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第十七話 パノラマ銀座

 山の朝は早い。

 日の出前から動き始めるのは普通だ。

 中にはまだ暗い内にヘッドライトを点けて行動開示する人もいる。

 僕も例外ではない。

 起床してそそくさと朝食を取り、テントを片付け始めた。

 若干時間はかかったが6時半には完了。

 いよいよ縦走ルートへと踏み出す。

 心が躍る。

 これから歩くパノラマ銀座は本当に楽しい縦走になるだろうから。

 登山靴の紐をきちんと締め、ザックを背負い直した。

 体調に不安は無い。

 高度による影響は特に無いようだ。

 燕岳を一瞥して南へと歩き始めた。


 北アルプスには数多くの山がある。

 その分だけルートも多い。

 そしてそれぞれのルートごとに難易度が違う。

 例えば最高難易度のルートはどこか。

 個人的には槍ヶ岳から南下して大キレットという極悪なナイフリッジを経て北穂高に向かうルートだと思う。

 距離はそこまでではないけど、大キレットの難易度が高い。

 一般には開放されておらず、通常の登山者は近寄らないバリエーションルートだ。


 "そういう場所行かなければ、北アルプスでもそこまで危なくはないよな"


 歩きながら思う。

 燕岳から大天井岳までの稜線歩きだ。

 花崗岩の白い小石とハイマツが足元に広がっている。

 高い木は無い。

 そのため眺望は最高だ。

 高度だけ別にすれば平地の河原を歩くのと大差は無い。

 そう、パノラマ銀座の醍醐味はここに凝縮されている。

 危険な箇所は少ないのに楽しく歩けるという点だ。

「最高だ」と思わず呟いてしまった。


 夏の早朝。

 太陽の陽射しは強い。

 だが高度のためか、そこまで暑くもない。

 むしろ爽やかな適温だ。

 ここには嫌な湿気も無い。

 風で湿気も飛ばされるのだろう。

 登山靴が乾いた小石を踏み締める。

 カランと乾いた軽い音がした。

 視線を遠くにやる。

 どこまでも見えそうな気がする。

 これから目指す大天井岳、その向こうには常念岳が稜線上で待ち構えていた。

 山頂付近は燕岳と似た構成なのは同じ山系に属しているからか。

 その斜め右には槍ヶ岳や奥穂高を代表とする穂高連峰の威容がそびえ立つ。

 昨日も見たけど早朝に見るとまた雰囲気が異なる。

 ああ、いいな、これ。

 僕の周囲には視線を遮る物は無い。

 ただ澄んだ山の空気だけが僕と山の間にある。

 本当にいい景色だ。


 稜線歩きにはテクニックは必要ない。

 ただひたすら前に前に歩けばいい。

 たまにちょっとした岩場はあるけど、これもなんということもない。

 多少のアップダウンもむしろ良いアクセントになる。

 こういう危険度が低く楽しいルートも登山にはある。

 けれども一般にはあまり知られていないのかな。

 登山をまったく知らない人と話すと大抵「でも山登りって怖いんでしょう」と言う。

 どうも山と遭難、滑落事故はセットでイメージされるらしい。


 "まあ無理はないか"


 歩きながら考えた。

 確かに山で酷い目に遭う人はいる。

 ニュースで「XX山で滑落事故」「XX岳で遭難」と痛ましい報道がされる通りだ。

 ただし大抵は理由がある。

 事故に遭うような無茶な登山をしているからだ。

 体力の低下が著しい高齢者が一人で高難易度のルートに行ってしまう。

 悪天候になるのが分かっているのに、冬山へ無謀な挑戦をしてしまう。

 酷い結果にならない方がおかしい。

 最近の富士山もそうだ。

 外国人が大挙して登ろうと押し寄せオーバーツーリズムになっている。

 ハーフパンツにサンダルで登るのは無茶であり無策過ぎる。

 あんな格好では夏の富士山でも寒いはずだ。

 8合目辺りで低体温症によって倒れても自業自得としか言えない。

 そうした山での事故ばかりがクローズアップされていく。

 大多数の登山者はきちんと対策して普通に降りてきているのにだ。

 まともな登山者がまともな計画を立てて登る。

 こういう無理のない登山なら大抵は安全に楽しめる。


 "印象だけが一人歩きしているのかも"


