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第三話 穂高なんて登れないでしょ

 視線が小さな文字に引き寄せられた。

 書かれたのは2015年1月の欄だ。

 僕らが卒業式を間近に控えた頃だった。

 四人で顔を見合わせた。

 宏樹がぼつりと言う。


「俺、覚えてるよ。確か小泉が言ったんだ。2月に穂高に登らないかって皆にメールしていた」


 その言葉で僕もはっきり思い出した。

 卒論も提出し終え、本当に大学生として最後の数ヶ月を過ごしていた時だった。

 単位も取り終え、あまり学校に足を運ぶこともない。

 家でゴロゴロしていた時、小泉からメールが届いたんだ。


† † †


『大学最後の思い出に皆で冬の穂高登らない?』


 文面はそれだけ。

 宛先は山岳部の同期全員。

 僕が最初に思ったのは"ずいぶん簡単に言ってくれるなあ"だった。

 穂高が簡単な山ではないことくらい、小泉だって十分分かっているだろうに。

 しかも冬の穂高だ。

 夏山じゃないんだぞ。


 穂高。

 正式には穂高連峰のことを指す。

 所在地は長野県松本市及び岐阜県高山市にかけてとなっている。

 一般的に言えば飛騨山脈の一部だ。

 北アルプスと言った方が分かりやすいかな。

 奥穂高岳を主峰とし、その周りに北穂高岳、前穂高岳、西穂高岳と呼ばれる山が連なっている。

 中でも奥穂高は標高3190メートルという高さを誇る。

 これは日本の山の中では標高3位にランクする。

 1位は言わずとしれた富士山。

 2位は南アルプスにある北岳、標高3193メートル、だ。

 高さもさることながら穂高は山のスケールが大きい。

 初めて穂高の山々を仰ぎ見た時は圧倒されてしまった程だ。

 覆いかぶさってくるような、という表現がぴったりくる......そういう威容を持っていた。

 山をやっている者なら一度は登りたいと願ってやまないだろう。

 実際、夏の穂高は多数の登山者で賑わっている。


 あの時、僕はどうしたんだっけな。

 そうだ、小泉に返信したんだ。

『なんで穂高に?』って。

 こたつに入ってみかんを食べながらだったことまで思い出した。

 返信はすぐ来た。


『私、夏穂って名前でしょ。夏穂が冬の穂高に登ったらバランス取れてちょうどいいじゃない』


『まさかそれだけの理由で? 僕は遠慮するよ。冬の穂高は厳しいだろ』


『うーん、そうだよねえ。卒業控えて危ない橋渡るのもあまりよろしくないかぁ』


 ポンポンとリズミカルにメールが行き交う。

 返信しようとしたところでふと手を止めた。

 冬の穂高が危険な山だってことくらい、山岳部なら常識だ。

 急に言い出しても皆行きたがらないことも予想できるはず。

 なのになんで小泉はこのタイミングでこんなことを。

 仕方ない、直接聞くか。

 連絡帳から小泉の電話番号を呼び出しかけてみた。

 相手は着信音2回で出た。


「メールだとまだるっこしいからかけてみた。今いいかな」


「え、うん。大丈夫だよ」


「小泉、何かあったか。急にこの時期に穂高行こうって言っても断られることくらい分かるだろう。なのに皆にメールするってさ」


 僕の問いに対して一拍だけ空白があった。


「――ううん、何でもないよ。ただ、もう皆で山をやることもないなあと思ったら、ちょっと寂しくなっただけ」


「......ああ。社会人になる前の思い出作り的な?」


「そうだね。仮にも山岳部だったし最後にがつんとした山やりたいっていうのも含めて」


「気持ちは分からなくもないけど難しいだろ」


「だよね~。大丈夫、大丈夫。ほんとそれだけの理由だから。わざわざ電話してきてくれてありがとう」


「いや、ちょっと気になったから」


「松田君は優しいなあ。それじゃおやすみなさい」


「おやすみ」


 電話を切った。

 なんだ、それだけの理由か。

