第三十四話 冬山に必要な装備
じわじわと標高を上げていく。
夏ならこの登山道は川沿いの道だ。
川のせせらぎを聴きながら緑成す森の中を歩く。
けれど今は冬。
川があるのは分かるけれど、ほぼ雪に隠れている。
気がつけば静かに流れる川の水音が聞こえてくる。
そんな感じだ。
雪があるだけでまったく景色が異なる。
仮に僕が川の方へ間違って踏み込んだらどうなるだろうか。
河原は普通に歩けるだろう。
問題は川岸が雪に隠されていることだ。
まだ川じゃないなと思って踏み込む。
実は岸から川に雪が張り出していて、地面に見えていただけ。
足元が崩れて冷たい川に転落。
なんてことは普通にあり得る。
こんなところで寒中水泳はごめんだ。
川の水も相当冷たいだろうな。
流れているからぎりぎり凍りつかないだけで。
"今何度くらいだろう"
懐からスマホを出して確認する。
温度計のアプリはマイナス10℃を指していた。
家庭用の冷凍庫の中くらいだ。
冬季でこの標高ならそれくらいにはなるだろう。
風が無い分まだましだと思う。
寒気による電池切れが怖いのでさっさと懐にしまう。
動いている限りは意外にもそれほど寒さは感じない。
もう日が登ればハードシェルと呼ばれるアウターは脱いでもいいくらいだ。
ただし顔が寒い。
体積の大きい頭部の防寒は重要だ。
頭にはビーニーと呼ばれる帽子を被っている。
首はネックウォーマーで外気を遮断。
ただ顔面は外気にさらされていた。
鼻から下あたりがちりちりとする。
我慢できない程じゃないけど、これで足を止めると寒いだろうな。
"バラクラバを買うか?"
歩きながら考える。
バラクラバとは頭部、顔の下半分、首周りをすっぽり覆う防寒具だ。
強盗が使う目出し帽を想像すればかなり近い。
ちょっと高額なのと大袈裟かなという理由から、今回は持ってきていない。
でも奥穂高に行くときは必要な気がする。
八ヶ岳より北アルプスの方が寒いと思う。
標高差はそこまで無いのに何故だろう。
"理由は幾つかあるんだけど"
スノーシューで雪を踏む。
踏み固めた跡が僕の後ろに続いていた。
歩きながら考える。
北アルプスの方が寒い理由か。
地理的な要因がまず第一。
北アルプスには日本海側からの寒気がぶつかる。
むしろ北アルプスが壁となって寒気を止めていると言った方が適切か。
その差は大きいな。
寒気の流入時に風も強くなるし。
これでほとんど説明はつくけど、後は山の深さだろうか。
高さじゃなく深さだ。
八ヶ岳が初心者向きの理由の1つにアプローチの良さがある。
登山口までバスかタクシーで来てしまえば、意外に山頂まで遠くない。
ルート次第だけど山頂まで2時間程度で到達、という山も北八ヶ岳にはある。
南八ヶ岳は割としっかり登るけど、それでも登山口から山頂まで最低1泊は必要という山は少ない。
もちろん、好きな人はテント泊なり小屋泊なりで泊まってもいいけど。
登山経験を積んだ人なら日帰りで往復する人もいる。
だが北アルプスは無理だ。
槍ヶ岳もモデルコースは2泊3日。
明神、徳沢、横尾と中継地点をパスしていく歩きが長い。
穂高の各峰もほとんどが2泊は必要だろう。
横尾までの部分に加えて、涸沢に至るまでが必要になる。
それだけ山の懐が深いと言える。
高さだけでは山の難易度に繋がらない。
そこが面白いし難しいところだと思う。
登山をしていると「いよいよ2500メートル以上の山だ。どこに登ろうか」ということになる。
その際に八ヶ岳を選ぶ人が多くなっているのは、こういう理由もあるんだろう。
単純に首都圏からの距離が近いというのもあるだろうけど。
そんな親しみやすい八ヶ岳ではあるけれど。
冬に登るとなると、これはまた別問題だな。
2時間ほど歩き続けたところで僕は足を止めた。
ザックを雪の上に下ろし、保温ボトルを開ける。
湯気が立ち上る紅茶を喉に流し込んだ。
