第二十三話 クライミングとは
生まれてきた時代が違うんじゃないか。
三ッ瀬浩司を見るたびに僕はそう思わずにいられない。
日本で登山ブームが盛り上がっていたのは昭和の頃だ。
エベレストを初めとするヒマラヤにも遠征隊が派遣され、登頂を狙った。
これは日本だけじゃない。
諸外国も似たようなムーヴメントに包まれていた。
道具もまだまだ、登山スキルも洗練されてはいない。
けれども登山という行為に一般社会からレスペクトがあった時代だ。
クライマーが注目を集めていた時代と言ってもいい。
より困難なルートに挑み、華々しく初登頂というトロフィーを手にする。
その偉業が登山家の中だけでなく大衆にも知れ渡っていた頃だ。
三ッ瀬浩司にはどことなく往時のアルピニストの雰囲気がある。
そうした人に実際に会ったことがないからあくまで想像だけど。
「あんまり言うと格好つけているようにしか聞こえないけど、話のネタくらいにはなるだろう。ちょっとだけ俺がどんな山やっているか話すよ」
グラスを片手に三ッ瀬が口を開いた。
僕はじっと聞き入る。
プロのクライマーが普段どんな登山をしているのか。
普通の登山とどう違うのか。
生で話を聞ける貴重なチャンスだ。
「1800メートル」
三ッ瀬が切り出した。
「1800メートルだ。アイガー北壁の高さ。登り始めから山頂までおよそ1800メートルの岸壁をよじ登らなくてはならない」
数字の圧力に言葉を失った。
屏風岩の300メートルなんてまるで玩具だ。
スケールが違う。
こちらの考えていることが分かったのだろう。
三ッ瀬は「単純に高さだけでも屏風岩の6倍ってことだな」と言う。
そのまま話し続けた。
実際には岩の質や壁の斜度の違いがある。
だから単純比較は出来ない。
ただ一つ言えるのは絶望的に高い壁だということ。
松田、想像してみろ。
自分の目の前に1800メートルの岩壁がそそり立っている。
頂上は遥か上。
距離が遠すぎて視界に入ってこない。
いや、それどころじゃない。
視線はオーバーハングした岩に遮られる。
全体の半分も見渡せない。
ここを登るのか。
頼りなるのは自分の手足と道具だけだ。
訓練は積んできた。
覚悟はしてきたつもりだった。
だが――そんなもんで通用するのか。
この天に届く絶壁へ!?
けれど逃げるわけにはいかない。
ここを登ろうと決めたのは自分だからだ。
最初の一歩が左足からだったのはよく覚えている。
アイゼンの爪ごと足がかりに引っ掛けて、俺は登攀を開始した。
「最初が肝心だ。動き始めれば体が勝手に動いてくれる。クライミングの経験は散々積んできたからな。スタートさえ切れればどうすればいいかは手足が覚えているのさ」
右手にピッケル。
左手にアイスバイル。
それぞれの手に握った道具を振るい、岩壁に突き立てる。
岩の表面の雪と氷ごと岩を抜く。
手応えあり。
更に上を目指すための手がかりを自分で作る。
三点支持をキープして体を上方へ。
15、いや、20センチほど稼いだか。
この間にも脳はフル回転している。
下方から岩壁を睨む。
ほんの数秒でルートファインディング。
次に取るべきルートを脳裏に刻む。
右足だ。
慎重に次の足がかりへと移動。
ほんの数センチでも爪先が入れば御の字だ。
足を包むのはクライミング用の特殊な登山靴だ。
頑丈で固い爪先は岩の割れ目に差し込めるように作られている。
自分の体重とザック、ピッケルやハーケンの重さを支えるためにソールも厚く固い。
パッと見た感じ、工場で履く安全靴に似ているかもしれない。
爪先保護の鉄板が入っているあのゴツい靴だ。
装備だけでも結構な重さになる。
しかも平地を歩くわけじゃない。
体を垂直に持ち上げていくんだ。
「こうして聞くと狂気の沙汰だろ。実際、俺もそう思うよ。登っている最中に何度も思った。俺はなんでこんなしんどいことをしているんだ。なんで俺はもっと楽な道を選ばなかったんだって。自分を呪ったね」
「壮絶だな......」
「まったくな。自分で好きで選んだ道なのにな。でも辛いばかりじゃない。これを、クライミングをして良かったと思う瞬間はある。無かったらやってられない」
「無事に登頂した時か?」
「無論それは含む。だけど山頂を踏んだ時だけじゃない。ルートファインディングしてここだと思えるルートが閃いた時。オーバーハングした岩を綺麗に迂回してその上方へ回り込んだ時。岩棚に辿り着き、腰を下ろして一休みしてチョコレートを齧った時。色々だ」
「そういうものか」
僕は相槌を打つくらいしか出来ない。
分かるのは三ッ瀬の見えている世界が別次元だということくらいだ。
登山よりクライミングの方が命の危険は遥かに大きい。
滑落すれば死。
死を免れたとしても大怪我は必至。
生命の危機を常に感じる環境。
そういう場所では感覚が鋭敏になると聞いたことがある。
普段は使っていない脳の領域が活動するらしい。
頷ける話だ。
そうでもしないときつすぎる。
命を賭ける行為どころか命を捨てる行為にしかならない。
「凄いな、三ッ瀬は。僕には想像もつかないよ」
「確かに凄いは凄いかもしれないな。だけどな、松田。俺はその分だけ普通の生活から縁遠くなっている。どう考えてもやばい」
「クライミングから離れられないってことか」
「ああ。どう考えても無理な岩壁を理想のルートで登った時のあの満足感。足を滑らせてかろうじて命綱のザイルで落下を免れたあの瞬間。そういうもんを味わうとな。地面に足を着けている時はぬるいんだよ」
「そういうものか」
何となく想像はつく。
三ッ瀬にとっては物足りないのだろう。
ぎりぎりのラインで登攀をしているのだ。
安全が確保された地上では、何もかもが緩くぬるく感じられるのか。
「罰当たりな生き方をしてるよ、俺はね」と三ッ瀬は肩をすくめた。
その顔が不意ににこやかになる。
「だがまあ、日本にいる間は骨休みだ。松田、今週末空いてるか。どこか登ろうぜ」
そう来たか。
断る理由は無い。
「今週末? ああ、日曜なら行けるけど。でも日帰りで行ける山だけどいいのか」
「構わない。たまには普通の登山をやってみたくなってな」
「分かったよ。物足りないかもしれないけど文句言うなよ。奥多摩でいいかな」
僕の方から提案する。
いきなりとんでもない山に連れて行かれても困るからだ。
三ッ瀬は「任せた」と頷いた。
よし。
だったら行きたい山がある。
「奥多摩駅から鋸山を経て大岳山へ。帰りは御岳山まで下ってケーブルカーで下山しよう」
「あー、結構長いコースだよな。いいねえ。この季節の山なら多少紅葉も始まっているか?」
「色づき始めた頃だろうね」
こうして次の登山は決まった。
しかし三ッ瀬の体力についていけるだろうか。
ま、どうにかなるだろう。
 




