第二話 皆の近況
私立明慶大学の山岳部の歴史は古い。
創部は戦後間もなくの頃だそうだ。
1960〜70年代の登山華やかなりし頃の一翼を担っていたと部誌に書いてあった。
今は当時ほどの人気は無い。
それでも各学年の部員が途絶えない程度には入部者がいる。
2015年卒業の僕らの代もその一つ。
けれど2023年の1月某日、こんな形で集うとは予想していなかった。
告別式の後、僕たち四人はカフェに寄った。
重い雰囲気のまま帰りたくないというのが一つ。
こんな機会だけれどせっかく顔を合わせたのだしというのがもう一つ。
桜井の提案に乗った形だけど、彼女が言い出さなければ誰かが言い出していただろう。
「まさか小泉が俺達の中で真っ先に亡くなるとはな。一番最後の方になると思っていたのに」
席に着くと宏樹が口を開いた。
メニューを見るより先にコーヒーを頼み済みだ。
同じものを頼みながら僕も相槌を打つ。
「そうだね。バイタリティって意味では僕らの中でトップだったから」
「事故でも何でもなく病に倒れるなんて。人生は分からないものですわね」
「うん。私、ご焼香の時に複雑な気分だったよ。ああ、もう夏穂には二度と会えないんだなあって」
森下と桜井も口を開いた。
森下の言葉の端々にお嬢様口調があるのは昔からだ。
ふりではない。
彼女の父は社長なのでれっきとした社長令嬢にあたる。
新入部員の挨拶の時に打ち明けられた。
「中小企業の社長なので別に大したことではないのですけど」と森下は言っていたが、軽井沢に別荘があるのは立派にお嬢様だろう。
それを聞いた桜井は「ふっ、お嬢様がなんぼのもんよ。うちは一般人代表として生きていますからね!」と何故か胸を張っていた。
誰もお前には聞いてないよと突っ込まなかったのは優しさだったのだろうか。
いや、今は昔のことはいいんだ。
「口には出せないけど、俺は一番先に亡くなりそうなのは三ッ瀬だと思っていた。病気や老衰じゃなくて遭難や滑落でだが」
「ああ、仕事が仕事だからね、三ッ瀬の場合は」
「えぇと、プロのクライマーになられていたんでしたよね。今日来れなかったのもそのためだとお聞きしたのですけれど」
「うん。夏穂のお母さんが話してくれた。名簿を頼りにメールしてみたって。申し訳ないのですが今はアルプスに入っているので無理です、と返信が来たらしいよ。凄いよね」
「どこの山をやっているんだろうな。1月のマッターホルンやアイガー北壁なんて想像したくも無いんだが」
宏樹が肩をすくめた。
僕も同感だ。
もちろん登山部員として冬山の経験はしている。
けれどもそれは雪山を普通に登るということだ。
クライマーが登るのとは異なる。
彼らは斜度40度以上の氷壁にピッケルを食い込ませて体を引き上げていく。
まさに登攀という言葉がふさわしい。
ハーケンというくさびを岩の割れ目に打ち込む。
そこにザイルと呼ばれる専用のロープを通し、姿勢を確保する。
確保と言っても絶壁に取り付いたような状態だ。
気の弱い人が見たら卒倒するだろう。
そこから見上げれば岩と氷が壁を覆って立ち塞がっている。
ルートファインディングして頂上を目指す。
三ッ瀬がいるのはそういう世界だ。
「クライミングだけはしたくないな」
僕は苦笑した。
登山とクライミングは似て非なるもの。
危険度は段違い。
もちろん後者がより危険。
そして今の僕らは登山からも縁遠い。
卒業と共に離れていったから。
残っているのは同じ部活だったという縁だけだ。
その縁の一部が永遠に失われてしまったことを......こうして受け止めている。
ちょうど飲み物が届いた。
温かい飲み物で喉を潤す。
疲れた気持ちを立て直した。
自然とお互いの近況報告を交換することになった。
商社勤めの宏樹は婚約中とのこと。
式は5月だそうだ。
「状況が状況だけどおめでとう」