 理解出来なくはないけど冬の穂高はヤバいだろ。

 思い出作りならもう少し手軽にやろうよ。

 小泉の気持ちも分かるし、最後にパーッとやるのも悪くない。


 後日、僕の発案で皆で徹夜でカラオケすることにした。

 広いルームを借り切って深夜から朝方までの大騒ぎ。

 歌って騒いで、それだけのことがとっても楽しくて。

 社会人になったらもうこんなこともしないんだろうなと思いながら。

 明け方になると皆ヘロヘロになっていた。

 体力のある三ッ瀬が「山の方が楽だな」とぼそりと言っていたのが妙に印象的だった。

 ああ、そうだ。

 もう一つある。

 帰り道、小泉と一緒になった時の会話も。


「あー、楽しかった。幹事の松田くんに感謝だね!」


「無理に話すなよ。喉がやられてる」


「ふふ、いいじゃない。こんな機会二度とないだろうし。穂高には行けなかったけど、これはこれで」


「ん?」


「過ぎ去りし楽しき日々ってやつじゃない?」


「かもね」


 朝焼けに染まった街に僕たち二人の他愛もない会話が響く。

 小泉は「あー、学生生活も終わりかあ」と言いながらコートのポケットに手を突っ込んだ。

 僕は何とはなしに聞いてみる。


「小泉さ。自分の名前が夏穂だから冬の穂高に登ってみたいってどれくらい本気だった?」


「え? うーん、そこまで本気じゃないよ。口実みたいなもの。こじつけ?」


「そっか。さすがにそこまで能天気じゃないよね」


「あっ、今なんか酷いこと言われた気がする。馬鹿って言った方が馬鹿なんですー!」


「ええ......小学生か、君は」


 まったく何歳なんだろう。

 それでも、うん。

 僕は小泉夏穂の友人であることを嬉しく思うんだ。


† † †


 まったく小泉め。

 僕らに手帳を渡すなんて形で思い出させるなんて。


「山岳部の同期への宿題ってこと、じゃないよね、まさかねー」


 桜井は苦笑している。

 宏樹は肩をすくめた。


「そこまで無理難題言わないだろう。あの時は楽しかったねと俺達に言い残したかっただけさ、多分な」


「そうですわね。あの頃と違って皆立場もありますし。とても冬の穂高なんて」


 森下がため息をついた。

 そりゃそうだ。

 子育て真っ盛りでしかも妊娠中なんだから。

 そもそも皆が登山を続けているのかどうかも怪しい。

 僕はほとんどやっていない。

 年一回、高尾山に登るくらい。

 あと運動としてはフットサルを少々。

 正直に言うと桜井が「そんなもんだよー。私も運動全然してない。たまにヨガするくらい」と顔をしかめた。

 そのまま「穴水君は?」と水を向けた。


「俺も似たようなものだな。週末にランニングはしているけど。ウィークエンドジョガー」


「私が一番だめなようね。子供の相手で手一杯ですし」


 森下、それ一番大変なやつでは?

 ともかく分かったのは誰も登山を継続していないってこと。

 プロのクライマーである三ッ瀬は別格だ。

 時間と体力のある学生時代だからあれだけ山に打ち込めたのかな。

 そう思いながら小泉の手帳に手を伸ばした。

 赤い革表紙はしっくりと指に馴染む。


 彼女はどんな思いで亡くなったんだろう。

 農学部卒を活かして食品会社に研究職として勤務していたのは聞いている。

 でも卒業後のことはあまり知らない。

 僕の記憶にある小泉夏穂は学生時代の姿のままだ。


「手帳、僕がもらってもいいかな」


 急に手元に置いておきたくなった。

 宏樹達から特に異論は出なかった。

 礼を言い、残ったコーヒーを啜る。

 冷めたコーヒーがやけにほろ苦く舌に残った。

 脳裏で小泉の声が踊った。


「そうだね。仮にも山岳部だったし最後にがつんとした山やりたいっていうのも含めて」


 もしかしたらあいつ、結構本気だったんじゃないかな。

 不意に胸がざわめいた。

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