第十八話 大天井岳に到着
大天井岳には予想通り10時過ぎに着いた。
日はだいぶ高くなってきた。
山頂直下の登りだけが少しきつかったが、昨日に比べれば大したことはない。
頂上からの景色は――うん、いい。
標高2922メートルからの景色だ。
素晴らしいのは間違いない。
だけどここまでずっとパノラマ銀座を歩いてきて、同じ風景を見てきたわけで。
絶景なのは分かるけど、新鮮な驚きは流石に無い。
それでも見どころはある。
燕岳に比べれば槍ヶ岳と穂高連峰がより近い。
その分、大きく見える。
視界の中で存在感を増している。
迫力も徐々に増してきており、心が踊った。
"しかしまあ、よくあんなところ登ろうと思うよな"
手近な岩に腰かけた。
槍も穂高も頂上近くは完全に岩山だ。
森林限界などとうに突破している。
かつ恐らく土の性質がここパノラマ銀座の山々と違う。
自分の周囲を見てみる。
ここ大天井岳は山頂近くでもまだハイマツが生えている。
ごつごつした岩は少なく、白い花崗岩の小石が敷き詰められたような地面だ。
圧迫感が無い。
槍や穂高は違う。
大小の岩が積み重なったような山稜は険しく、威厳すらある。
どちらの山も山頂アタックの際は岩場の登攀をするしかない。
ロープやハーケンこそ使わないが、相当にアスレチックだ。
山岳部時代に夏の奥穂は登ったことがある。
あの時も相当緊張した。
健康で登山歴のある人なら60、70代でも行けるので、難攻不落というわけではないだろうが......それでも日常では絶対に味わえないスリルがある。
"冬の穂高に登れるだろうか"
小泉の日記を思い出した。
最後の登攀の難易度は上がるだろう。
雪が貼り付き凍っていれば、指も登山靴も滑りやすい。
冬の強風が吹けばバランスを崩しやすくなる。
いや、それ以前に山頂近くまで行けるかだ。
梓川沿いの山道は間違いなく積雪する。
雪の上を歩くのは体力を使う。
そこから涸沢まで登ったとしよう。
大規模なカールである涸沢は比較的安全な場所だ。
ここから南側の斜面を選び、ザイテングラートに取り付く。
急斜面の岩尾根のザイテングラートが冬にどうなっているか。
夏山でも油断ならない場所だ。
雪と氷に覆われた岩尾根を乗り越えられるか?
考えるほどに肌がちりちりしてくる。
分かっている。
まったくの不可能事ではないことくらいは。
本気で厳冬用の装備を整え、体力と経験が十分な登山者ならば。
冬のヒマラヤじゃないのだ。
標高3000メートルの世界なら、まだ一般人でも手が届く。
けれども今の僕には登れるイメージが無かった。
大天井岳を後にする。
近くの大天荘という山小屋に寄った。
ここで宿泊するわけではない。
昼ご飯の為だ。
中で食べてもいいんだけど、せっかく持ってきたので作る。
小屋の近くのキャンプ場を使わせてもらう。
さすがにこの時間にテントを張っている人はいない。
ちらほらと登山者はいる。
恐らく僕と同じように縦走途中で休憩している人だろう。
北の燕岳から来たか、南の常念岳から来たかの違いだ。
それはともかくご飯が先だ。
いつもの携帯バーナーを取り出し、ガス缶を取り付ける。
メスティンの取っ手を伸ばした。
傍らの石の上に手早く食材と道具を準備する。
パスタ、あさりの缶詰、白アスパラの缶詰、塩、缶切り、水の入ったペットボトル。
これで全部だ。
メスティンの中にペットボトルから水を注ぐ。
やや浅めでいい。
パスタを茹でるなら本来はたっぷりのお湯で沸かすのが常道というのは知っている。
けれどとにかく手早く作りたいので、早く沸かしたかった。
山では湯を捨てる場所にも困る。
そのため、茹でつつ炒める位の方がいい。
水を入れたメスティンを火にかける。
数分するとコポコポと水面に泡が立ち始めた。
早い、いや、こんなものか。
標高が高いから沸点が低いんだ。
パスタを投入してしばし待つ。
この間に缶詰の蓋を両方とも開けておいた。
パスタがいい感じに茹で上がった。
ほっこりと白い湯気が立ち上る。
ここですぐにあさり、白アスパラ、塩をメスティンに放り込んだ。
ジュオッとメスティンがいい音を立てた。
本当はもっと凝った調理法が正式だろう。
ここではオリーブオイルも使っていない。
少量の白ワインで風味を引き出すこともしない。
彩りのためのパセリを添えたりもしていない。
だが山ではこれでいい。
自分が満足できる料理が出来れば十分なのだ。
「よし、完成」
ほら、あさりと白アスパラのパスタの出来上がりだ。
味付けは塩のみとシンプル極まりない。
それでもむしろそれが効果的なんじゃないか。
炒めた白アスパラの柔らかな匂いが鼻をくすぐった。
早速いただく。
うん、上出来だ。
炒めたあさりは程よい歯応えと貝類特有のコクがある。
塩だけなのが良かったようだ。
白アスパラは癖が無い。
あっさりというよりほぼ風味付け程度にしか味に影響していない。
けれど柔らかな歯ざわりが心地よい。
噛み切るとあっという間に切れてしまう。
全体が塩味でまとめられ、さっぱりと食べやすい。
パノラマ銀座の縦走で疲れた体を労るかのようだ。
パスタに巻き込むようにあさりと白アスパラも一緒に食べる。
味付けを強めにするなら岩塩を振った方が良さそうだ。
その方が味の輪郭がはっきりする。
とはいえ、これはこれで良し。
缶詰の汁もパスタに吸収させて味付けに一役買っている。
そういう意味ではスープパスタに近いのかもしれない。
あさりのエキスが体に染み込む。
白アスパラの淡白な味が胃に優しい。
うん、こういう山ご飯もいいな。
いつもは割とがっつりと作るけど。
食べ終えると程よい満腹感があった。
こんな高所でクッキングとは中々貴重な機会だ。
何故山で食べるご飯はいつもより美味しく感じるのだろう。
富士山の山小屋でカップラーメンを売っている。
一つ600円と場所柄、非常に高額なのだがそれでも相当売れるらしい。
登山でハイになっているからなのか。
それとも普段は見ない景色を見ながら食べる誘惑には勝てないからか。
きっと両方だろうな。
少なくとも今、僕はとても充実している。
北アルプスの山々を眺めながら満たされた食欲に感謝しているんだ。
心も丸くなった気がする。
いい気分だ。
非日常とはこういうことか。
岩に座って水を飲む。
バーナーやメスティンを片付けた。
ガチャガチャと音を立てながらそれらをザックに仕舞っていく。
急ぐ時間帯じゃないけど、そろそろ行こう。
今日は常念小屋に早めにチェックインしようか。
山でゆっくりした午後を過ごすのは中々いいものだから。
 




