第九話 陣馬山へ
4月下旬の週末、天候は晴れ。
気温もほどほど。
この条件で家にいるのはもったいない。
早朝の高尾駅に僕はいた。
ここから陣馬高原下行きのバスに乗ればいい。
なお高尾山に行く人はここでは降りない。
一駅先の高尾山口駅で下車だ。
たまに間違える人もいる。
それはともかく、バス停に向かう。
駅の北口がロータリーになっていて、ここに各方面へのバスが停まる。
人も多いし見つけるのは簡単だ。
更に親切なことにバス会社の乗務員が案内している。
「景信山に行かれる方はこちらの小仏行きです。陣馬山に行かれる方はそちらの陣馬高原下行きでお待ちください」
親切なことだ。
というより、間違えて乗った客の苦情が面倒なのだろう。
苦情というか言いがかりだと思うけどね。
軽視しがちだけど、どういう交通機関を乗り継いで行くかは割と重要だ。
登山以前の問題なのだけど、これでつまずく人はいる。
知らない路線の電車の乗り換え。
普段バスに乗らない人がバス停探してバスに乗る。
普通にやれば出来るはずだけど、山に行くことに気を取られての失敗はある。
"特にバスを見逃すと痛いよなあ"
ローカルバスの土日なんて昼間に数本しか走っていないからな。
登山自体よりバスの待ち時間の方が辛かった、なんてことにもなりかねない。
今回はそんなことにはならないけれど。
陣馬高原下行きのバスの乗り場で列に並ぶ。
そこそこ人は多い。
隣の小仏行きの方も同じくらいだ。
景信山も悪くない。
標高727メートルの低山だ。
高尾山の次に登る山くらいの位置づけになる。
陣馬山〜高尾山の縦走の途中にあるので、僕は山頂だけパスしていく予定だ。
しかしこうして見ると、登山者は中高年ばかりが目立つ。
60代以上と思われる人が大多数だ。
昔、山をやっていた人が長く登山を続けているパターンだろうか。
確かにこつこつ続けられる趣味ではあるよな。
そういったベテラン勢の中に僕が混じっている。
30歳は相当若い方だろう。
自分が60、70歳になった時に山をやっているだろうか。
今はまだ分からない。
ただ、よほどのことが無い限り山を嫌いにはならないと思う。
そうでありたい。
バスがロータリーを回ってきて停車する。
窓際の席に座れた。
目的の陣馬高原下バス停はここから20分余りだ。
バスが走り出す。
次第に人も家も少なくなっていった。
代わりに山間の道の色合いが濃くなっていく。
人の住む領域から自然の宿る領域へとシフト。
視界に占める葉桜が春の真っ只中だと教えてくれた。
細い道へとバスが滑り込む。
窓の外には草木が生い茂っている。
"そろそろかな"
視線を前にやった時、バスのスピードが緩んだ。
「次は終点、陣馬高原下です。陣馬山に登られる方はこちらで降りてください」
アナウンスが流れた。
車内の空気が一瞬変わる。
焦れたような、ほっとしたような。
上手く言えないけれどもそうした感じだ。
バスを降りる。
バス停の近くにごく小さな休憩所のような場所がある。
ここの椅子にザックを置いて最後の準備をした。
交通系ICカードは下山まで使わない。
だからザックのポケットに。
家の鍵と財布も同じ場所にしまっておく。
登山に関係ないものはまとめて保管した方が取り出しやすい。
日焼け止めは家を出る前に塗っておいたから不要だ。
水筒から水を一口飲んでおく。
ザックを背負い、ベルトを締めた。
重みがぶらつかずにぴたりと背中に張り付くのが分かった。
「よし、行くか」と呟き、僕は歩き出した。
陣馬高原下バス停からいきなり登山口に入るわけじゃない。
ここから川沿いの道をとことこ歩く。
頭上には木の枝が重なっている。
ウォーミングアップにはちょうどいい感じだ。
およそ20分程度で登山道の入口に着いた。
小さな木の橋を渡り、川の向こうへ。
ここからは本格的な登山道だ。
登り始める。
アスファルトとは違う土の感触が靴底から伝わる。
呼吸。
植物の気配が肺を満たす。
早朝の山間部だけにやや涼しい。
動き始めた体の熱が相殺される。
一秒ごとに山の中へと分け入っていく。
体を動かしながら記憶を辿った。
このルートだったはずだ。
小泉と二人で登ったのは。
あれは大学2年の時だったな。
† † †
季節はちょうど同じ頃。
新入生の入学式が終わり、新しい学年に馴染み始めた頃だった。
春の陽気に誘われ、理由もなく出かけたくなる――そんなある日のこと。
「松田くん、週末予定ある?」
「はい?」
小泉にいきなり声をかけられた。
部活が終わり、たまたま一緒に校門を出た時だった。
別に小泉とは特に仲が良いわけじゃない。
普段は行動を共にすることは滅多にない。
同じ山岳部にいながら1年間、必要以上のことは話さなかったし。
仲が良い悪い以前に接点が無い。
だから意識の端にすら浮かばない。
そんな仲だった。
だからまずどう答えていいか迷った。
特に予定は無いけど素直に答えるべきか。
警戒するなら嘘でも「うん。予定で塞がっている」とブロックすべきだ。
けれどもそこまでする必要もないのでは。
一瞬で思考をまとめ「いや、特には」とだけ返答していた。
実に芸がない。
こちらの葛藤など相手は知る由もない。
無造作に二の矢を放ってきた。
「そっか。よかったらさ、山行かない? 陣馬山〜高尾山の縦走」
「は?」
間抜けな反応としか出来なかった。
何だ、これは。
びっくりか?
ほとんど話したこともないのに二人で山?
こちらの当惑にも構わず、相手は更に攻め込んでくる。
「ほら、夏山のトレーニングにもなるし。集合場所は高尾駅でいいよね。時間は8時でいいかな?」
「待て待て待て待て」
相手の一方的なトークを止める。
小泉は「ん?」と首を傾げた。
「何か問題ある?」
「問題うんぬん以前の話として。何故僕をわざわざ二人だけの登山に誘うの? 森下や桜井はどうした? 女の子の方が良くないか」
「や、今回それはちょっとですね。よろしくないんですよね」
小泉は言葉を濁す。
両手の人差し指を体の前でつんつんと合わせていた。
視線が泳いでいる。
ははーん、何かあるな、これ。
ピンときた。
断ろうかなと思った時だった。
「松田君にさ、聞いてほしい話があって。だから迷惑かもしれないけど......お願いします」
そう言って小泉はぺこりと頭を下げる。
急に声もしおらしくなった。
まずい。
周囲の視線を集めている。
このままではよろしくない。
――松田、小泉を路上で謝らせていたらしいぜ。
――まじ? やばくね?
――大人しそうな顔してるのにね、彼。
――人は見かけによらないよねー。
こんな噂が立ったら社会的に死ぬ。
「オッケー、とにかく頭を上げてくれ」と速攻で立ち直らせた。
パッと小泉の顔が明るくなる。
「良かった! じゃあ一緒に縦走行ってくれ「もちろんです行かせていただきます」
食い気味に何度も頷く。
学生生活の残りを白い目で見られたくない。
そのためなら不自然な誘いでも受けてやる。
これが僕と小泉がまともに話した初めての機会だった。