表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/54

第四話 山への気持ち

 解散して帰宅すると夜10時を回っていた。

 マンションの一室に一人暮らしなので同居人に気を使う必要もない。

 コートを脱いで一息つく。

 風呂に入らねばとは思うがそれすら面倒くさい。

 思った以上に疲れていた。

 友人の告別式というのはメンタルにくる。

 のろのろとした動きでスマホをいじった。

 液晶越しのサイトは日常を一方的に垂れ流している。


 動かないと駄目だ。

 どうにかシャワーだけ浴びるといくぶんさっぱりした。

 寝ようかとも思ったが気が昂っている。

 思い立ってクローゼットを引っ掻き回した。

 登山用のザックを引っ張りだす。

 20リットルサイズの小型のものだ。

 日帰りのハイキングならこれで十分。

 胸と腰の二箇所でベルトを締められるのでザックが背中に固定される。

 そうだ。

 これでいいじゃないか。

 手軽なザックを背負ってたまに高尾山に登るくらいで何が悪い。

 社会人ならそんなもんだ。


 分かっている。

 あの頃とは、山岳部でばりばり登っていた頃とは違うんだから。

 今の僕は、松田直人は学生じゃない。

 公務員として環境管理課に勤務しているごく普通の一般人だ。

 山とは縁遠い生活をしている。

 昔の友人の思い出に触れたから何なんだ。

 山に登っても何かいいものが得られるわけでもないだろう。


「まったく」と呟いた。

 小さな苛立ちが胸に刺さっている。

 小泉の手帳だけが原因じゃない。

 同期の近況報告にも引っ掛かっていた。

 宏樹は結婚を控えていること。

 森下はお子さんがいて、今は第二子を妊娠中ということ。

 桜井はキャリアアップを見据えていること。

 ステージを上がっているんだなと思った。

 人生の新たな局面へと向かっている。

 僕はどうなんだろう。

 安定はしているけれど、特に目立った変化はない。

 焦ってはいないが、今日はちょっと落ち込む。


 考えている内に眠くなった。

 ベッドに滑り込み目を閉じる。

 瞼の裏に何故か小泉の顔が浮かんだ。

 彼女とはもう二度と会えないんだな。

 フッと寂しさを覚えた時には眠りに落ちていた。



 人の死という非日常は過ぎ去った。

 労働という日常へと立ち返る。

 オフィスに向かい、デスクにつく。

 PCの電源を入れ、すぐにメールに目を通す。

 急ぎの案件だけピックアップ。

 今日の予定に組み込むべきものはどれか。

 脳が忙しく回り始めた。

 社会人という枠組みに自分で自分をはめていく。

 慣れた感覚に安堵する。

 仕事に付き物の雑多な面倒くささは仕方ない。

 引き換えに得られる安定感は何ものにも代え難い。

 そうして生きてきた。

 だけど数日が過ぎると、小さな違和感を覚えるようになった。

 原因は山だった。


 僕が通勤で使っているのは中央線だ。

 東京都内を東西に貫いて走っている。

 電車の窓から見える風景につい山の姿を目で追ってしまう。

 やや北西、東京から埼玉にかけてのエリア。

 奥多摩や秩父の山が並んでいる。

 別に北アルプスや南アルプス、八ヶ岳まで行かなくても、身近に山が存在している。

 そんな当たり前のことがすっぽり意識から抜け落ちていた。

 だけど今は気になった。

 山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。

 雪が山肌に白く雪化粧を施している。

 遠くに見える山の景色に何故か惹かれ、そのたびに心がざわめいた。


 "僕は登りたいのか?"


 自問する。

 快速電車のスピードに体を揺らされながら、自分の心も揺らしている。

 分からない。

 きっとノスタルジーに浸っているだけだ。

 おまけに同期達に刺激され、嫉妬を覚えているのだろう。

 だから唐突に新たに行動したくなっているんだ。

 そんなことをしても仕方ないんじゃないのか。

 山に登れば何かいいことでも見つかるのか?


