第五十一話 標高3100メートルの夜
疲れた。
テントの中で僕はぼんやりと座っている。
具体的に何をしているわけでもない。
何もする気力が無いだけだ。
風が時折テントの生地を叩く。
耳障りな音だけど対処のしようがない。
耳を塞いでうずくまる。
根津さんと佐藤さんご夫妻は無事だろうか。
そのはずだ。
テントが吹っ飛ばされればさすがに気がつく。
そういう音はしなかった。
ということは大丈夫なのだろう。
穂高岳山荘まで辿り着いてからの事だ。
僕の後に佐藤さんご夫妻も到着した。
怪我などは無かったが、相当に疲労困憊していた。
いや、お二人だけじゃない。
僕も根津さんもへとへとだった。
もう指一本動かしたくなかった。
とはいえテントは必要だ。
予定通り、山荘の隣にそれぞれがテントを張った。
手がかじかんで、中々上手くいかなかったな。
ようやく作業が終わり、テントの中に転がりこんだ。
そして今に至る。
テントの外は薄暗い。
日没した直後なのだろう。
高度3100メートルからの夕焼けを見たい気持ちもあったが、もうどうでもいい。
これほど疲れるとは予想以上だ。
朝から何時間行動したっけ?
6時過ぎから15時半、9時間半か。
休憩も挟んだけどかなりの長時間動いている。
体が悲鳴をあげているのも無理はない。
高度も負担になっている。
今日だけで約1500メートルも標高を上げた。
空気の、より厳密に言えば酸素の薄さが突き刺さる。
3000メートルの高さだと地上の7割の酸素濃度だったはずだ。
呼吸が荒いのはそのせいもあるな。
今は動いていないから何とかなっているけれど、明日は――
駄目だ。
弱気になり過ぎだ。
明日のことはいい。
まずは今のことを考えよう。
少しでも体のコンディションを戻そう。
その後、横になろう。
眠れないとしても体を休めないといけない。
"面倒くさいけど、ザックを"
ザックを開き、バーナーを取り出した。
これに火をつければ雪を溶かしてお湯を沸かせる。
いや、バーナーだけじゃ駄目だろ。
ガスカートリッジとライターも必要だ。
普段通り行動出来ていない。
疲れと薄い酸素のせいか。
呆れるほど自分の動きが鈍いことを自覚する。
苛々したが八つ当たりだけは我慢した。
後で片付けることを考えると自重するしかなかった。
どうにか火を点ける。
数センチだけテントの裾を開いた。
一酸化炭素中毒を防ぐためだ。
うん、いいな。
この程度の山での常識が働く程度には頭が回っている。
ガスの青い火をじっと見つめ、お湯が沸くのを待った。
手をかざす。
ほんの小さな火ではある。
けれどもこの寒気の中では貴重な暖房だ。
お湯が沸くのが早いな。
気圧がそれだけ低いからか。
そんなことを考えつつ、沸かしたお湯で紅茶を淹れた。
砂糖も相当量入れる。
エネルギーは取れるだけ取っていい。
でなければ寒さに耐えられないだろう。
水分を取る意味でも重要だ。
体が水不足になればたちまち動けなくなるだろう。
うん。
熱い紅茶を飲み干していく。
手足の先がじんわりと温まってきたようだ。
こう感じるということは凍傷にはなっていない。
"食事は......どうする"
調理する元気は無い。
だが何か食べないとまずい。
食欲があるだけましだ。
本当に疲れると食欲すら無くなるからな。
どのみち今日の夕食は携帯食の予定だった。
運動量的に2日目が最もハードだと分かっていたからだ。
根津さん達もそれぞれで何か食べているだろう。
ザックの中を漁る。
といっても選ぶほどの種類は無い。
ビスケット、それにプロセスチーズでいいか。
何となく塩気が欲しかった。
がりがりとビスケットを囓る。
味はよく分からない。
吐かなかっただけましか。
チーズの方が手強かった。
冷え過ぎて固い。
歯が立たないわけじゃないけど、とろけるようなとはいかない。
噛み締めながらどうにか食べる。
味気ない夕食だな。
いや、でもこんなものだろう。
今大事なことは何かを食べたということだ。
エネルギーを補充出来れば体は動く。
明日はこの体で奥穂の山頂にアタックしなきゃいけない。
食事は体を動かす燃料だ。
"どうかあと2日保ってくれ"
明日登って明後日は上高地まで帰るんだ。
祈るような気持ちで寝転んだ。
スリーピングマットの上でもまだ冷たいな。
でも外よりはましだろう。
冬の奥穂の夜なのだ。
マイナス20℃くらいまで下がる。
瞬間的にはもっとかもしれない。
冷凍庫の中に一晩中いるようなものだ。
狂気の沙汰だな、まったく。
"外、もう真っ暗だな"
どんな感じなのだろうか。
不意に外が気になった。
あとは眠る、というか横になるだけだが、一度だけ外を見ておこう。
二度と見ないかもしれない冬の奥穂の夜だもんな。
のろのろと動く。
寒さをこらえながらテントから首を出した。
「う、わぁ」と間抜けな呟きが漏れた。
夜の世界が広がっている。
静謐。
印象としてはその一語が全てだ。
思ったより明るいのは月が出ているからか。
雲の切れ目から満月が見えた。
優しい銀色の光が北アルプスに降り注いでいる。
目をこすり、遠くを見る。
夜の中に薄っすら、ほんの薄っすらと山の稜線が浮かび上がってきた。
巨大な影絵だ。
夜空の黒色に微妙に色が異なる山の黒色が重なっている。
何とも形容しがたい感情がこみ上げてきた。
僕の持っている言葉では表現できない、そういう感情だ。
ここは天に近い場所だ。
唐突にそう思った。
冬の満月に照らされた北アルプスは、まるで神様の箱庭だ。
見上げる。
漆黒の夜空に煌めくのは冬の星。
空気が澄み切っているからだろう。
月夜でも驚くほどクリアに見えた。
黒天鵞絨の上に宝石をばらまいたかのような......そんな比喩が脳裏に浮かぶ。
たくさんの星が夜空のあちこちで瞬いている。
冷たい煌めきを視界に収めた。
"ああ、もしかしたら"
小泉が冬の奥穂に登りたかった理由って、この景色も含まれるのかも。
こんな標高から夜空を眺めるなんて、相当レアな経験だ。
僕は別にロマンチストじゃない。
それでもこれは見て良かったと素直に思う。
こんな綺麗な星空は初めてだな。
けれどずっと顔を出していると寒い。
これ以上は耐えられずテントの中に引っ込んだ。
顔をこする。
僅かな時間なのにすっかり冷えている。
これ以上はまずいだろう。
"寝よう"
横になった。
眠れるかは分からない。
けれど目を閉じるだけでもましだろう。
時折テントがバタバタいう。
風か。
これでも山荘の壁際だから少しはましなはずなのに。
眠っている間に吹っ飛ばされないだろうか。
ペグはちゃんと打ち込んだからいくらなんでも。
張り詰めた神経が緩む。
極度の疲労が昂った神経を上回った。
意識が崩れ落ちていく。
脳裏で小泉が「おやすみ」と囁いた気がした。
幻聴か、と思った時には眠りの世界に引き込まれていた。




