⑨愛の伝道師
夜も完全に深くなり、吐く息が白くなる。体から出る湯気が散っていく姿を目で追いかけると、そこは満天の星空であった。青と赤の星々が見た事もない並びで集まり、大小二つの月は照明の少ないこの世界でも、十分に歩く事を可能にしてくれている。
結局、銭湯に行く事となったアイダは、店舗や民家の照明が次第に減っていくのを順々に見届けながら帰路へとつく。
日本と異なり、日が出ている間は乾いた暑さ、夜は拓かれた森からの隙間から風が吹き、あっという間に冬手前のような寒さになる。
「寒い日は長風呂に限る」
汗ばむ体を乾かそうとシャツを扇ぎ、夜風が体を撫でる涼しさが実に心地良い。
アイダは裏口から宿へと戻る。まだ体は熱いが、この後はそのままベッドに潜るだけと、窓に近い食堂の椅子に深く腰掛け、一気に体の力を抜いた。
「この宿は気持ちが良いね」
月影で見えなかったが、離れたテーブルに人影が見えた。
宿泊客だ。
アイダは思わず立ち上がり、『ありがとうございます』と慌てて気持ちを切り替える。
しかし旅人は申し訳なさそうに両手を軽く振るう。
「いやいや、座って下さい。もう、今日のお仕事は終わっているのでしょう?」
そう言って旅人はアイダと同じテーブルの向かい側に座り直す。
彼も既に寝る直前なのだろう、薄い服装をしている。そして、月の灯りが窓から差し込み、同性とは思えない美しい金色の長髪が淡く光る。細身でどこか優しげな雰囲気を漂わせ、贔屓目に見ても女性にもてる男の顔立ちだった。
「もしかして、昼にいらっしゃった………」
いつの間にか姿が見えなくなっていた旅の吟遊詩人であった。
泊まりに来ていた客の顔をすぐに思い出せなかった事に、アイダは額を軽く小突く。
「………旅人さんは楽器を演奏しながら旅をしているのですか?」
とりあえず何気ない会話を作る事で誤魔化した。
「そう。愛という名の物語を語る為に各地を旅している。人は僕を愛の伝道師ロデリウスと呼ぶ」
音を立てていきなり立ち上がり、男は両手を胸に当てながら自分を語り出す。アイダは目の前でこじらせた男の姿を見せられつつも、適当に笑って誤魔化した。
悉く予想を裏切らないイメージ。改めてここがファンタジーな世界なのだとアイダは思い知らされる。
「そういえば気になっていたのだが………君は、ここの人達の家族なのかい?」
自称愛の伝道師は、椅子に座るや話題を変えてきた。
「あ、いえ………違います」
肌の色が違えば、こういった質問も初めてではない。アイダは用意していた事情を彼に説明した。
勿論、異世界から来た等という突拍子も無い真実を話す訳にもいかず、『行き倒れ』と『記憶喪失』という、都合のいい単語を並べていく。




