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第五十四話 エピローグ 〜夏の涸沢から〜

 生ビールは一口目が最高だ。

 さっぱりした苦みが炭酸と共に喉を走り抜ける。

「ふうっ」と大きく息を吐きながら、僕は空を見上げた。

 白い雲がところどころポカリと浮かんでいる。

 太陽はまだ高く、本来なら暑くて屋外にはいられないだろう。

 だけどここは夏の涸沢だ。

 標高2300メートルの場所はむしろ夏だからこそ快適。

 2024年8月。

 あの冬の奥穂高登頂から6ヶ月が経過していた。

 僕は夏季休暇をここ、涸沢で過ごしている。


† † †


 ビールを飲みながらあの時のことを振り返ってみた。

 何とか登頂したのは良かった。

 四人とも大喜びだったのは言うまでもない。

 ただし登山は戻るまで終わりじゃない。

 下山というミッションは登攀とはまた別の困難を伴った。

 奥穂高山頂からまずは穂高岳山荘まで。

 下りの方が実は怖い。

 目線が足場まで遠くなるからだ。

 根津さんが先に行ってくれて本当に良かった。

 彼がいなければ恐らく滑落していたと思う。

 

 穂高岳山荘でテントとザックを回収。

 再び重い荷物を背負って、ザイテングラートから下った。

 黙々と集中したおかげか、何とかここを乗り切った。

 最大の難所はこれで終わり。

 涸沢までは雪の斜面を二人一組でロープを使って下りていく。

 一度足元を取られて転倒しかけてしまった。

 慌ててピッケルを雪に突き刺してバランスを取ったのは良かったけれど。

 僕だけじゃない。

 佐藤さんご夫妻も1回ずつ転びそうになった。

 登頂を果たして緊張感が切れてしまったんだと思う。

 無理もない。

 冬の奥穂という厳しい山行の3日目だ。

 体力的にもジリ貧になっていた。

 だからだろう。

 涸沢で予定通り3日目の宿泊をしたのは。

 時刻は涸沢到着時点で正午過ぎ。

 頑張れば横尾まで戻れそうだったけど。


「ここでテントを設営しましょう。今日はもう無理だ」


 根津さんのこの判断は正しかったと思う。

 積雪状態と僕らの疲労を考えると、横尾までの道のりは遠過ぎた。

 もし横尾に着いたとしても、体力を使い果たしていたらまずい。

 テント設営すら出来ない状態だと夜中に凍死してしまう。

 だから僕らは3日目は涸沢でストップ。

 その夜はよく眠れたのは覚えている。

 前日に比べると800メートル標高を下げた効果もあったんだろう。

 呼吸が楽だった。


 翌朝目覚めた時は爽快な気分だった。

 天候にも恵まれた。

 涸沢から横尾へ順調に下っていった。

 横尾で小休憩を取り、上高地へ一直線。

 フラットな雪道をひたすら戻っていった。

 でも皆の顔は明るかった。

 これで無事に帰れるという喜びを噛み締めていた。

 夕方近くになり、上高地に到着。

 駐めていた根津さんの4WDに乗り込んだ。

 車が動き出した瞬間、心底ホッとしたのはよく覚えている。


† † †


 あれからもう半年か。

 よく登ったなあとしみじみ思う。

 常人の出来る限界に近いんじゃないかな。

 もう1度やってみるかと言われたら断るだろうね。

 うん、それだけ大変で。

 だけどそれに見合うだけの価値はあったよ。


 "前よりポジティブになれたかな?"


 もつ煮をつつきながら自問する。

 奥穂から帰った後、僕は管理職試験を受けた。

 上司に勧められながらずっと先延ばしにしていた試験だ。

 後輩は「どうしたんですか、先輩? いきなりやる気見せちゃって!?」とびっくりしていたな。

 いや、別に驚くほどのことじゃないでしょ。

 胸のつかえが取れたからやってみようかと思っただけだよ。

 ちゃんと対策した甲斐もあって合格したしね。


 これだけじゃない。

 僕は自分の人生の色んなことを真剣に考え始めている。

 仕事のこと。

 恋愛のこと。

 趣味のこと。

 家族のこと。

 日々の雑事に流されて考える事を後回しにしてきたことだ。

 あの冬の奥穂をやれたんだから大抵のことは出来るはずだ。

 とにかくやってみようと思えるようになったのは進歩だろう。

 やってみて駄目ならその時考えてみればいい。


 "自分の価値を信じてか"


