第三十二話 秋の雨はメランコリック
ケーキはすぐに運ばれてきた。
小泉はニコニコしている。
正直チョロい。
そう思っている内に、彼女はチーズケーキを食べ始めた。
「幸せだなぁ。今日のおやつにケーキが出るなんて思わなかったー」
「自動的にポップアップしたわけじゃないんですが」
「分かってる分かってる。松田君の気前の良さのおかげ」
そう言いながら丁寧にフォークでケーキを一口分に切る。
小泉の食べ方は綺麗だ。
育ちがいいのだろう。
しかし見ていても仕方がない。
僕も自分のガトーショコラを食べることにした。
限りなく黒に近いチョコレートブラウンの生地。
上にはまんべんなくパウダーシュガーが振りかけられている。
チョコレート系のケーキって見た目が地味だよね。
良く言えばシックで大人っぽいけど。
でもこのほろ苦い甘さは僕の好みなんだ。
口の中でケーキの生地がほろりと崩れる。
何となくホッとした。
「あんまりケーキとか食べないけど、たまに食べるとやっぱり美味しいな」
「毎日食べていたら大変だよ。体重管理が大変そう」
「小泉でも体重気にするんだ?」
「そりゃ気にしますよ。全ての女の子は日々食欲と体重を天秤にかけて生きていますから」
「厳しい毎日だ」
正直多少食べても全然大丈夫そうだけどな。
小泉だけじゃない。
森下と桜井もそうだ。
登山は消費カロリーが大きい運動だ。
夏の北アルプスを10時間歩いたら激痩せすること間違いない。
だからむしろ食べないとやっていけない。
とはいっても、登山で生きているわけじゃないからね。
彼女らは普通の女の子としてキャンパスライフを送っている。
その時間の方がよほど多い。
僕はガトーショコラをしげしげと眺めた。
「プロの登山家だと食生活も大変そうだ」
「ん? 何の話?」
「いや、何でもない」
「ふーん。ところで松田君。そのガトーショコラなんだけど」
「一口くれという話なら断る」
「違うよ!? 雪山をガトーショコラって表現することあるなあって思ったの!」
「ああ、そっちか。良かった」
「人のケーキをねだるほど落ちてませんから。はあ、私はどれだけ食いしん坊と思われているのかなあ」
「悪い。それはまあ置いといて。ガトーショコラか、確かに言うね。」
ガトーショコラは冬場にちょいちょい見られる風景だ。
山頂に白く雪が積もり、途中から山肌が見えていることがある。
その風景がお菓子のガトーショコラのように見えるのだ。
山の土が黒っぽいと尚それらしく見える。
僕は自分のガトーショコラを眺めた。
フォークを突き刺し、パクリ。
舌の上でケーキの生地がすうっと溶けていく。
生チョコと混ざり合って淡く消えた。
「どこか登りたいガトーショコラあるの?」と小泉に聞いてみた。
雪の積もり具合から考えてみる。
山頂から中腹にかけて積雪しているのがガトーショコラという現象だ。
山にもよるけど、冬山の状態としては難易度は高くない。
僕に聞かれ、小泉は即答しなかった。
チーズケーキを一口食べて、視線を天井にやる。
「浅間山、瑞牆山、あとは八ヶ岳のどこかかなぁ。パッと思い浮かぶのは」
「おお、メジャーどころ」
「マイナーどころってそもそも知らないのよね。山岳部って言っても山の経験そこまで深くないもの」
「そうだな。大学入学から卒業までやっても丸4年。山の世界だとまだペーペー」
「ね。ベテランの方だと日本百名山とか全制覇しちゃうんでしょ。そういうの聞くと登山って生涯スポーツなんだなって思うよ」
「同感」
頷きながら、ふと思いついた。
3年の冬か。
ぎり行けるかな。
「冬休みにガトーショコラ見に行ってみないか。皆誘ってさ。就職活動で多忙になる前になら行けるのでは」
「いいこと言う〜。全員で無くても行ける人だけで行けたらいいよね」
「ああ。宏樹に聞いてみる」
単なる思いつきも口に出すと行動に繋がる。
この提案は皆に受け入れられた。
その冬休みに六人全員で北八ヶ岳の天狗岳に登った。
ただしその頃にはもうガトーショコラどころじゃなく、結構積もっていたんだけれど。
小泉が登りながら「チョコが足りない」と笑っていたのは覚えている。
† † †
気づけば雨が降っている。
いつの間にか降り始めていたらしい。
鼓膜を叩く優しい雨音に僕は本から顔を上げた。
窓の外は秋の雨だ。
水滴が窓ガラスを伝っている。
"あの日もこんな雨だったな"
回想と重ねてしまった。
小さな苦笑いが口元に浮かんだ。
まったく。
センチメンタルにも程がある。
10年も前の何でもないことを、雨に重ねて思い出すなんて。
あの世の小泉に聞かれたら笑われそうだな。
――いや、笑われてもいいか。
席を立ち、読んでいた本を棚に戻した。
冬山での遭難事故について書かれていた本だ。
山岳部の頃に冬山の怖さについては散々聞かされてきた。
また実際に冬山に行ってみて体験もした。
だけどあれから何年も経過している。
今回、冬の奥穂に挑む前に冬山とはどういうものか意識しておきたかった。
その為にまずは机上の勉強をしてみたというわけだ。
頭の中のイメージをまずは固める。
もちろん知識だけでは対処出来ないのは承知の上だ。
状況に応じて知識に基づいた正しい行動を取れるようにするには。
"実践しかないな"
受付の人に礼を言って図書館から出た。
傘を広げると雨の音も頭上に広がった。
秋の雨はメランコリックか。
まったくその通りだよ。
歩き出す。
シン、と冷えた午後の空気をか細い雨が濡らしている。
その空気に混じって僕は駅に向かって歩いている。
頭の中が穂高のことでぐるぐるしていた。
今出来ること。
やらなくてはならないこと。
冬山。
やはり本番前に場数を踏んでおかないとまずい。
正門を出て振り返る。
かつての学び舎に一礼した。
あの頃の僕はもういないし、皆それぞれの道を歩んでいる。
小泉に至ってはこの世に存在していない。
けれども。
今の僕の何割かはこの大学で培われたものだ。
その中には小泉との会話も含まれる。
あんなケーキで良かったらもっと奢ってやれば良かったかな。
結果論とは分かっていてもそう思わずにいられなかった。
「僕が代わりに登ってやるから安心してろよ」
秋雨の中に言葉を放った。
残響が消えない内に再び歩き始めた。
秋の雨の午後は確かにメランコリックだね。




