第二十一話 三ッ瀬浩司
今年の夏も暑かった。
7月、8月は言うに及ばず熱気は9月も続いた。
9月半ばを過ぎても最高気温は35℃を記録した。
流石に「いい加減にしろ」とうんざりしたものだ。
けれど10月になると途端に秋らしくなった。
日に日に過ごしやすくなる。
後輩などは「毎日何を着ていくか悩みますね」と頭を抱えている。
駆け足で季節が移ろっていく。
そんなある日の昼休み、僕は職場から窓の外を見ていた。
「何見てるんですかー」
「いや、別に。雨にならなければいいなと思って」
後輩だ。
振り返らなくても声だけで分かる。
天気は下り坂。
朝は晴れていたのに今は雲が多い。
置き傘はあるから雨が降っても大丈夫ではある。
ただし僕が雨を回避したいのはそういう理由ではない。
「夜、昔の友達と会うからさ。久しぶりの再会が雨ってちょっと嫌だろ」
「お? 珍しいですね、先輩がプライベートの予定があるなんて」
「僕にもそれくらいはあるよ」
「で? お相手は女性ですか。友達と見せかけて昔の彼女さんとか?」
ずいぶんと突っ込んでくるな。
目を輝かせている。
そんなに他人の交友関係が面白いのだろうか。
肩をすくめて「違う。男で山岳部時代の同期だ」と答えた。
「あー、なるほど。そっち関係の」
「そっち関係ってどっち関係だよ」
「いえ、特に意味は無いです。でも大学時代の友達に会うってありそうでないですよね。お互い社会人になると忙しいし」
「ああ、ちょっと今回はね」
詳細を語るのが面倒なのではぐらかす。
後輩も僕の意図は分かったのだろう。
「そうですかあ。ま、お天気に恵まれるよう祈ってますね。私、これでも晴れ女なので」と笑っている。
こいつ妙なところで心配り出来るんだよな。
踏み込んでいいところと悪いところを察するのが上手いというかさ。
外を眺めても仕方ない。
窓の外を離れる。
自分のデスクに戻って一度大きく伸びをした。
今日会う相手の名前を思い浮かべた。
三ッ瀬浩司。
卒業後に本格的に山を仕事に選んだ男だ。
昼間に願ったのが良かったらしい。
その日の夜も雨はぎりぎり回避。
待ち合わせ場所の吉祥寺はそこそこに人が多い。
週半ばの水曜日だ。
早帰りする人もいるのだろう。
待ち合わせ場所は駅の北口のバスのロータリー。
時刻は6時半。
そろそろと秋の夕暮れが夜へと変わる時間帯。
「よう」
背中から声をかけられちょっと驚いた。
振り返る。
マウンテンパーカーに身を包んだ男の姿を認めた。
身長は僅かに僕より高い。
確か173センチだったと思う。
日焼けした肌。
やや癖のある黒髪を無造作に伸ばしていた。
長髪というほどじゃないけどサラリーマンにしてはやや長め位だ。
無精髭を生やしているのは昔からか。
「久しぶり、三ッ瀬。今着いたところか?」
「ああ。成田から直で来てホテルに荷物だけ置いてきた。悪いな、仕事帰りに」
「いや、大丈夫。三ッ瀬に話したいこともあったし」
ぽつぽつと話す内に当時の会話のリズムを思い出す。
三ッ瀬は見た目はゴツいが、話しづらい相手じゃない。
むしろ人当たりはいい方だろう。
ただし時折率直過ぎる言い方をする。
中にはそこが気に食わない人もいた。
しかし本人はどこ吹く風で「全員に好かれるなんて無理だろ」と素知らぬ顔をしていたっけ。
人に好かれてもいい。
別に好かれなくてもいい。
自分は自分だ。
三ッ瀬の姿勢は言外にそういう印象を与える。
だからだろう。
少し距離を感じるのは。
穴水宏樹のことは宏樹と呼べる。
けれど三ッ瀬浩司のことは名前で呼べず、ずっと名字で呼んできた。
多分これからもそれは変わらない。
確信に近い予感があった。
僕は「立ち話もなんだしどこか入ろう」と色んな意味で特殊な友人に声をかける。
三ッ瀬は無言で頷いた
歩きながら適当に店を選ぶ。
海産物中心の居酒屋だ。
畳型のマットに座ると「こういう気安い感じ、割と好きなんだよな」と三ッ瀬が笑う。
