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第十六話 北アルプスの女王

 無事に燕山荘まで辿り着いた。

 赤い屋根が可愛らしい外観の山小屋だ。

 山小屋というと普通小汚いというか、無骨な小屋が多い。

 けれど燕山荘は綺麗だ。

 木製の床はぴかぴかに磨かれている。

 ケーキも食べられる山小屋は恐らくここだけだろう。

 予約があっという間に埋まるのも頷ける。

 かくいう僕も今回ここには泊まらない。

 スタッフの方に話しかける。


「すいません、テント場の予約をしている松田といいます」


「お待ちしておりました。1日2000円となります」


 代わりにテント泊をするのだ。

 小屋の周辺の専用区域にテントを張って使用する。

 トイレもテント泊用が別に設けられている。

 ここで選択を迫られた。

 燕岳登頂を先にするか、まずはテントを張るべきか。

 現在時刻は午後2時前。

 早く燕岳へ登りたい気持ちはある。

 が、明るい内に今夜の寝る場所を整えたい。

 テント設営を優先することにした。


 さくさくとテントを設営し、ザックだけ燕山荘にデポしておく。

 もちろん貴重品だけは身につけている。

 燕岳山頂までの往復だけなので荷物はいらない。

 身軽になった体で小屋の外に出た。

 風が吹く。

 下界とは違った涼しさがある。

 花崗岩が削られた白亜の砂が山頂まで続いていた。

 ハイマツの濃い緑がその白の周囲を彩っている。

 絵画のような風景だ。

 けしてきつくない登りのため、穏やかな気分だった。

 合戦尾根の急登を乗り越えてきた登山者なら簡単だ。


 "北アルプスの女王への拝謁か"


 どこかでそんな表現を読んだ。

 畏敬と憧れを抱いて、皆がこの白い砂を踏み締める。

 ところどころに小さな花が咲いている。

 コマクサだ。

 淡いピンクの花弁は筒のような形状を取り、先端だけが外側に開いていた。

 こうした可愛らしい花が見られるのも燕岳のいいところだ。

 いい気分で登る。

 山頂が近づくにつれ、岩が剥き出しになってくる。

 触ると花崗岩のざらついた感触。

 これを乗り越える。

 斜度が緩いため簡単だ。

 この岩があるため、より山頂直下はアーティスティックな印象が強い。

 本当にお洒落な山だな。

 そう思っている内に山頂に辿り着く。

 周囲360度全て見渡せる。

 遮るものは何も無い。

 下に目をやる。

 高度差1000メートル以上はある山の裾野の端が見えた。

 あんな下から登ってきたのか。

 この高度感は癖になる。

 そのまま視線を水平に移した。

 北の方、一番手前に見える黒っぽい山は針ノ木岳か。

 その向こうに立山、鹿島槍ヶ岳などの北アルプス北部の山が連なっていた。

 同じ北アルプスでも南部と北部に大別される。

 北部の方がアクセスの問題からか、若干マイナーな気がするんだよな。

 その分登山者は少なめだ。

 静かな山行をしたいなら向いている。


 西側から南側は本当に息を飲むほど壮大な景色だ。

 黒部五郎岳、三俣蓮華岳などの秘境感満載の山々も良い。

 青空を背景にしたこれらの山々の姿はどこか孤高を感じる。

 しかし続く槍ヶ岳、そして穂高連峰の壮麗さは群を抜いている。

 独特な槍ヶ岳のシルエットはやはり目立つ。

 登山のシンボルと言っても過言ではないんじゃないか。

 北穂高、奥穂高、前穂高の豪快な連なりはどうだ。

 これが北アルプスだと言わんばかりの堂々たる姿だ。

 野球で言えば打線の中核、クリーンナップ。

 その奥に見える西穂高も奥行きを添えている。

 標高2909メートルと3000は切っているが、難しい山だ。

 小技も出来る渋い7番打者と言ったところか。


 "登ってきた甲斐があったな"


