第二十六話 鋸山を経て山頂へ
尾根道をひたすらに登り続けた。
いつしか僕らも口数が少なくなっていた。
たまに他の登山者とすれ違う。
「こんにちは」と声を交わし、歩き続けた。
調子はいい。
景色を楽しむ余裕がある。
やがて鋸山に到着した。
山頂の標識には標高1109メートルと書いてある。
三ッ瀬に言った通り、杉木立に囲まれている。
眺望はまったくない。
「開放感は0だね」と呟いた。
三ッ瀬が同意する。
「あくまで大岳山までの途中って感じだな。山に登った気がしない」
「そうだね。ここを目標に登る人もいないだろうし」
ザックを下ろした。
足元の落ち葉が乾いた音を立てる。
腕時計を見ると10時35分を指していた。
奥多摩駅から2時間ほどか。
予想していたより少し速い。
三ッ瀬のペースに釣られたのかもしれないな。
多分向こうは本気じゃないだろうけれど。
そう思っていると、三ッ瀬が声をかけてきた。
「やっぱりモンベルか」
「ん? ザック?」
「ああ」
頷きながら三ッ瀬が空を見上げる。
「確か穴水がノースフェイス、森下がミレー、桜井がマムート、小泉はカリマーだった。俺がグレゴリーだから六人とも綺麗に分かれたな」
「ああ、そうだったと思う。ザックも好みがあるからね」
懐かしい。
どこのメーカーのザックでもそこまで作りに大差は無い。
だけど人間には好みがある。
使うなら自分の気に入ったものを使いたい。
ん、待てよ。
ザックの好みと言えば。
「皆で飲んでる時にどこのザックが一番とか言い出して、口論になったことがあったような」
額を抑える。
細かいことは忘れたけど、そういう小さな事件があった気がするな。
三ッ瀬も「何かあったよな。今思い出してもバカバカしいけど」と笑っていた。
「あったよね? きっかけは何だったっけ」
「森下が新しいザックのことをやたらと自慢してたのがきっかけだった気がする」
「あー。まあ自慢て言うか、ミレーのこのデザインが好きなんですっていう程度の可愛いものだったけどね」
話している内に段々思い出してきたぞ。
とはいえ、いつまでも座っているわけにもいかない。
立ち上がりザックを背負う。
再び歩きながら記憶を掘り返した。
僕の方から話し始めた。
「最初は皆、うんうん良かったねって頷いていたけど。次第にうんざりしてきて」
「ついに桜井がプチッてきたんだっけ。そんなに大事ならお家にしまっとけばいいじゃん。ミレーがなんぼのもんじゃ、私はマムート大好き人間だ文句あるかってキレてたな」
「酒が入っていたせいだろうけど」
そこからは皆好き勝手なことを言っていた。
宏樹は「ノースフェイスの何が悪いんだ。小学生がよく塾のバッグに使ってるよねとか文句言うな! れっきとしたアウトドアブランドだ!」とビールを煽り。
森下は桜井に「ミレーのこのさりげないセンスの良さが分からなくて? ふふっ、わかばちゃんにはまだ早かったかしら」と微笑み。
桜井は桜井で「なんだとー、子供扱いするなー! 同級生のくせにー!」と食ってかかり。
小泉は「カリマーの何が悪いんですかぁ。確かに地味だしファッショナブルじゃないけど質実剛健サイコーじゃん。インスタ映えするキラキラ山ガールなんか目指してるわけじゃないしさー」と言いながら日本酒をちびちびやっていた。
酷い飲み会だ。
いや、しかし僕も似たようなものだった。
自然と遠い目になる。
あの時の言葉を大体思い出したぞ。
あえてここで言ってみよう。
「困ったらモンベルって言うくらいだし、別にいいだろ。一部デザインのセンスが悪いのは認める。山に行ったらモンベル愛好者が多すぎてちょっとひくのも分かる。だけどハズレがないし日本のメーカーだから値段抑えめなんだよ。コスパで選ぶならモンベル一択だろう」
