第四十一話 託されたものは
2月になった。
今年は暖冬とのことであまり冬らしくはない。
長野県では雪が少ないらしい。
冬に雪が少ないと、夏に登っても残雪が無いことがある。
風情が無くなるなあ。
僕にとっては高い山は一年中雪があるイメージなんだけど。
でも考えてみれば、真夏でも雪がある方がおかしいのか。
高度のいたずらだね。
白馬岳の大雪渓などが有名かな。
あそこは夏でも最低チェーンスパイクは付けておかないと登れない。
数百メートルに渡る雪渓は本当に見ごたえがある。
ああいう雪渓が無くなるのは惜しい。
とはいえ、そうなったとしても夏の話で。
この冬に限れば冬山から雪が無くなるなんてことは無い。
多少、積雪量が減る程度だろう。
"最近こんなことばかり考えている"
ふとした瞬間にハッとする。
天気予報を見れば連想するのは冬山、雪、雪崩、尾根の強風などばかり。
頭の中を冬の奥穂高が占めている。
日常生活の些細なことでも山に関連づけていた。
思考に癖がついているな。
あまりよろしくないと思う反面、仕方ないかなとも思う。
それだけ大きな挑戦であることには違いない。
それでもやはりリラックスは大事だ。
週に一度は意識的に山のことは頭から追い出した。
集中するのはいいけど、過集中は逆効果だ。
登る前から頭が疲れていては話にならない。
計画立案から考えると今回の登山はかなり長期に渡る。
その間のセルフコントロールも必要になってくる。
「こうなると仕事している方があれこれ考えなくて済むな」
呟き、缶ビールを開けた。
プシッという音にささやかな幸せを感じる。
帰宅後、一杯飲みながら夕ご飯にしようかという時だった。
スマホが着信音を立てた。
確認する。
宏樹からのメッセージだ。
『忙しいところ悪い。今週どこかで時間作れないか?』
これだけ。
具体的なことは何も書いていない。
直接会って話したいってことかな。
珍しいこともあるものだ。
『了解。平日遅くない時間であれば仕事帰りにでも』
送信。
一体何の用だろうと思ったけど、まずはご飯を食べるのが優先だな。
お互いの都合をすり合わせた結果、木曜日に会うことになった。
2月中旬。
奥穂高への挑戦まで残り10日を切った時期だ。
場所は渋谷。
若者の街と呼ばれていたけど、今はあまりそう感じない。
あの頃若者だった世代が社会の中堅層となっている。
渋谷の街も比例するかのように大人向きの街になった。
というのは僕の勝手な考えだ。
近未来的なデザインのヒカリエを見上げる。
これを若者らしい街の象徴と呼ぶのはちょっと違うよな、うん。
下手な都市考察をしている内に待ち人来たる。
雑踏の中に穴水宏樹の姿を見つけた。
仕立てのいいコートを着ている。
「悪い、待たせた」
「いや。僕も着いたところだから」
短いやり取り。
僕の方から切り出すか。
「急にどうしたんだ。何か相談でも?」と聞く。
宏樹は「相談じゃないんだが、直接会う必要があってな」と答えた。
何だか歯切れが悪い。
らしくないなと思っている内に、宏樹が歩き始めた。
「コーヒーでも飲むか」
「いいけど」
立ち話も疲れるし。
近くのカフェ、というかコーヒースタンドに入った。
渋谷駅の広大な構内の中にはこういう店が多い。
こういう店に入ったということは長い話ではないのだろう。
じっくり腰を据えてというのであれば、もっと長居できる店に入る。
エスプレッソを注文し、席に着く。
改めて宏樹の顔を見た。
「わざわざ珍しいな」
「ああ。これを渡そうと思ってな」
宏樹がビジネスバッグから何かを取り出した。
小さな包みだ。
綺麗にラッピングされている。
「ん?」とつい怪訝な声が出てしまった。
何だろう、これ。
くれるの?
「森下と桜井とも相談して、これに決まった。よかったら使ってくれ」
「もしかして奥穂高行くって言ったからか。ありがとう、いや、驚いたよ」
言いながら包装を丁寧に剥がす。
出てきたのは新品のネックウォーマーだ。
上品な紺色で白いラインが一本だけアクセントで入っている。
手触りだけで良いものだと分かった。
既に持ってはいるけど、新しいのを貰うのは嬉しい。
何より皆の気遣いがありがたかった。
宏樹がメタルフレームの眼鏡をかけ直す。
「かさばらないものがいいだろうと俺が提案して、これになった。森下と桜井も賛成してくれたし多分ハズレじゃないとは思う」
「そっか。わざわざ悪い。ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。これくらいしか出来なくてすまん。小泉の件、結局お前に全部任せてしまっている」
「いや、それは」
僕が自分で勝手に背負い込んだことだから。
そう言おうとした。
だけど言葉が出なかった。
宏樹は宏樹で思うところがあるのだろう。
エスプレッソを一口飲む。
凝縮された苦みと香ばしさが舌の上に広がった。
「俺は」と宏樹が口を開く。
「別に罪悪感まで持っているわけじゃない。だけど、小泉のあの日記を読んでも何も行動しなかった。あいつも別に何かしてほしいとは思ってなかっただろうけど」
考えをまとめるように宏樹がコーヒーに口をつける。
僕は黙って聞き役に回る。
「ただ、そうだな。仮にも山岳部の元部長だったのに登山とは縁遠い生活になっている。同期が亡くなっても追悼登山の1つもしてやれない。なのに直人は山をまた始めていて、日記に書かれていた小泉の願いも叶えてやろうと行動していて」
ああ、そういうことだったのか。
ストンと胸の中で何かが腑に落ちた。
後ろめたさとも少し違う。
後悔というのも似合わない。
別に何もしなくても誰も責めないだろう。
昔の仲間の死といっても、今の立場や状況がある。
だけど何となくもやもやしたものがあったんだろうな。
僕が山を再開したのはたまたまやる気になったからだ。
元部長だからって誰も穴水宏樹を悪くは言わない。
何か言ってやろうと考えたけど上手い言葉が出てこない。
結局「考え過ぎだよ」としか僕は言えなかった。
「多分、小泉もその気持ちだけで十分だと思ってる。卒業から8年、もう9年近くか、も経っていて、まだこうしてあの時の縁を覚えている。それだけでもいいじゃないか。冬の奥穂高に登るっていうのもさ」
そうだ。
これだけはちゃんと伝えておこう。
あの山に挑む前に。
「僕がやろうと思ったからであって。小泉の日記はきっかけに過ぎないんだ。ま、ほんとに登れたら彼女も喜んでくれそうだけどね。ザックに日記帳入れていくつもりだし」
「......そうか」
「うん。森下と桜井にも後でチャットで伝えておくよ。素敵なネックウォーマーありがとうって」
もらったネックウォーマーをしげしげと見つめた。
3人で選んでくれた品だ。
僕に託してくれたのかな。
自分達の分まで頼むって。
聞こうかと思ったけど止めておく。
野暮だろ、そういうのは。
エスプレッソの最後の一口を啜った。
濃い苦みが目を覚ましてくれる。
「帰ってきたら奥穂の山頂からの写真送るよ。楽しみにしといてくれ」
「ああ。気を付けてな」
「うん」
これで十分だ。
短い言葉だけどお互い言いたいことは言えた。
席を立つ。
「じゃあな」と宏樹が背を向けた。
「またどこかで」と僕も歩き出す。
心残りは無い。
胸の中にあるのはただ静かな意志だけだ。
――待ってろよ、冬の奥穂。