「ヨーロッパだと酒飲むにしてもパブだからな。箸とコップ酒ってわけにいかないし」
「やっぱりビールのジョッキ? あのでかいやつ?」
「ああ。1ガロンくらい入るビアマグとかある。日本人が飲むもんじゃないね、ありゃ」
三ッ瀬が手で大体の大きさを示してくれた。
凄い大きさだ。
子犬がすっぽり入りそうなビアマグなどあるのだろうか。
僕には海外に住むのは無理そうだ。
ちょっと三ッ瀬を尊敬する。
お通しが来た。
つまみながら三ッ瀬がメニューを開く。
「しかし驚いたぜ。まさか小泉がああいう亡くなり方をするとはな。葬儀出れなくて悪かった」
「山入っていたんだろ。仕方ないよ」
彼も彼なりに悔やんではいるようだ。
メニューを見ながら表情が曇っている。
普段、三ッ瀬はヨーロッパを拠点にしている。
大学卒業後に進路を本格的に山に定めたのだ。
「プロのクライマーになる」と聞いた時には驚いた。
それでも持ち前のバイタリティで目標を達成してしまった。
今は自分で登攀をしながら、プロのガイドとして働いているらしい。
そういう生き方をしているのだ。
小泉の葬儀に出席できなくても無理はない。
今回、日本に一時帰国する折にたまたま三ッ瀬が皆にメールをくれた。
『登山用具のスポンサーに会う。小泉の実家に顔を出してくる』とシンプルなメールに僕が反応した。
『良かったらちょっと飲まないか』と。
そうして現在に至るという訳だ。
「しかし懐かしいな。8年ぶりか」
「それくらいだね」
「俺らも歳を取るわけだ。もう30台に足を突っ込んじまった」
口ではそう言ってはいるが、三ッ瀬は笑顔だ。
ぐいぐいと美味そうにビールを飲む。
僕も付き合いながら「最近何してる?」と聞いてみた。
酒が入ると舌も自然と回る。
「山ばっかだよ」
「そこのところもうちょっと詳しく」
「アイガー北壁、マッターホルン、グランドジョラス。ここ2年で俺が冬季に制覇した山だ」
息を呑んだ。
ビールの冷たさがやけに喉に染みる。
「ほんとに?」
「嘘ついてどうする。日常的にクライミングしてればこれくらいやれるさ」
こともなげに三ッ瀬は言う。
「あっちでもサーモンや鱈は食えるけど魚は日本の方がやっぱりいいよな」と旺盛な食欲を見せていた。
これだけ見ると普通の人だ。
ちょっとワイルドな雰囲気がする程度にしか思えない。
だが。
"アルプスの三大名峰をコンプリートだと"
登山をする者なら一度は聞いたことがある山々だ。
ただ有名なだけではない。
登攀の困難さでも群を抜いている。
どれも標高は4000メートル前後。
安易なルートは存在しない。
その峰は天を突き上げるかのように鋭くそびえ立つ。
険しさと美しさにおいて間違いなくヨーロッパでトップの座に就く名峰達だ。
歴代日本人のトップクライマー達も果敢に挑んできた。
特にグランドジョラスで滑落してそこから奇跡の生還を果たした森田勝は知名度が高い。
落ち着くために一口ビールを飲む。
しかも三ッ瀬は冬季に登ったと言った。
夏季ならばまだ分かる。
気温が高くなると落石が酷くなるケースもあるが、一般的には夏季の方が条件はいい。
まず雪が無い。
冬に特有の暴風も無くなる。
こうなればクライミングの難易度はかなり抑えられる。
たとえ見上げるような絶壁でもだ。
だが冬ならば。
"雪、凍りついた岩肌、冬の暴風......それを承知で挑んで登頂を果たしたのか。三ッ瀬は"
偉業と言っていい。
少なくとも日本人クライマーのトップクラスに入るだろう。
身近にこういう相手がいて良かったと思う。
山の相談相手としてこれ以上は望めない。
自分の判断は間違っていなかった。
三ッ瀬が僕を見る。
酔っているようで素面の顔だ。
彼の視線が突き刺さる。
「で、松田の話ってのは何だ。俺に答えられることならいいけど」
俺はちゃんと答える気でいる。
だからふざけた質問は無しだ。
言外にそう伝えているのが分かる。
だから僕は素直に伝えた。
「冬の奥穂高に登りたい、と言ったらどうする」




