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第三十六話 すき焼きで温まる

 冬の都合のいいところ。

 夏場と違い食材の傷みに気を使わなくて済む。

 その一点に集約される。

 今回もタッパーに入れて持ってきたけど、まったく心配ない。

 半冷凍の状態でザックの中に入れておけばいい。

 登山中は外が天然の冷蔵庫だ。

 ザックの中くらいでちょうどいい。

 なので腐ったり傷んだりすることはない。

 特に牛肉がね。

 いや、100g400円くらいのアメリカ産だから大した肉じゃないけど。

 山で食べるすき焼きならこれくらいでも十分だ。

 肉の他の具材はねぎ、焼き豆腐、しいたけにした。

 適当に火が通り始めた段階で醤油と砂糖を放り込む。

 実は醤油だけは持ってくる時に気を使った。

 プラスチックのボトルに使い捨てカイロを貼り付け、タオルでぐるぐる巻きにした。

 水よりは凍りづらいと思うけど、確信が無かった。

 醤油が使えないすき焼きの味付けは......考えたくないな。

 液体調味料が凍ると解凍が面倒くさい。

 バーナーがあるから溶かすことは出来る。

 でもそんな時間、待っているのもバカバカしい。


 "素直にビスケットでもかじっていればいいんじゃないの?"


 それも一つの手だとは思う。

 いちいち山ご飯にこんな手間をかけなくてもいい。

 手軽に食べられるものの方が楽だ。

 それでも僕は山ご飯が好きだ。

 その場で火が通ったご飯の温かさが好きだ。

 大自然の真ん中で自炊するというある種の非効率が好きだ。

 出来立てのご飯を食べて登山のエネルギーを得られるのが好きだ。

 よほどの極限状況で無い限り、僕は山ご飯推奨派を続けたい。

 レトルト食品を温めるだけでもいい。

 火を使った料理でしか得られないものは確かにある。


 そんなことをつらつら思う。

 思っている内にすき焼きは完成していた。

 ごちそうの部類に入る割にはすき焼きって簡単な料理なんだよな。

 鍋に入れて炒めて味付け。

 基本的にこれだけ。

 細かく言えば割りしたを注いで、短時間煮るようなこともするけれど。

 僕の目の前のすき焼きはそんな調理は必要ない。

 火さえ通れば十分。

 そう思いながら、バーナーの火を止めた。

 ジュウ、と白い湯気が立ち上っている。

 香ばしいこの匂いがたまらない。

 肉の脂身が焼けた時のある種の甘さを含んだ匂いだ。

「いただきます」と言ってメスティンに箸を入れた。

 冷める前にまず牛肉から。

 ――美味い。

 何だろう。

 ごく普通の肉でごく普通の味付けなのに。

 やたらと体に染みる。

 冬山で食べるというシチュエーションもあるのだろうか。

 肉の持つぎらぎらした生命力を舌が吸収するかのようだ。

 味付けもちょうどいい。

 砂糖と醤油のコラボレーションが甘じょっぱさを提供する。

 醤油が焼けた時の香ばしさもある。

 シンプルな味付けだけどそれだけに外れが無い。

 雑かもしれないがこういうので十分だ。


 すき焼きの主役はもちろん肉だ。

 だけど他の具材も大事な脇役だ。

 焼き豆腐はアクセントを添えてくれる。

 単調になりがちなのがすき焼きという料理だ。 

 その中で豆腐独特の柔らかさをもたらしてくれる。

 淡白な味なので一息つけるのもいい。

 ねぎとしいたけも役割がある。

 火を通したねぎは意外と甘い。

 もちろん肉の持つアミノ酸の甘さとは違う。

 植物性だからだろうか。

 ねぎを噛みしめる。

 仄かで滲み出るような優しい甘みを感じる。

 シャキシャキとした歯ごたえが心地よい。

 うん。

 ねぎが無いとすき焼きという感じがしないな。

 無くても成立するかもしれないけど、物足りないだろう。

 しいたけもいいな。

 しいたけ自体にはそんな変わった風味は無い。

 その分、何にでも合う。

 菌類独特の形容し難い歯ざわりがいい。

 特に肉厚のしいたけはその特徴が顕著だ。

 たっぷりとすき焼きの煮汁を吸い込んだしいたけを食べる。

 肉やねぎの旨味も全部丸ごと食べている気分になる。

 体が温まってきた。

 食べたからだけじゃない。

 ツェルトによる外気の遮断が効いている。

 その環境できちんと火の通った食事をしたからだ。

 体の外側と内側、両方を温められた。

 疲労が緩和されていくのが分かる。

 これほど満足度の高い山ご飯も珍しい。

 冬山ですき焼きというシチュエーションが大きいのだろう。

 滅多なことじゃ出来ないものな、こんな食事。


 "満足、満足"


 満ち足りた気分だ。

 やっぱり食事は大事だな。

 回復したし下山も頑張れそうだ。

 両手首をこきこきと回す。

 そろそろ片付け始めようかとした、その時だった。

 ツェルトがばさりと大きく音を立てた。

 風。

 今までにない強風。


「!?」


 ツェルトから顔だけ外に突き出す。

 まさか吹雪か。

 いや、違う。

 雪は降っていない。

 だが風が強くなっている。

 それに視界が悪くなっていないか。

 麓の方はまだ見通せる。

 けれどもその先の山梨の街や遠くの南アルプスは見えない。

 白いガスに覆われている。


 "雲に追いつかれたのか"


 天気予報より来るのが速い。

 西からの風が強まったのだろう。

 最悪でも慌てるほどじゃないはずだ。

 広範囲の冬型の低気圧であれば午前中、あれだけ晴れることはない。

 あくまで一時的なもの。

 だけど油断は禁物。

 現在の時間と状況から即時下山がベストか。

 少し急ごう。

 そう決めて僕はツェルトの中に戻った。

 手早く食器を片付けツェルトを畳んでしまう。

 この間にも視界は悪くなっている。

 せっかく綺麗な風景を見ながら下山しようと思っていたのに台無しだ。

 白く染まった八ヶ岳の裾野を見ながら下るはずが、まさかのガスとは。


 "仕方ない"


 舌打ち一つで切り替えた。

 アイゼンの歯を噛ませ慎重に下りていく。

 冬場のザレ場は厄介だ。

 凍てついた砂は中々滑りやすい。

 もし足元が見えないほどガスっていれば。

 終わるな。

 間違いなく足を滑らせる。

 滑落まではしなくても転倒はするだろう。

 だけどまだ大丈夫だ。

 ルートも間違えていない。

 少し歩くと分岐点にぶつかった。

 間違いない、赤岩の頭だ。

 ここからオーレン小屋の方へ折り返す。

 単純なルートだ。

 硫黄岳の山肌をトラバースするかのように北西へと向かっている。

 多少ガスっていてもこれくらいは。


「おっと」


 一瞬だが体勢を崩された。

 風に煽られた。

 山肌を駆け上がってきた冬の風だ。

 ビュンビュン吹きまくっているわけじゃない。

 ここで足止めされる方がまずい。

 ルートミスだけ気を付けて足を前に進ませる。

 右足を一歩、歩幅は心持ち狭めに。

 体重を真上から乗せるようにして。

 同じように左足を一歩前に。

 調子は悪くない。

 山岳部時代に習った歩き方は思い出している。


「焦るなよ」


 自分自身に呼びかけながら僕は雪を踏み締める。

 ガスがところどころ切れ、遠くに麓の方の森が見えている。

 あの辺りが桜平のはずだ。

 よし、何としてでも辿り着く。

 アウターの襟を口元に寄せ、冷気の侵入を防いだ。

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