第四十九話 ザイテングラート
涸沢から上部は広い岩の斜面になっている。
しばらく登って標高を稼ぐ。
その後、左にトラバースしてザイテングラートの取付きまで行く。
夏場ならどうということもない。
けれど冬場は一変する。
斜面に積もった雪が難易度を大幅に上げていた。
"ルートは見えているのに"
斜度がちょっときついだけだ。
何をびびっているんだ。
まだザイテンに取り掛かってすらいない。
だが、足元の不安定さに歩行速度が殺された。
それでも根津さんのアシストもあり、このトラバースを終える。
大きく息を吐いた。
体以上に神経が疲れた。
口から出たのは謝罪の言葉だ。
「すいません」
「ん?」
「遅いので足を引っ張ってしまって」
「ああ。いや、普通でしょう。特に遅くもないです」
根津さんは淡々とした顔だ。
それでも元山岳部としては恥ずかしい。
もう少し昔は雪でも歩けたのにな。
やっぱりブランクか。
振り返る。
雪の斜面に自分の足跡が点々とついている。
下を見れば涸沢は遥か下方だ。
ヒュッテの屋根が小さい。
標高をかなり稼いだ。
500メートル程は登っただろうか?
とすれば標高2800メートル。
そろそろ酸素が薄くなってくる頃だ。
体が重い気が......いや、気のせいだろう。
根津さんは僕の隣で平然としている。
佐藤さんご夫妻を見守っているようだ。
僕もお二人の姿を追う。
"凄いなあ"
心の奥で感嘆した。
実に安定した登り方だった。
先行した旦那さんがきちんとセルフビレイをしている。
腰を落とし、雪に突き立てたピッケルをしっかりと握っていた。
奥さんの歩行も危なげがない。
転倒のリスクを考慮してだろう。
右手にピッケルを握り、左手はロープを手繰るように持っている。
用心しているのが分かる。
万が一転んでも、すぐにピッケルを雪に突き立ててそれ以上の滑落は許さない。
そういう行動に出る意志が見て取れた。
"60歳を超えてもこんなに上手いんだ"
夫婦二人の信頼関係あってこそか。
見守る中、お二人が到着した。
「いやあ、疲れたねえ」と旦那さんが笑う。
「やっぱりロープを握るのは緊張するね。まさに命綱だからね」
「そんな簡単に滑落しないわよ」
奥さんは澄まし顔だ。
ただ、これは照れ隠しだろうな。
旦那さんがきちんとビレイしているから、安心して登れるわけだし。
ともかくここまでは四人共無事。
時刻は12時30分。
11時に涸沢を出発したから90分経過か。
やはりかなりかかっている。
冬山は行動時間を余裕込みで考えるというのは本当だ。
視線を上へとずらした。
目の前には雪に覆われた岩稜が伸びている。
ここをまず乗り越えていく。
視線の先、やや左。
いったん鞍部に出てからが奥穂の最後の登頂部分だ。
雪が険しい岩肌に貼り付いていた。
大きな岩に岩が重なり、しがみつくようにしてアタックする最難関パート。
夏場でもきつかったな。
"ただ、今は"
まずは目の前の難関からだ。
「では行きますか」と根津さんが岩に足をかけた。
その一挙手一投足を目で追う。
難所とはいえ、多くの登山者が通っている場所だ。
丁寧に登れば大丈夫なはずである。
技術的には。
怖いのは高度感から来る恐怖。
それと冬季ならではの寒さ。
"風は大丈夫だろうか"
涸沢を出る時に突風に見舞われた。
ザイテンの取付きまではああいう風は無かった。
だが、無いとは限らない。
ザイテングラートは岩場の連続だ。
微妙に不安定な体勢の時に風が叩きつけてきたら。
バランスを崩して岩から足を滑らせ落下。
リアルにあり得る。
ハーネスを見下ろした。
カラビナを使ってロープが結ばれている。
ロープの反対側は根津さんのハーネスまで伸びている。
片方が落ちればもう片方が踏ん張って落下を防ぐ。
だが踏ん張れなければどうなるか。
踏ん張ろうとしたもう一人も一緒に落下してしまう。
共倒れだ。
根津さんが振り向いた。