砂糖を多めに入れているので甘い。
動くためのエネルギー補給の為にも糖分は必要だ。
ただしこれも普通の水筒だと凍る。
いざ飲もうという時にカチンコチンになっている、というのは悲惨だ。
そういう事態を防ぐために寒冷地仕様の保温ボトルを使う。
しかし、こうしていざ自分の装備を見てみるとだ。
「お金がかかるね」と思わず呟いてしまった。
保温ボトルなんか小物だからまだいい。
他にも色々揃えなくてはならない。
登山は好きだけど冬の雪山は遠慮する、という人が多いのも分かるよ。
別に危険どうこうだけじゃない。
金銭的なコストが中々かかるからね。
僕も今回の硫黄岳行きに色々買ったな。
冬のボーナスの何割を使ったっけ。
いや、考えると怖いからやめよう。
それにここにはお金には換えられない価値がある。
チョコレートを口に入れる。
これも寒さで固くなっている。
中々溶けない。
もどかしいので紅茶も一緒に口の中に含んだ。
どろりとチョコレートが口の中で溶けるのが分かる。
冬山の方がカロリーの消費が大きい。
体温を平熱に保とうと体が発熱するためだ。
だからこまめに補給しないと動けなくなる。
早め早めにカロリー補給するとなると、昼ご飯もいつもより早めの方がいいか。
そんなことを考えながら、休憩を切り上げた。
ザックを背負う。
オーレン小屋まであと少しのはずだ。
ここで休憩を取ったから小屋はパスして、真っすぐだな。
読みは当たった。
休憩から10分後、左手に小屋が見えてきた。
オーレン小屋に間違いない。
冬季休業中なので人の気配はまったくない。
顔を上げて前方を確認。
硫黄岳の山頂付近が見えている。
さっきまでよりだいぶ近くなった。
その分、迫力がある。
硫黄岳だけじゃない。
その右手には横岳、赤岳といった八ヶ岳の有名どころが並んで見える。
冬の澄んだ青空をバックに、どんと存在感を示していた。
硫黄岳の方へ焦点を戻す。
ちょうど八ヶ岳の真ん中近く、やや南にあるのが硫黄岳だ。
そこへ取り付くにはまず夏沢峠に登る必要がある。
ここからは少し登りがきつくなる。
スノーシューを外し、代わりにアイゼンを装備する。
10本爪アイゼンなので斜度がきつくても対応出来る。
凍りついた斜面にアイゼンの爪を噛ませて登るわけで、きついことには変わりないけど。
ここまでは順調だった。
だが気になるのは時間だ。
夏山に比べると冬山は行動時間が読みづらい。
積雪の状況や天候の変動で変わりやすいからだ。
今回のルートは夏山なら行動時間が約4時間半。
高度を別にすれば初心者でも割と行ける。
体力的な面からは硫黄岳は楽な山と言える。
"だけど雪があるとな"
登り始めながら腕時計を見た。
現在9時30分。
桜平を出たのが7時20分頃だったから、ここまで2時間10分かかっている。
恐らく夏山なら1時間半くらいだろう。
ざっくり4割増しの時間が必要ということか。
いや、それもここまでのルートから推測してのことだけど。
"4時間半の4割増しなら、大体6時間20分くらいか"
頭の中で計算。
ふむ。
すると休憩時間抜きなら桜平に戻ってくるのは午後1時40分か。
大雑把に全休憩時間を1時間と見積もっても、午後2時40分には戻ってこれる。
これなら行けるか。
日没までに間に合わないという最悪のケースは避けられるだろう。
よし、まずはここを登り切る。
決意も新たに雪で埋もれた登山道にアイゼンを噛ませた。
幸い雪は深くない。
ラッセルするほどではない。
夏沢峠の標高が2430メートル。
そこまで登ってしまえば。
硫黄岳の標高2760メートルまでの標高差はたったの330メートル。
ひと踏ん張りすれば届く高さになる。
「行くか」
自分で自分に喝を入れた。
滑らないよう、やや斜めにアイゼンを雪に噛ませる。
次の一歩も同じように。
少しずつ冬山の勘を取り戻していこう。




