愛した人
カイアは願った。彼女の願いが実現することを。
カイアは望んだ。彼女の隣にずっといられることを。
進む先に、彼女がいることを疑わなかった。
「見てみろ、カイア。これが【盛衰の樹】だ」
記憶の中に残る声。俺は彼女の落ち着いた喋り方が好きだった。凪いだ湖のような、優しい声。
そんな彼女が、珍しく声を弾ませ嬉々として言う。
目の前に聳え立つ大樹を指さして。
見た目は巨大な針葉樹で、その体色はきれいな翡翠色をしている。無数に分かれた枝の先すべてが発光しており、淡い光を纏っている姿はとても幻想的だった。生い茂る葉は少し濃い緑色で、若干透けている。
俺も勿論、大樹の神秘的な出で立ちに見惚れたが、それよりも彼女の顔に目が行く。
普段の様子とは打って変わって、幼子のように目を輝かせる彼女の姿に視線を奪われる。
木漏れ日を受けた彼女の銀髪が、きらきらと光って見えた。風になびく髪を押さえて、彼女は感嘆を漏らす。
盛衰の樹の話は、彼女の口から幾度となく聞いたことがある。
理外の姿は、巷で聞く信憑性の疑わしい噂よりもずっと彼女の感性に触れたようで、俺は彼女の微笑ましい姿を目で追った。
「――もう少し近くに行けそうだ」
好奇心に駆られてか、念願が叶って興奮してか。
彼女はそう零しながら、前へ前へと歩を進める。
足元に群生する若い草木をかき分けて、大樹の傍へと。
すると、木々は彼女と俺を歓迎するかのように道を開けていく。左右を挟んでいた木々の枝が、まるで生きているかのように動く。
その理由を考えることもなく、俺はただ不思議だと思った。
自分たちの今いる場所が、奇妙と奇怪で彩られた幻領だということも忘れて。
ざわめき始める木々。強くなる風。空が分厚い雲に覆われ、森に影が落ちる。
彼女の髪を照らしていた木漏れ日が、姿を消した。
「ヴェニス、何か嫌な予感が――」
頭の片隅に言いようのない不安がよぎり俺は言葉を発したが、遅かった。
どうした?と言いかけたのだろうか。
大樹の幹に触れながらこちらを振り返った彼女の体が、突如伸びてきた線状のものに絡まれる。
大樹の横、小さな青い花を咲かせる植物から伸びた幾本もの蔓が、彼女を大樹へと固定するように縛っていく。
――見落としていた。
その見た目には覚えがある。嫌というほどに。
棘のある蔓、危険性を悟らせない誤魔化しのための小さな青い花――【賠罰の仇花】だ。自分より大きな植物に寄生し、獲物を拘束し、あまつさえ自身の糧へと変える恐ろしい肉食植物。
草木が俺たちを避けたのは、こいつが俺たちを誘ったからだと、遅ればせながら理解する。
このあたりの木々は殆ど宿られている。
「――――ッ、ヴェニス‼」
彼女が助けを求めるように伸ばした手を掴もうとしたが、その手すらも蔓に絡め取られ、俺の伸ばした手は虚しく空を切る。
堰を切ったようにあふれ出す焦燥に、心臓が鼓動を早める。
――嫌だ。
こんなことで、彼女を失うなんて。
ようやく自身の奥にあった気持ちを自覚し始めたばかりだというのに。
彼女に巻き付く蔓を、強引に引きちぎる。彼女の頭に巻き付いた蔓を解き、手に巻き付いた蔓を解く。順番に、震える手を御しきれずに、それでも賢明な限り急いで。
自分の手が切れてしまうくらい、どうでもよかった。ここで手を止めればまた蔓が戻る。それに、彼女が今感じている恐怖はきっとこんなものじゃない。
「カイア、ありがとう…………ごめんな」
彼女の手から蔓を解き終えた瞬間、彼女は俺を突き飛ばした。一瞬の間胸中を満たした僅かな安堵が霧散する。
予想外の出来事に、俺はそのままバランスを崩して尻もちをついた。
状況がうまく理解できなかった。
どうしてと問うこともできなかった。
ただ真っ白に染まっていく頭の中で、彼女との思い出が反芻される。
――ふざけるな。走馬灯なんて盛大なフラグでしかない。
俺は我に返って、反射的に彼女の顔を見上げる。
「カイア、問題だ。――【盛衰の樹】の特性を知っているか?」
「それは今する話なのか?ヴェニス、どうしてこんな」
自分の言葉が震えていることに、俺は最後まで気づけなかったのだと思う。
彼女の手を蔓が覆っていく。
俺は急ぎ立ち上がろうとして――。
「来ないでくれ、カイア」
――彼女の言葉に止められた。彼女の真っ直ぐこちらを見る目に、俺は動けなくなる。
駆け寄って問い詰めたかった。どうしてこんなことをするんだと。
どうして、貴方を助けてはいけないのかと。
けれど、初めて聞く彼女の冷えた声音に、それは躊躇われてしまった。
沈黙が、場を満たす。この場で動いていたのは、皮肉にも賠罰の仇花の蔓だけ。
彼女の命を刈り取ろうとする刃のような蔓だけが、今もなお動き続けている。
「時間切れだ――ちゃんと予習をしておけといっただろう?…………たとえ与えられた情報が噂程度の物でも、しっかりと頭には入れておけと」
