第十九話 午後は山での読書とコーヒー
午後1時過ぎに常念小屋に着いた。
ほぼ予定通りの時間だ。
登山が早出早着が常識とはいっても流石に早過ぎる。
でも遅すぎるよりはいいか。
小屋によっては午後4時着だと「遅すぎますよ」と注意されることもあるからな。
昔だと結構本気で怒られることもあったとか。
常念小屋は稜線から少し下に降りたところにある。
この辺りの地形は一言で言うとだだっ広い。
山の上の方がなだらかな丘のようになっていると思えばいい。
テニスくらいは出来そうな余裕がある。
もっとも足元は大小の石なのでボールが跳ねないだろうけれども。
横に広い造りの常念小屋は山小屋としては大きい方だ。
玄関のドアを開けると向かって右にカウンター。
壁や床板は木製でぴかぴかに磨き込まれている。
質素だけど清潔なのが伝わってきた。
「夕食は夕方5時からですので。それまでごゆっくりなさってください」
「ありがとうございます」
自分が宿泊する部屋に案内された。
3名1室の相部屋とのこと。
ホテルとは違い、山小屋は相部屋が基本となる。
2名以上のグループならグループで個室を割り当てられることもある。
ただし、ソロの場合は余程のことが無い限り相部屋だ。
ザックを下ろす。
文字通り肩の荷が下りてホッとした。
そこまで長い距離は歩いてないけど、重荷を背負っての歩行だ。
それなりに疲れている。
"マラソンとは疲れの質が違うからな"
今日の歩行距離は10キロ少々。
フルマラソンの42.195キロと比べれば大したことはない。
ただし登山の場合は荷物の負荷がかかってくる。
足元も舗装路ではなく、土や石の多い山道だ。
ここにアップダウンが加わる。
スピードは要らないけれどパワーが必要になる。
山岳部の普段のトレーニングを思い出した。
ザックに重りを入れて背負い、そのまま階段を登ったり降りたり。
2人1組で手押し車を作って廊下を往復したり。
負荷をかけた状態で動けるようになる、がポイントだった。
"結構きつかったけどためになったのは確かだ"
山とは関係ないトレーニングは正直つまらなかった。
でも持久力は一朝一夕には育たない。
実際に山に行ける機会は限られている。
それなら普段の筋トレが重要だ。
今の自分を振り返ってみる。
登山を再開してから少しランニングはやるようになった。
有酸素運動による持久力の向上だ。
どの程度効いているかは分からない。
ランニングをすると登山で息が上がらなくなるとは言う。
「ま、今は考えるのはよそう」
呟き、ザックから文庫本を取り出す。
天気も良いし、外で読書でもしよう。
山小屋の外に出た。
適当な場所を探す。
小屋の裏手に回ると手頃な場所を見つけた。
壁によりかかれそうだ。
張り出した屋根が日陰を作ってくれている。
背中をもたせかける。
固い、でもどこか暖かい感触が背中に伝わってきた。
木の温もりなのだろうか。
そのまま文庫本を読み始めた。
出発間際にザックに放り込んだ歴史小説だ。
正直ジャンルはどうでもよかった。
時間潰しが目的なので、内容も大して重要じゃない。
そうだなあ。
敢えて言うならデジタルなものから離れるということが目的だし。
"山にいる間はスマホいじりたくないんだよな"
僕は普段はスマホはかなり触る。
電車に乗っている間。
帰宅して寝るまでの間。
移動時間の合間。
ちょっとした隙間時間をスマホを触ることで埋めてしまう。
良くない癖と分かっていても手軽だからだ。
別に意味などない。
有用な情報が得られるわけでもない。
だけど身に付いた癖は中々やめられない。
これはまずい。
けじめが必要だと考えた。
そのけじめとして自分にルールを作った。
「登山の際はスマホをなるべく触らないこと」
これだ。
別にスマホの電源を落とすことまではしない。
GPS機能を使った位置情報の取得の為に必要だから。
それと写真の為にしか使わないという縛りを設けている。
適当にSNSを見たりコメントしたりといったことはしない。
ニュースサイトを周回することもしない。
そもそも登山の際にスマホを見ていたら危ないからというのもあるけど。
山の自然の中で文明の利器に触るのは不粋な気もする。
言い方を変えれば、登山は僕にとってデジタルデトックスにもなっている。
世界中を無形で飛び回るネットの情報から自分を一時避難させる為の。
つまりは心の洗濯だ。
山に登る時は山とだけ向き合う。
そういうメリハリは必要な気がする。
文庫本を開いたのもそのメリハリの一環だ。
山小屋の木の外壁に背中をもたせかけた。
日陰越しに夏の空が見えている。
ここの標高は2500メートルより高い。
澄んだ空気の中、大小の石が重なった地面が広がっていた。
低く伸びたハイマツの濃い緑がアクセントだ。
気温は20℃くらいだろうか。
過ごしやすい。
今が7月だということを忘れそうだ。
蝉の声も聞こえない。
風の音だけが耳に届く。
静かだ。
心地よい静寂の中、ページをめくる。
贅沢な時間だ。
時折遠くに視線をやる。
遥か先の山稜に白い雲がかかっていた。
そうか。
雲よりも高い場所に僕はいるんだな。
ここには何もなく、それでいて全てがある。
2時間ほど読み込んだ。
久しぶりに読書に没頭できた気がする。
気がつけばだいぶ太陽が傾いている。
小屋に戻りコーヒーを頼んだ。
香ばしい香りを楽しみながら喉に流し込む。
ちょうどいい苦みと酸味のバランスだ。
聞けば常念岳の水を使っているという。
「北アルプスの湧き水で淹れたコーヒーだからね。山屋にはたまらないさ」と小屋のご主人が笑った。
「そうですね。ほんとに美味しいです」
僕も同意する。
「半分はこの山からの景色のおかげだと思うけどね。けれど、そうだなあ。俺も山小屋営んで長いけど、山はいいもんだよ」
「はい」
「そりゃ不便な面も危ないこともあるけどさ。地面に戻ってしばらくすると、またここに戻ってきたくなるんだよ」
ハハッと快活な笑顔をご主人は見せてくれた。
日に焼けた顔にはたくましさと人懐こさが同居している。
「いいですよね。僕も久しぶりに登山再開した口で」と合いの手を入れた。
「うんうん。自分なりに楽しめるのが山のいいところだからなぁ。ブランクがあっても好きな気持ちがあればまた戻ってこれる」
「はい」
そうだな。
ほんとにその通りだ。
コーヒーカップに視線を落とした。
黒い液体の水面には僕の顔が映っている。
ぐい、と飲み干す。
この香ばしい苦みがたまらなく美味しい。
きっと山でしかこんなコーヒーは飲めないだろう。
山をやる理由は人それぞれだ。
僕も僕なりに続けてみよう。