 "分からない。けど"


 何とも言えない感情が自分の中で降り積もる。

 一日、二日、一週間と経つ内に段々無視できなくなっていた。

 そのうち登山の動画を見るようになった。

 時代の流れだろう。

 今は登山者が自分の登山を動画サイトで配信している。

 便利な時代だと思いながら、いくつか拾う。

 昔登った山の姿を動画で見るのは中々面白かった。

 こうして第三者の目で見るとよくこんなところ登れたな、と感心する。

 剱岳の峻険さに息を飲んだ。

 槍ヶ岳の壮麗さにため息をつく。

 燕岳の白砂と高山植物で彩られた山頂付近は素直に綺麗だ。

 そして奥穂高。

「ああ」と自然と声が漏れた。

 堂々とした立ち姿。

 涸沢カールから仰ぐようなアングルで見ると、より山頂付近の勇壮さが際立つ。


 夏の奥穂には行ったことがある。

 涸沢で一泊。

 そこからザイテングラートを登り、山頂付近の小屋に荷物を預けてアタックした。

 あの時は真夏だったな。

 大学3年の夏、山岳部で行った夏の北アルプスだ。

 照りつける陽射しはきつかったけど、そこは標高3000メートルの世界だ。

 100メートルで0.6℃気温は下がる。

 つまり奥穂の頂上近くなら平地マイナス18℃だ。

 夏の盛りでも20℃かそこら。

 岩稜に取り付いての登りはハードだが、熱中症で速攻倒れるということはない。

 小泉も一緒だった。

 僕の少し後について彼女が登っていたはずだ。


 そんなことを思い出しながら奥穂の動画を見る。

 カメラが動き、岩肌が迫る。

 ぜぇぜぇと動画の主の荒い息遣いが画面を通して聞こえてきた。

 鎖を掴み、岩の割れ目に登山靴のつま先を差し込み、ぐいっと最後に体を持ち上げた。

 途端に青空が広がった。

 夏の北アルプスの空の色だ。

 画面越しでも十分伝わる澄んだ青だ。

 透明度の高い空は地平線の果てまで広がっている。

 その下に北アルプスの山々がそびえ立つ。

 恐らく標高2700から2800メートル前後。

 十分に高い。

 だがそのどれもがカメラの視点よりも下にある。

 日本3位を誇る奥穂のピークは周囲の山を悠然と見下ろすかのようだ。

 そうだ。

 僕もあそこに立ったことがあるんだ。

 全身の力を振り絞り精魂尽き果てそうになっても諦めずに登った。

 息も絶え絶えになりながらあのピークから周囲全ての風景を見下ろした。

 画面越しでも迫力は伝わる。

 だが過去の登攀を思い出した今、それは所詮は疑似体験に過ぎない。

 部屋に居ながらにしてあの感動を味わおうというのは虫が良すぎる。


 山に惹かれていた時期があった。

 取り憑かれたように登っていた時期があった。

 社会人になって、その衝動は捨てた。

 日常に不必要なものだからと。

 けれども違った。

 単に捨てたつもりになっていただけだった。


「もう一回登山やってみようかな」


 小さく呟く。

 小泉の残した赤い手帳を開いてみた。

 なあ、小泉。

 ありがとう。

 僕の忘れていた山への気持ちを動かしてくれて。

 冬の穂高に登るのは今は約束できない。

 だけど、出来る範囲でもう一度山をやってみる。

 今の自分なりに山をやる。

 うん、そうだな。

 君がもう登れなくなった分も背負って、僕なりに山をやるよ。

 それでいいかな。


 決断したのはいいが、じゃあ具体的に何をするか。

 登山は気持ちだけでは出来ない。

 ギアと呼ばれる登山用の装備が必要になってくる。

 善は急げで今週末に登山用品を買いに行くことにした。

 とにかくまずは登山靴、ザック、レインウェアか。

 あとは見て何が必要か決めればいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