冷えた声音は気のせいだったかのように失せ、穏やかな声音で彼女は呆れたように笑った。それは無理な笑いでも苦笑でもなく、いつも見せていた優しい笑顔だった。
いつもなら嬉しくなる彼女の笑顔も、今はただ苦しいだけ。
こうやって話している間にも、蔓は彼女を覆っていく。
俺には彼女の意図が読めなかった。
今までも突発的な行動をすることはあったが、今回ばかりは俺の目にも奇異に映った。
彼女の言葉で制止されてから数分も経っていない。我慢はもうできなかった。
どうしようもなく彼女を助けたくて、体が動く。
そんな必死な俺を見ても、彼女はただ笑うだけ。
「答え合わせだ。……正解は――」
彼女を覆う蔓に触れかけたところで、意識の外。彼女の体が触れていた盛衰の樹が、突然赤く発光し始めた。
先程までの淡い光とは違って、目を焼くほどの明るい光。
俺は咄嗟に目を手で覆い隠した。半ば本能のようなものに突き動かされてのことだった。
それ故にたった一瞬、されども一瞬。彼女から目を離してしまった。
自分の行動を悔やみ、目を隠していた手を避けた先。
彼女の姿は、忽然と消えていた。
蔓が彼女の形を象ったまま、中にいた彼女だけ行方を眩ませていた。
「――――ヴェニス⁉」
慌てて辺りを見回してみても、彼女の姿はどこにもない。
嫌な汗が体中から噴き出す。俺は彼女の名を叫びながらそこら中を探し回った。
「どこだ――ッ――、ヴェニス!」
声が枯れるまで、彼女の名を呼ぶ。
いつものように穏やかな返事が返ってくることを切に願って。
けれど、彼女の声どころか気配すら見つけられないまま、時間だけが過ぎていく。
俺は知りうる限り一番安全な木に手をついて、肩で息をする。
どれくらい歩き回っただろうか。
汗で濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
目を閉じて荒い息をしていると、草の上に何かが落ちる音がした。
慌てて目を開けると、足元に落ちていたのはひとつの手帳だった。
ヴァニスが俺に預けていた、彼女の手帳。
導かれるように頁をめくる。
書かれていた内容はほとんど日記のようなものだった。時折幻領にある奇物の噂をメモしている内容もある。
ふと、彼女が消える前に言っていたことを思い出す。
もしかしたら、この手帳に彼女の言いかけた正解が載っているかもしれない。
彼女が沢山貼っていた付箋のページをひとつずつめくっていく。
【永氷の竜】の生態について、違う。【塩街】への生き方、違う。
これも違う、これも、これも、これも。
付箋の頁に書かれていることは全て、彼女と俺で行ったことのある場所や見たことのあるものについての書き纏めだった。
ここに書かれていなかったら、もう一度最初の頁から確認しなおさなければいけない。そんなことを考えながら最後の付箋の頁を繰る。
最初に目へ飛び込んできたのは、目指す場所!という太い青文字。次いで、【再生の樹】の危険な噂、という文字が目に入る。
これだ。俺が探していた頁は。
俺はその頁に書かれた内容に目を凝らす。
頁の終わり、最後の一行にそれは書いてあった。急いで書いたのか、他とは違う書き殴ったような筆跡だった。
大樹に血が触れた時、その血の持ち主は魂ごと吸収される。
頭を強く殴られたような衝撃に眩暈がする。
襲い来る絶望に、膝が折れる。
一番恐ろしいのは、大樹が光ったあの時、何となくでも想像がついてしまっていたことだ。
分かっていて、その可能性を捨てたかった。
彼女はまだ生きていると、信じたかった。
けれどここは幻領だ。常識なんてほとんど通用しない、未開の場所。
彼女は賠罰の仇花の棘蔓によって血を流していた。そしてそれは俺も同じ。
彼女が俺を突き飛ばした理由に胸が痛くなる。
彼女は自分の最期を理解していた。だから、俺を遠ざけた。
俺を巻き込んでしまわないように。
それならそうと言って欲しかった。俺が代わりになりたかった。
けれど彼女はそれを決して望まなかったから、俺を突き放したのだろう。
分かっている。
彼女の気高さも、優しさも、全部。
知っている。
彼女の信念も、生き方も、すべて。
状況が少し違くても、捕まっていたのが俺だとしても、彼女は同じ事をしただろう。
俺が犠牲になることは、絶対に許さなかっただろう。
目の端に雫が溜まる。
視界がぼやける。
俺は上を向いて、涙を誤魔化した。
しっかりしないといけない。ここは幻領だ。
彼女が救ってくれたこの命を守り抜くことが、今の俺に出来る唯一のことだ。
気持ちを切り替えろ。
割り切れない気持ちは、ここを出てから整理するべきだ。
俺は震える足を叱咤して、帰り道を進む。
――せめて亡骸だけでも看取りたかったと、叶わないことを考えながら。
カイアの夢の終わり、そして繋がる新たな始まり。
彼が進む先に、どうか幸多からんことを。
初めまして、瀬那ルキです。
趣味で小説を書いています。
自分の趣味全開の物語ですが、楽しんでいただければ嬉しいです。