「ああ、そんなこと言ってたわ。若さって怖いな、松田」
「だいたいこんな感じだったね。店には悪いことしたな」
「しゃあない」
思い出すと背中がむず痒い。
いたたまれない気持ちになってきた。
とはいえ懐かしいものはある。
そうか、あの時はああいう馬鹿みたいな飲み会もよくやっていたっけ。
社会人になってからも時々あったけど、羽目は外さなくなったな。
節度をわきまえられるようになったのか。
それとも熱さが無くなったのか。
あるいはその両方か。
「若さって怖いねー」と僕は呟く。
三ッ瀬は「ん」とだけ言った。
そうだ。
三ッ瀬はあの酷い飲み会の時にどうしていたんだろう。
せっかくだ、聞いてみよう。
「ところでグレゴリー愛好家の三ッ瀬君。あなたは何て言ってましたか」
「い、いや、大したことは言ってねえよ。皆が酔っ払っていたから他の客に謝ったりしてたから」
「へえ。俺はグレゴリーと心中する。他のメーカーの物は使わんと重い愛情を吐露して、僕らをドン引きさせてたのはどこの誰でしたっけ?」
「松田、お前全部覚えて......」
「言ってる内に思い出した」
「くそ。頭のいいやつはこれだからよ」
ぼやきながら三ッ瀬は段差を超えた。
その背中が見えた。
あれ?
ザックのブランドが。
「グレゴリー使ってないのか」
続いて僕は段差を超える。
三ッ瀬がちらりとこちらを見た。
「自宅には持ってるぜ。今回は他のメーカーから使ってほしいと頼まれたやつだ。製品のテスターもやってるからな」
「えっ、格好いいな、それ。ただで使わせてくれるやつだろ」
「ああ。今回の一時帰国も半分はそういったスポンサーとの打ち合わせだ」
「おお。野球やテニスのプロみたい」
感心してしまった。
スポンサーから製品を貸与されて、その感想をフィードバックする。
まさにプロそのものだ。
登山でもそういったことがあるのか。
「だな。あんまりやってることは変わらないと思うぜ。ただし」
「ん? 何か問題が?」
「山に金が絡むようになる。だからいいことばかりでもない。援助してくれるから助かるのは事実だがな」
ああ、なるほど。
そういう側面もあるのか。
良くも悪くも僕らは大人になったということか。
「いつまでも学生気分じゃいられないか」と僕は言ってみた。
ほろ苦いな、こういう言葉は。
それ以上何とも言えず、結局僕は黙って登ることを選択した。
三ッ瀬も特に何も言わない。
そういうものだという暗黙の了解がある。
その間にも登山道を登り続ける。
ところどころ大きな段差はあるが、そこまで難所ではない。
岩がゴロゴロする北アルプスと比べれば普通の山だ。
体力さえあればまったくの素人でも登れなくはない......いや、ちょっときついかなあ。
4時間連続でこの登りは中々こたえるだろう。
"基本、登山は体力が勝負だけど"
登山経験が豊富な人なら、高齢でもかなり登れる。
若い頃から積んできた基礎体力のおかげもあるだろう。
ただそれだけではない気もする。
山が好きで登ろうという気持ちが重要なんじゃなかろうか。
そもそも山が好きでなければ登山自体しないわけだし。
紅葉が瑞々しい。
山頂近くになったからか、麓よりも色が鮮やかな感じだ。
歩きながら木立の間を垣間見る。
割と近くに穏やかな稜線が見えた。
あれは浅間嶺だろうか。
すでにあの山より僕らの方が高い。
何とも言えない気持ちになる。
「もう少しだな」と三ッ瀬に声をかけた。
「だろうな」と短い返答があった。
山頂近くには最後の急登がある。
そこさえ乗り越えれば頂上だ。




