④そんな旨い話はない
―――翌朝。
アイダは村の南にある森で佇む長方形の部屋を見上げていた。
トレーラーのコンテナに近い外見だが、れっきとした家の一画である。その証拠として窓のついている壁と反対側のドアがついている面以外は、家の中を支える木材と鉄筋がむき出しになっていた。
だが三ヶ月も風雨に晒されていれば、目に見える程度の劣化もしようはずだが、壁を支える鉄筋は一向に錆びず、木材も苔が生え始めているだけで、虫に食われていたり、菌類に分解され朽ちていく様子は全くなかった。
「いつ見ても違和感しかない」
壁に手を当てながらぐるりと回る。
樹齢何百年という苔生す木々に囲まれている深森。中学生の行事で見た富士の樹海よりも立派な木々が並び、暗く、思わず体の中の何かが吸い込まれそうになる。
普通に考えれば、無数の動植物が立派な生態系をつくっていると考えたくなる。しかし、村の人々は動く者達の存在を許さない『魔女の森』だと物騒な名前で呼び、決して足を踏み入れない。
大学まで理科を学んできた者としては、そんな馬鹿なと一笑に伏したかったが、この三ヶ月余り、草食動物どころか、小さな虫も菌類さえも見当たらない。アイダは目の前の現実を照らし合わせ、どちらが正しいかを判断せざるを得なかった。
一周を終えると、アイダはドアノブを回して部屋に入ると、無意識に鼻をすする。
生まれてこの方、二十年近くを過ごしてきた部屋。しかし、久々なせいか匂いが異なる感覚に陥る。長期の旅行から実家に戻った時の違和感によく似ていた。
「鍵はかけられないのに、荒らされた形跡はない………な」
盗賊や冒険者ですらこの森の中には入って来ないのか。アイダは部屋の中を見渡し、埃が平均的に積もっている事から、そう判断する。
―――三ヶ月前。
ファンタジー的な表現を用いるならば『異世界への転移』という類の現象。事故にあった訳でも、誰かに刺された訳でもない。だが目が覚めると、アイダは部屋ごと、この森に存在していた。
興奮していたのは精々、数時間程度。日本男児として、アイダもその手の作品に興味がない訳ではない。転移によって得られる並外れた能力、元の世界で得たオーバーテクノロジー的な知識や情報、そして待ち受けるであろう英雄的兼ハーレム的展開。努力する事なく約束された勝利の人生を、誰もが妄想するものである。
だが、そんなものは『夢幻の如く』であった。
今思えば滑稽。恥ずかしくて死にたくなる顔だった事を、アイダはこの部屋に戻る度に思い出す。
楽をしてそんな能力や展開が得られる訳がない。できる人間はどこでもでき、できない人間はどこに行ってもできないのである。例えそれが異世界でも、それは社会にとって不変の現実であった。
転移して二日目、スマートフォンの電池が尽き、充電も叶わぬまま何をすればよいか分からなくなった事で、アイダはようやく事の重大性に気付いたのである。