 僕は歩き続けている。

 標高は2700メートルくらいか。

 この山の世界にはごちゃごちゃしたものは無い。

 空と山だけが全てだ。

 雄大な北アルプスの絶景を贅沢に見ながら歩く。

 近くでハイマツの茂みが動いた。

 丸っこい小さな鳥がひょいと首を覗かせている。

 ライチョウだ。

 僕と一瞬目が合った。

 あっという間にハイマツの陰に隠れてしまった。

 僕は静かに通り過ぎる。

 ここは彼らの領域だ。

 出来る限り邪魔しないのがせめてもの礼儀だろう。


 "山では謙虚にしろと山岳部の先輩によく言われたな"


 別に人間関係に対してじゃない。

 自然に対して謙虚になれということだ。

 こちらがお邪魔しているのだからそこは大事なのだと口酸っぱく言われた。

 登山中に出たゴミは全部持ち帰るのも当然のマナーだ。

 この態度を忘れたらあっという間に山は汚れる。

 登山禁止という事態もあり得る。

 謙虚になることは結局は登山者自身を守ることになるのではないか。

 情けは人の為ならずと同じ――いや、違うか。

 まあいいや。


 ライチョウはもう見えない。

 動物と言えば、ここらではたまに猿を見ることがある。

 ハイマツの茂みに座り、こちらをじっと見ていたりする。

 人に慣れているのだろう。

 怖がる様子はない。

 上高地にも猿は頻繁に出現する。

 よく看板に「猿に餌をやらないでください」と書いてあるが、中にはあげてしまう観光客もいるらしい。

 駄目なんだよ、その行為は。

 猿が人の食べ物を奪ってしまうようになるから。

 あと木の実などより人間の食べ物の方が味が濃いため、癖になりやすいとは聞いたことがある。

 つまり自然の世界で生きていくのが難しくなるということだ。

 考えてみれば分かる。

 例えば人からもらったスナック菓子の後に木の皮を食べようと思うだろうか。

 相当味気ない代物だ。

 人間は可愛いからという理由だけで安易に餌をやる。

 けれど、結局その甘い考えは動物を苦しめることになる。

 食べ物が少なくなる冬には、猿は木の皮を剥いで餌にする。

 これが食べられなくなるとまさに死活問題だ。

 僕は別に動物愛護に興味は無い。

 けれど自分の行いで自然の摂理を曲げるような真似はしたくない。


 "まあ、そうだなあ"


 歩きながら上高地の方を見た。

 ここからだと斜面に遮られて見えないか。

 今日も上高地には多くの観光客が訪れているだろう。

 河童橋の辺りを散策して梓川の水の透明さに驚いているはずだ。

 それはいいことだと思う。

 古くからの高原リゾートである上高地の良さを知ってほしいと登山者の端くれとしては願う。

 だからこそ。


 "自分達がこうしたらどうなるかってことくらいは知っておくべきかなあ"


 野生動物に無闇に近づかない。

 餌をやらない。

 適切な距離を取り、なるべくそっとする。

 僕に出来ることはそれくらいだ。

 あとは同行する人がいれば控えめにマナーを教える程度かな。

 主張の強いナチュラリストになる気は毛頭なかった。


 今日の行程を頭の中で振り返る。

 とにかくまっすぐこの稜線を歩く。

 途中で大天井岳の山頂に登り、常念岳まで行く。

 今夜は小屋泊なのでテントを張る必要は無い。

 以上。

 とにかくシンプルだ。

 歩行距離も10キロ程度と大したことはない。

 もっと歩ける人なら常念岳の向こうの蝶ヶ岳――ここは上高地から直登できる――まで行けるだろう。

 昨日の燕岳の急登を思えば負荷は軽い。

 北アルプスの絶景を楽しみながら歩くエンジョイ登山だ。

 それでも6時間は歩く。

 まったく疲労がないと言えば嘘になる。

 昼休憩のタイミングはやはり大天井岳に着いた辺りか。

 恐らく10時過ぎ。

 昼ご飯には少し早いけど構わないよな、朝が早かったし。

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