第八話 春もたけなわ、次の山
趣味の話を職場でするつもりは無かった。
仕事以外のことを持ち込むのは面倒だし。
なので登山を再開したことも黙っていた。
けれどふとしたことでバレてしまった。
ある日の昼休みのことだ。
僕は昼食後に職場のPCで山のマップを見ていた。
休み時間なので普通のサイトであれば特に問題はない。
「あれ、松田さんもしかして登山されるんですか?」
「ん? ああ、ちょっとだけ」
聞いてきたのは後輩の女性。
僕より5歳年下だ。
軽く答えて続けてマップを見ようとした
けれど相手が更に話しかけてくる。
「いいですね、健康的で。わたし登山って時々憧れるんですよ。山の空気って美味しいのかなーとか、水が冷たいんだろうなーとか」
「そっかー」
「上高地ってあるじゃないですか。松本から行く。あそこ一回行ってみたくて。梓川でしたっけ、動画で見たけど水がめっちゃ透明度高くてびっくりしましたよー」
「うんうん、河童橋の辺りねー」
適当に頷く。
ついでに教えてあげる。
「もしGWに上高地行こうかと思ってるならよく考えた方がいいよ。観光客が凄いから。あそこは日本で一番人気のある山岳リゾート地だ」
「えっ、そんなにですか?」
「うん。昔から人気ある。観光とは関係ない登山者もたくさん来るけど」
「ザック担いで登山靴履いた人達のことですよね。登山には興味あるけど、あそこまで重装備するとやっぱり大変そうだなって思っちゃいます」
「上高地から登る山は北アルプスの有名どころだからね」
話が長くなりそうだ。
マップの検索を打ち切る。
椅子の背もたれに背中を預けた。
「ざっと槍ヶ岳、奥穂、北穂、前穂、蝶ヶ岳、焼岳。前の4つは日本有数の名峰。蝶ヶ岳、焼岳は比較的簡単」
「簡単なんですか。じゃあ高尾山登れたら登れます?」
「......蝶ヶ岳が標高2600メートル超」
教えてあげたら後輩は目を泳がせていた。
「んんん〜?」と唸った後、恐る恐る「そのぉ、焼岳という山は」と聞いてくる。
「確か2400メートルと少しかなあ。ただあそこは梯子や鎖場があった気がする」
「ええ〜無理じゃないですかあ〜」
「あと焼岳は活火山なんだよね。たまに噴煙が観測されてるよ」
「こっわ!!」
「だから登れるピークが限られていたはず。登山始めたいなら大人しく近場でやりなよ」
「う、うう、上高地の夢破れたり。先輩、どこか連れていってくださいよぉ〜」
「やだよ。自分で探しなよ」
「ええ、冷たいなあー。可愛い後輩がこんなに切実に頼んでいるのにー」
「自分で可愛いというやつは信用しないことにしている」
きりのいいところでチャイムが鳴った。
昼休み終了5分前の合図だ。
後輩は「うう、素敵な登山女子への道は遠い」と言いながら立ち去った。
素敵な登山女子?
あれか。
インスタに北アルプス登頂やったーという映える写真載せてバズらせ狙うような女子か。
動機は何でもいいけどさ。
登山舐めてると死ぬぞ?
午後の仕事が始まった。
必要なタスクを片付けながら、上高地のことを考えた。
後輩に言った通り、上高地は登山のベースキャンプ兼スタート地点的な場所でもある。
河童橋から歩いていけば明神、徳沢、横尾に着く。
槍に行くにせよ穂高方面に行くにせよ、絶対にこれらの場所は通過する。
上高地周辺の登山の前線基地にあたると言える。
"仮に冬季の奥穂に登るとして"
あの手帳の最後。
小泉が書いた大学最後に達成したかった願い。
"横尾から左折して本谷橋を越えて行けば、穂高に向かうけど"
積雪期の上高地には踏み込んだことはない。
調べた限りでは冬の奥穂は相当に難しい。
雪山の中でも難易度ランクがある。
あくまで目安ではあるけれど、奥穂は最高ランクの中に入る。
ここを上回るのは厳冬の剱岳くらいだ。
高度を別にするならヒマラヤの高山に匹敵する難易度なのでは。
"行けるか?"
自問してみてすぐ止めた。
無理だ。
少なくとも今は。
リアリティの無いアイデアを頭から追い出した。
PCに視線を戻す。
午後3時の会議の前に資料に目を通しておくことにしよう。
† † †
日の出山に登ってからも、僕は登山を繰り返した。
毎週ではないにせよ、出来る限り登る。
早めに登山の感覚を思い出したかった。
脚力が徐々にではあるが強化されていくのが分かった。
あとは単純に山が楽しい。
自分の体一つを頼りにじりじりと登っていく。
非日常を肌で感じる楽しさがある。
安全を確保した上での冒険とでも言うのかな。
幸い東京近辺には日帰りで登れる低山がそこそこある。
僕がここ二ヶ月で登ったのは奥多摩方面の高水三山、浅間嶺。
古里駅から大塚山を経由しての御岳山のロックガーデン。
奥武蔵まで足を伸ばし関八州見晴台も登った。
小田急線とバスを乗り継いで大山にも登ってみた。
どの山も問題なく登れた。
足を痛めて立ち往生するというようなことはなかった。
とはいえやはりブランクはある。
昔の自分は若かったなあとぼやく気はないけれど。
少し無理をすればもう少し高い山にも登れるとは思う。
けれど急いでも仕方がない。
安全マージンを取った上で楽しめる登山を選んでいた。
ちょっとはましになったかなという感覚はあった。
"そろそろやってもいいよな"
自宅のベッドに寝そべりながら山の本を開く。
僕の開いているページは高尾山〜陣馬山の縦走を紹介しているページだ。
陣馬山は高尾山の西の方にある山だ。
標高は855メートル。
それほど高い山ではなく、手頃な登山の対象だ。
この陣馬山に登って、そこから尾根伝いに高尾山へと縦走しようと考えている。
長い距離をかけて少しずつ下るイメージだ。
標高自体は大したことはない。
縦走コースとしても良く整備されており、特に危険な箇所は無い。
ただ距離が少々長い。
陣馬山〜高尾山の山頂区間だけで10キロを超える。
各山の登り下りを加算すればもっと歩くことになる。
縦走の初歩ではあるけれど長い距離を踏んでスタミナ強化にはうってつけ。
そういった意味が強いコースではある。
ただ、僕にとっては個人的に別の意味もあった。
大学時代に小泉と二人で歩いた登山道なのだ。
彼女がとある理由から誘ってきて、僕が同意した。
登山を再開するにあたってやっぱりこのコースは外せない。
センチメンタルになっているのは承知の上だ。
"途中でバテたら笑ってくれよ"
心の中で小泉に問う。
もし天国で聞いていたらあいつ、どんな顔をするかな。
「えっ、そんなに貧弱になったの? やばくない?」と煽ってきそうな気もするんだけど。
やめだ、やめだ。
くだらない想像をシャットダウンした。
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よし、今週末天気が良ければ行ってみるか。