⑪旗を折るモノ
「相田、泳いでもいいですか?」
どこかで聞いていたかのように、リリアが板越しから声をかけてきた。
「………できれば自重してくれ」
その手のお約束を封じる事に全力を注ぐ。
だが油断はできない。この手の流れには、これとは別にもう一つのルートがある。
「きゃ!」
「はい、出ましたっ、鬼の二択! 進んでも地獄! 退いても地獄! どっちなんだい!」
二次元の神からは逃げられない。相田は濡れた頭を抱えた。
板越しから届けられる女性の驚く声。悲鳴ではない事から、彼女にとって危険な展開ではない程度は理解できる。それでも相田はゆっくりと素数を数えながら精神を落ち着かせ、自分が海パンを履いている事を何度も指さしで確認し、尚且つ、目隠し板の前まで歩いて止まるという徹底振りを見せた。
「リリア。大丈夫か?」
何があったと、冷静に相田は板越しに尋ねる。
「相田………こちらに来てもらえますか?」
「やべぇ、マジっすか」
その一言に一体何人の清純で無実な主人公達が、不幸な最期を迎えてきたか。どんな大義名分を持っていても、無意味に処されていく同志達を何人も知っている以上、相田は迂闊に足を踏み出す事ができずにいた。
相田は入っても大丈夫かと、念を押してリリアに尋ねる。
彼女の許可を数度受け、ようやく相田は大きく深呼吸をしてから板の横から顔を覗かせた。
「………人が倒れています。」
相田が見た最初の光景は、白いバスタオルで身を包んたリリア王女だった。タオルで包み切れない雪の様な白い肩や、太ももに沿って落ちていく水、そして濡れた銀髪と眼鏡から垂れる雫が、男心を激しく刺激させてくる。
だが、それに長時間見とれてはいけない。相田はその光景を心のアルバムにそっとしまい込むと、自然体の様に、彼女が指さす方向に視線を向けた。
「確かに、誰か倒れているな」
距離にして十メートル程度。正確な様子は掴めないが、人らしき誰かが倒れているくらいは分かる。
だがここは、動くものが入れば命はない魔女の森。
「リリアはそこにいてくれ。俺が見に行く」
相田は一度剣を取りに対岸に戻ると、濡れたままの足で無理矢理靴を履き、倒れている人影へと向かった。
そして、剣の柄に手を伸ばしながらさらに近付くと、まず最初に荷物袋と旅人らしい安物の服を着た格好が目に入る。次に目に留まったのが、頭から伸びた二本の長い白耳。最後にズボンの臀部から生えている白い毛玉であった。
相田はこれらの情報から、ある動物が思い浮かぶ。
「何だ、兎か」
今まで猫や犬、蜥蜴を基本とした人型の種族は見てきたが、兎は初めてだった。
だがどんな存在であれ、この森に長く居ては助からない。生きているならば、早急に森から出す必要がある。相田は倒れている兎人間の肩に手を置き、揺らす強さを変えながら声をかけた。
「おい、大丈夫か? むむ、返事がない、ただの―――」
決まった表現を言い終える前に、兎人間は何やら苦しそうに口を開き、何かを呟き始める。
相田は相手の口元に耳を近付けた。
「………お腹………減った」