 使い古された言葉だ。

 そう思うけど、笑う気はしない。

 単純なことほど難しい。

 周囲の価値観に振り回されて前向きになれなくて。

 他人と比べていつしか自分を見失う。

 今にして思うと、昔の僕はそういう人間だったんだろう。

 自分は大したことがないって勝手に諦めていた。

 楽な方へと逃げようとしていた。

 でも少しは変われたのかな。


 周りを見る。

 たくさんの登山者が思い思いに時を過ごしている。

 ここ涸沢から奥穂か北穂を目指すのだろう。

 登攀意欲に満ちた表情をしている人が大半だ。

 登山を通して前向きになれるのか。

 それとも前向きな人が登山をするのか。

 何とも言えないし正解も無いだろう。

 けれど中には僕みたいに山の経験からポジティブになれる人もいるんじゃないかな。

 そう考えながら視線を上げた。

 威厳に満ちた岩稜が堂々とそびえ立っている。

 夏の奥穂高はまた冬とは違う顔だ。

 雪をまとわず素顔の岩肌。

 しばし言葉もないまま、じっと奥穂を見ていた。

 山を見ながらの生ビールともつ煮が美味い。

 今回は涸沢までと決めていた。

 これ以上は登らないから気は楽だ。

 時折他の登山者の話し声が耳に飛び込んでくる。


「凄いねえ、こうして見ると。奥穂高ってあんなに大きいんだ」


「登れるのか不安になってきたなー。でもここまで来たんだし頑張ろうね」


 女の子の二人組らしい。

 じろじろ見るのも失礼だと思って視線を外す。

 だけど声をかけられてしまった。

 生ビールに口をつけた瞬間だったので、むせそうになった。

 振り返ると背の高い子がこちらに笑顔を向けている。


「あの、お一人で登られるんですか?」


「ああ、いえ。登らないです。僕は涸沢までで今回は終わりですから。」


 そう答えると背の低い子が「今回はってことは前に登られたことが?」と聞いてきた。

 勘がいいね。


「はい。6ヶ月前に冬の奥穂に四人で。だから今回は涸沢でのんびりしようかなって」


 冬の奥穂という一言に二人の表情が一変する。

 感心と驚きが混ざったような顔だ。

「えー、凄いですねぇ」と誉められてもこっちは何も提供できないけど。

 ああ、いや。

 アドバイスくらいはしてもいいか。


「明日登るんですよね。山頂近くは本当に緊張します。体力も必要ですけど一番大事なのは」


「「大事なのは?」」


 二人の声がハモった。

 笑いそうになるけど我慢する。


「自信を持って挑むこと。メンタル」


 僕に言えるのはそれくらいだ。



 日が沈もうとしている。

 夏の夕暮れは美しい。

 北アルプスなら尚更だ。

 涸沢ヒュッテのデッキから僕は稜線を眺めている。

 奥穂が西側にそびえているから、ここから夕日は見えない。

 常念岳や蝶ヶ岳が夕日に照らされているのが見えるだけだ。

 それでも十分鑑賞に値するのがいいな。

 ロマンチックを超えた荘厳さが漂っている。

 不意に肌寒さを覚えた。

 上着を羽織るとちょうどいいくらいだ。

 そのまま僕は夕暮れの北アルプスを見ていた。

 自然と気持ちは内に向く。


 小泉が亡くなったこと。

 彼女の手帳を読んだこと。

 登山を再開したこと。

 徐々に冬の奥穂を意識していったこと。

 三ッ瀬と再会したこと。

 宏樹、森下、桜井からネックウォーマーをもらったこと。

 悪戦苦闘した挙げ句、どうにか冬の奥穂に登頂したこと。

 全てが夢のようだった。

 でも夢じゃないことは僕が一番よく知っている。

 現実なんだ。


 "僕は"


 右手を軽く開く。

 握る。

 この手であの時、山頂に触れた。

 体も心も打ち震えた。

 きっとあの瞬間を僕は忘れないだろう。

 他人が何と言おうと、僕の大切な記念碑だ。

 そしてあの時聞こえた小泉の声も。


 ――ああ、そうだね。

 ――きっと僕は君のことが。

 ――好き、だったんだろうな。


 冬の奥穂登頂からしばらくして、僕は小泉への考えを変えた。

 学生時代、僕には彼女をデートに誘うことさえ思い浮かばなかった。

 会えば話す、ただそれだけ。

 けれどもあの時の僕は、小泉夏穂しか女の子として意識していなかった気がする。

 他の人より大幅に恋愛感覚が遅れていたからかな。

 ただ話すだけで満足だった。

 彼女が僕と親しく話してくれて、笑っていてくれればそれで良かった。

 こんなふわっとした好意だから自分でもよく分かっていなかった。


 気が付くのが遅いって?

 分かってる。

 自分でも呆れるくらいだ。

 けどね、小泉。

 冬の奥穂を登るという君の願いを叶えてみせたんだ。

 だから大目に見てほしいな。


 もしもあの世で出会ったら。

 その時はきっと、君にちゃんと伝えるよ。

「えっ、そうだったの!? しかも今さら!?」とビックリされそうな気もするけど。

 ずっと言わないままなのは、ちょっと違うと思うから。




〜Fin〜

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