一定距離を危なげなく進んだところだ。
ロープは岩の隙間に打ち込まれたスノーアンカーで中間点を2ヶ所確保されている。
本来はハーケンを使うのだが、その簡易版だ。
高度2800メートル。
この高さで保険をかけたくなるのは当然。
だが。
「ロープ外します。回収してください」
呼びかけた。
返事は待たなかった。
カラビナを開きロープを外した。
根津さんが呆気に取られたような顔をしている。
だが責めはしなかった。
僕の意図は言わずとも伝わったのだろう。
振り向き、佐藤さんご夫妻に軽く頭を下げた。
二人は目を見開いている。
「大丈夫ですから」
万が一巻き添えにしてしまったら。
そう思うとロープは付けられなかった。
ザイテングラートへ最初の一歩。
びびるな。
ここは絶壁じゃない。
雪で滑りやすくなってはいる。
だが基本は岩が組み合わさっている。
足場は十分にある。
慎重に歩け。
全神経を集中しろ。
10歩進んだところで風の気配を感じた。
止まってやり過ごす。
体が持っていかれる程の風じゃない。
収まったことを確認、再び前、いや上へ。
大きな岩をまたぐように足を伸ばす。
雪で見えづらいが岩と岩の間に登山靴のつま先をねじ込む。
よし、これで体重を預けられる。
確信してから自分の体を持ち上げた。
いいぞ。
この高さでこれだけ動ける。
同じようにびびらず。
行けるぞ......
――気がつけば
――根津さんの隣まで登っていた。
――息が少し乱れている。
――緊張していたのか、僕は。
――膝に手を当てて喘ぐ。
「松田さん」
「はい」
呼びかけられ、顔を上げた。
根津さんと目が合った。
彼はこくりと頷いた。
「ロープを使わないというなら構わない。ただし、よく私の登りを見ていてください。参考にはなるでしょう」
「分かりました。ありがとうございます」
「......ん、まあロープ無しの方が集中出来る人もいるしね」
そう言いながら根津さんは首を回した。
自分に言い聞かせるような響きがあった。
佐藤さんご夫妻はロープで繋がったままだ。
奥さんの方が体重はかなり軽いだろう。
旦那さんがリーダーであれば滑落を止められる確率は高い。
ロープで繋ぐか繋がないか。
どちらがいいかはペアによるということだ。
これはもうケースバイケースと言うしかない。
僕の選んだ方法は後者というだけだ。
ここは自分の力だけで登る。
誰の手も借りず、誰にも迷惑をかけない。
そう決めた。
再び根津さんが先に出る。
振り返らない。
右足、左足は岩場に乗っている。
両手ともやや上方の岩を掴んでいた。
ぐっと体を斜め前に引き寄せながら、右足を岩にかけた。
難しく見えるルートでも迷いが無い。
このくらいならまだまだということか。
同じように登っていけば行けそうだ。
僕も続こうと思った時だった。
頬に風が叩きつけられた。
思わず身をすくめる。
"冬の奥穂で無風が続くわけないか"
むしろこの方が自然だ。
幸い風はまだそんなに強くない。
先行する根津さんも動きを止めていない。
ここで止まっている方がリスキーだろう。
登ろう。
とにかくザイテンを攻略するんだ。
グローブ越しに岩を掴む。
幸いグリップが利いている。
基本は足腰、随所で腕力。
三点確保をキープしながら少しずつ上へ、上へ。
いいぞ、その調子だ。
一気に行けず、時折立ち止まることがあってもいい。
根津さんが先に登っている以上、ルートは必ずある。
そうだ。
ここは左足に寄せるように右足をにじり寄せて。
この岩に両足が乗ったら左手を上に伸ばして。
尖った岩を掴んで上半身を安定させ、右足を次の足がかりに。
時折、横から冷たい風が吹きつけてくる。
邪魔だ。
顔がヒリヒリしてくる。
バランスを崩すほどじゃないけど、神経を使う。
ネックウォーマーを引き上げた。
喉元から寒気が忍び込むのを防ぐ。
次の足がかりへ左足を乗せた。
よし。




