第二十二話 プロに問うということ
三ッ瀬が僕をじろりと見る。
その目からは感情が読み取れない。
不機嫌なわけではなさそうだ。
だが僕の問いに諸手を挙げて賛成という感じでもない。
酒場の喧騒がやけにハッキリ聞こえてくる。
「いきなりどうした」
やがて三ッ瀬がそろりと口を開いた。
こちらの真意を測りかねている。
そんな感じだった。
簡潔に返答する。
「登りたい気持ちはある。けれど自分が出来るかどうか迷っている。それで三ッ瀬の意見を聞きたいと思った」
「ふん」
「ついこないだまでは本気じゃなかったんだけどね。やれそうな手応えを掴んだんだ。少なくとも体力的には」
「待て、松田。お前、登山やっているのか」
「ああ。今年になってから再開した」
これだけで三ッ瀬は察したようだ。
「小泉が亡くなってからだな」と確認してくる。
僕は「うん。きっかけはそうだね」と頷いた。
ビールのジョッキが空いた。
2杯目を頼みながら話し続けた。
「小泉のご家族から日記を渡されたんだ。大学時代に使っていたやつ。その最後に冬の穂高に登りたかったなと書いてあった」
「ああ、それでか」
納得いったらしい。
三ッ瀬が頷き「で、小泉の遺志を継いだってわけか」と続けた。
「遺志かどうかは分からない。とにかくその日記を読んでもう1回山をやってみようかと思った。まずは出来る範囲で再開してみようと」
日の出山から始まり、春には陣馬〜高尾の縦走を。
その合間合間には近郊の低山を登っている。
けして体力的に厳しい登山ではない。
だがブランクを着実に埋めている実感はあった。
「夏にパノラマ銀座に登ったんだ。燕、大天井、常念の3つの縦走」
「ああ、あれか。景色も楽しめるいいルートだよな。で、どうした」
「最後の常念の山頂から奥穂高がはっきり見えてさ。モルゲンロートで赤っぽく輝く姿が壮観で。見てる内にふと思ったんだ。もし冬の奥穂に登れたらどんな風景が見られるのかなって」
あれから3ヶ月が経つ。
もしその間にこの気持ちが消えているなら、それはそれだ。
別に山に登るのは義務じゃない。
自分のモチベーションが無いならやる必要は無い。
まして冬季の奥穂高岳を狙うというのは遭難の危険を本気で検討するレベルだ。
考え無しに突っ込めば半分以上の確率で大ダメージを食らう。
そういう登山だ。
だからこそ、まずは気持ちが無ければ話にならない。
「萎えない。気持ちが萎えない。それどころかやってみたいと願う気持ちばかりがある」
酒の入ったグラスへ視線を落とした。
紫蘇で出来た焼酎は透明度の高い紫色をしている。
一気に煽った。
カッと喉の奥が焼け付く。
「おい、無茶な飲み方するな」
三ッ瀬がたしなめるのが聞こえた。
大丈夫だ。
酒の酔いより体の中の熱が上回る。
「別に小泉のためってわけじゃない。亡くなった友人の願いって言っても何年も前に書かれた日記にあっただけだ。どの程度本気だったかも分からないし」
登れたらいいなあという程度だったのかもしれないし。
「亡くなった後で代わりに叶えてあげようなんてセンチメンタル過ぎるだろうし。だからこれは僕が登りたいってだけだ。誰のためでも誰のせいでもなく、僕自身が」
きっかけは彼女だったとしても。
この気持ち自体は僕が生み出したものだ。
それだけは間違いない。
他人を理由にして山をやりたくはなかった。
上手く伝えられたかは分からない。
だが三ッ瀬は否定しなかった。
笑って「冗談よせよ」と言うことも出来たと思う。
だけど真面目に聞いてくれている。
僕が言い終わるのを待ってからグラスを煽った。
中身はビールからウィスキーになっている。
いつの間に頼んだのだろう。
そういえばこいつ、酒に強かったな。
「なるほど」
三ッ瀬が呟いた。
癖毛を揺らし、ウィスキーをまた一口。
「なるほど」ともう一度言った。
「冬の奥穂ね。やる気ならやってみればいいんじゃないか? 冬山は大学の時にやったよな。奥穂の前に練習で1、2回冬山行って慣れておけば大丈夫だろう」
「それくらいでいいってことか? 今の僕でも?」
「ずぶの素人なら止めている。だけどある程度経験ある人間なら無理じゃない。確かに冬季の奥穂高岳は簡単じゃない。冬山のグレードとしては日本の山の中では最高難易度のグループに入る」
三ッ瀬が話し始めた。
その目が鋭くなっている。
「上回るのはあの劔岳くらいだろう。油断するのは論外だし、練度の高いパーティーでも危険が0じゃあない。だがな、松田」
一度言葉を切った。
三ッ瀬はウィスキーで舌を湿らせた。
「いくらきついといってもあそこはヒマラヤじゃない。俺が登っているアイガーやマッターホルンでもない。冬季の奥穂には実際に毎年何組ものパーティーが登頂している。難攻不落の登山じゃないんだ。きちんと準備して挑めば勝機は十分ある」
「行けるってことか」
「ああ。無理なら止めてるよ、俺はね。クライミングじゃないんだろ? 冬の屏風岩をアックスとハーケン使って登攀するっていうなら俺もやめとけって言うけどな」
屏風岩は穂高にある巨大な岸壁だ。
その存在感は圧倒的だ。
300メートル以上もの高さがあり、普通の登山者は涸沢からその姿を仰ぎ見る。
日本のアルパインクライミングの象徴とも言われるほど知名度は抜けている。
あそこを直登するなど考えたくもない。
というより考える範疇に入らない。
「屏風岩なんて僕に出来るわけないだろ」と小さく笑った。
そもそもクライミングはやっていないし。
「そうだな。俺なら......やれるけどね」
「登れるってことか」
「出来るよ。今の俺ならね。ヨーロッパの岸壁に取り付いてきたから、大抵の壁はやれるよ」
あまりにもさらりと言ってくれる。
だけど三ッ瀬が本気で言っているのは分かる。
誇張ではない。
自分の実力とルートの難易度を比べて極めて冷静に判断しているだけだ。
「ヨーロッパに行く前に屏風は散々やった。夏も冬も両方な。いまだにどうやってルートを取ればいいか目に浮かぶくらいだ」
聞いているだけで背筋が寒くなってくる。
どれだけの経験を積めばこんな台詞が出てくるのだろう。
三ッ瀬は両の掌をテーブルにピタリと密着させた。
しっかりとした指がガリリとテーブルを引っ掻く。
「岩の窪みのどこへ指をかけて、体を持ち上げていくか。自分の体重の半分を中指と人差し指だけで支えるんだ。きついぜ、これは」
「残り半分は」
「氷壁に蹴り込んだアイゼンの爪一本で支える。あ、体重の半分じゃないな。ザックや装備の重さもかかってくるか」
「......怖くないのか?」
「怖いに決まってる。けどやっちまうんだな、これが」
ニィ、と凄みのある笑いが三ッ瀬の唇に宿った。
「これでもプロのクライマーの端くれだ。それくらいはやるさ。それに日本を出た後はもっとヤバい登攀をしてるしな」