控えめに言っておく。
きちんとしたお祝いはまた別の機会に。
森下と桜井も祝福する。
宏樹は「招待状送るから良かったら来てくれ」とはにかんだ。
結婚式か。
そういえば最後に皆で会ったのは森下の結婚式だったな。
5年ほど前になる。
ちょっと聞いてみるか。
「森下」
「ん、何か」
「森下の結婚式からしばらく経つけど、上手くいってる?」
僕の問いに森下は小首を傾げた。
小さな笑みが口元に浮かんでいる。
「伝え忘れていましたが子供を授かりました〜」
「お、おお」
さすがに驚いた。
宏樹と桜井も目を見開く。
「何でそんな大事なこと連絡しないんだ」
「いつ!? 今、幾つなの!?」
「3年前。だから3歳。可愛いけど大変ね。あ、あと第二子妊娠中なの」
爆弾追加だ。
「へえ」としか言えないのはあまりに芸が無い。
「動いて大丈夫?」とも聞いたけど、これもやっぱり芸が無い。
「うん、4ヶ月だから安定期。私、つわりも大したことないですし。告別式だけならと旦那に子供見てもらって来ちゃいました」
さらっと言うがアクティブ過ぎないか。
聞いているこっちがハラハラする。
宏樹は「母は強しか」と頷き、桜井は「私は結婚もまだなのになぁ」と呻いている。
僕もちょっと桜井に共感してしまった。
家庭を持つことに憧れは無いけど、そうだな。
人生のイベントを順調にこなしている人への僻みと言えば近いか。
桜井がため息をつきながら紅茶に口をつけている。
「ふーん、いいですよぉ。私は仕事に生きるもん。スカウトもらってるもんだ」
「えっ、凄」
「やるじゃないか、桜井」
「わかばはWebデザイナーだったわよね。同じ業界かしら?」
「うん。前の上司が転職して、その転職先から声かけてくれたんだ。ポジション用意してるからどうだって」
ニッ、と桜井は笑った。
自信に満ちた顔つきだ。
「待遇アップしそうだし、思い切って転職しちゃおっかなと思案中です。プライベートの方は、ああ、うん、何もないけど......」
「いじけるなよ」
ツッコミ混じりに励ましてしまった。
そうだよ、僕なんかほんとに何もないぞ。
敢えて自分から近況報告しないのはそういうことだ。
駄目だ、何だか虚しくなってきた。
冷めてきたコーヒーを啜る。
話題を変えよう。
そうだ、何か大事なことを言い忘れていたような――思い出した。
「ごめん、忘れていた。これ、小泉のご両親から預かった」
バッグから赤い手帳を取り出しテーブルに置いた。
小泉のものだとはわざわざ言わなかった。
それくらいは言わなくても伝わる。
「僕らにあげてくれと言っていたらしい」と付け加える。
「つまり私達に読んでほしいということでしょうか」
森下がじっとテーブルの上の手帳を見る。
桜井も「手帳ってことはそうなんじゃないかな」と言った。
宏樹が「中身を見ても差し支えないってことなんだろうな」と全員の顔を見回す。
慎重になるのも当然だ。
手帳はプライベートな物の一つだ。
友人だからといってあっさり読んでいいのかどうか。
まして故人のものなのだ。
だが。
その故人がわざわざ託したということは。
「山岳部の時の手帳だからこそ僕らにってことなんだろう。開くよ」
確認を取るために敢えて言ってみた。
三人から反対は無かった。
賛成と受け取る。
手帳を手に取り、パラパラとめくった。
書き込みのある日付が幾つかあった。
書き込みの内容を見ると全部登山関係だ。
どこの山へ行ったとか登山のトレーニングメニューが書かれていたとか。
「小泉のやつ、こんなまめな面があったんだな」
「料理は雑だったことに異論はないよ」
宏樹に返答しながらページをめくる。
僕の指はある箇所で止まった。
書かれている文章が記憶の一部を刺激する。
無意識の内に声に出していた。
「皆で最後に冬の奥穂高に登れたらいいな」