跡的な時間が重なると、5時間から8時間、腰を据えて相場と向き合うことができた。誠一にとってそれは、砂漠のオアシスにも等しい時間だった。


 問題は、その貴重な時間を「何に使えばいいかわからない」ことだった。

 最初の一ヶ月は、とにかく情報を集めようとした。著名な個人投資家のブログを読み、YouTubeで「株 初心者 勝ち方」と検索し、Xで「本日の注目銘柄」を追いかけた。しかしすぐに気づいた。

 情報が、多すぎる。

 ある人は「テクニカル分析が最強」と言い、別の人は「ファンダメンタルズを無視した投資は博打だ」と言う。「高配当株を長期保有しろ」という声の隣で「短期トレードで月収100万」という広告が踊っている。誠一には、何が正しいのか、まったく判断できなかった。

 銘柄を選ぼうとしても、同様の壁が立ちはだかった。

 たとえばある日、「半導体関連が熱い」という情報を目にした。なるほど、と思い関連銘柄を調べようとしたが、そこで詰まった。「東京エレクトロン」と「レーザーテック」と「アドバンテスト」の違いが、誠一にはわからない。三社とも「半導体関連」と書いてある。どれを買えばいいのか。決算書を開いてみたが、PERやPBRやROEという呪文のような指標が並んでいて、脳が拒否反応を示した。

 結局、「なんとなく有名そう」という理由でトヨタ株を少し買ってみた。

 微妙に上がって、微妙に下がった。何も学べなかった。


 三ヶ月が経った夜、誠一はノートを一冊取り出した。

 株の勉強ノートにしようと思って買ったのに、白紙のまま放置していたやつだ。彼はページを開き、ペンを走らせた。

「俺の条件を整理する」

 書いたのはこうだ。

 使える時間:平日1時間、日曜日5〜8時間。

 銘柄の知識:ほぼゼロ。

 世間の情報収集力:平均以下。

 強み:……?

強みの欄が、空白になった。


誠一はしばらくそこを見つめた。蛍光灯の光が、白紙をじりじりと照らしている。時計の針が進む。0時を回った。


 ——待てよ。

ふと思ったことがあった。

 自分には時間がない。情報収集力もない。銘柄の知識もない。ならば逆に、「情報が豊富にある人が有利な戦場には行かない」という選択肢があるのではないか。

 デイトレードは無理だ。毎日張り付ける人間が圧倒的に有利な世界だ。短期の材料株も無理だ。速報ニュースを誰よりも早く処理できる人間が勝つゲームだ。

 では、時間がない人間にとって「土俵」になりうる場所はどこか。

誠一はネットで検索しながら、一つのキーワードにたどり着いた。

「……『時間を味方につける投資』か」

長期投資。バリュー投資。成長株の長期保有。いくつかの言葉が浮かぶ。完全に理解はできていないが、「毎日チャートを見なくていい戦略がある」という事実だけは、霧の中にぼんやりと光る灯台のように見えた。

さらに書き足す。

 方針案:週1回の判断で動ける戦略を探す。

そこまで書いて、誠一は一度ペンを置いた。


まだ何も解決していない。勝ち筋など、まだどこにも見えていない。ただ、「自分が戦ってはいけない場所」がぼんやり見えてきた気がした。それだけだ。

 でも——と彼は思った。


迷子でも、地図を持っていない旅人でも、「ここは違う」とわかった瞬間から、少しだけ正しい道に近づく。誠一はノートを閉じた。画面の時計は0時32分になっていた。

明日も会社がある。


それでも彼は、なぜか少しだけ、前向きな気持ちで布団に入ることができた。


 騰落を繰り返す市場の片隅で、一人のサラリーマンが、詩を詠むようにゆっくりと、答えを探し始めた。

――第一話・了――

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