 岩の一つに腰掛けた。

 そうか。

 この景色だ。

 かつて僕が憧れていた山々の連なり。

 厳しさと優しさが同居する北アルプスの絶景。

 標高3000メートルの世界には人間のルールは通用しない。

 あくまで山が主役の世界だ。

 自らの足で登ってきた人間だけが触れていい世界だ。

 山はただそこにある。

 無慈悲な拒絶はしない。

 逆に優しい抱擁もしない。

 ただ厳然とそびえ立つだけ。

 登山者の方から歩み寄り、何とかして登るんだ。

 この高峰の連なりが形成する空間に触れるために。


 目を閉じる。

 山岳部のことを思う。

 小泉のことを考える。

 もう戻らないあの頃。

 戻れないあの頃。

 だけど、あの頃があったからこそ今の僕があるんじゃないか。

 目を開けた。

 再び視界に飛び込んできた山々の姿はどこまでも誇らしかった。


 その日の夕食は燕山荘で食べた。

 僕はカツカレーを選んだけど、他にもうどんなど色々ある。

 女性客の中には喫茶室でケーキセットを頼んだ人もいるのだろう。

 ワインもあるのは驚きだ。

 自炊の食材は明日以降の分だけしか持ってきていない。

 食べて歯を磨くともうやることが無い。

 というより単純に疲れた。

 夕日を浴びる燕岳をテント場から眺める。

 紅に染まった山頂を見ているうちに眠気が押し寄せてきた。

 早朝から動き続けてきた結果だ。

「寝よう」と呟きテントの中に撤退する。

 シュラフに潜り込んで目を閉じた。

 夜にかけて気温がぐんと下がる。

 夜中に寒さで目覚めなければいいけど。


† † †


 夢を見ていた。

 頭のどこかでこれは夢だなと気が付いている夢だ。

 夢というより過去の記憶だ。

 うっすらと覚えている、というか思い出すことをしなかった記憶の断片だろう。

 大学の部室に僕がいる。

 スチールの机の右隣の辺にいるのは小泉だ。

 季節は冬。

 ああ、そうか。

 大学2年の冬の日だった。

 部室で何となく二人で話していたんだっけ。

 夢の中で僕がポツリと言った。


「冬だね」


「そうだね」


 小泉が答える。

 白いセーターを着て青いジーンズを履いていた。

「冬休み何か予定ある?」と僕の方を見る。


「いや、特に何も」


「2週間もあるのに何も無いってことは無いんじゃない?」


「部活とバイトくらいはあるよ」


「ほら、ちゃんとあるじゃない」


 ふふ、と小泉は小さく笑った。

 でも次の瞬間、眉を寄せた。


「ううん、やっぱり違うな。冬休みを前にするならこういう時はクリスマスやお正月に予定があるかどうかが重要なのよね、普通は」


「ああ、なるほど。僕は無いかな」


 読んでいた登山雑誌から目を上げずに答えた。

 小泉が「無いんだ?」と聞いてきた。

「うん。そういう相手がいないから」とさらりと答えた。

 別に寂しいとも思わなかった。

 小泉も深くは突っ込まなかった。

「そうだよね。皆が皆、相手がいるわけじゃないもんね」と返す。

 フッと小さなため息が聞こえた。

 僕がちらりと見ると彼女は前髪を右手でいじっている。

 そのまま口を開いた。


「前に松田君に別れたって話したよね。あれから何となく次の相手見つける気にならなくって」


「うん」


「でもイベントデーになると、やっぱり誰か側にいないとさまにならない部分があるの。自分でも馬鹿だなって思うけど。彼氏持ちの友達がクリスマスの予定のこと話すとやっぱりちょっと寂しかったりするわけで」


「ああ、分からなくはないかな」


 世間ではそれが一般的という暗黙の了解みたいなやつか。

 特に女子の世界ではありそうだな。

 小泉がこういうことを話す時は黙って聞いてやることにしている。


「自分でも、あー何で私は相手がいないのかなーって考えたり落ち込むこともあるわけですよ。でもそもそもお互いに好きになるっていう条件満たさないと恋人なんてホイホイ作れないわけですよ。簡単じゃないんですよ」


「そうだね」


「なのでいないからって落ち込まなくてもいいよね~と私は自分に言い聞かせているんです」


「だろうね」


「ごめん、こんなの愚痴ですらないや。松田君に甘えてダラダラ喋ってるだけだ」


「いや、いい」


 短く相槌だけ打っておく。

 僕には分からないけど、小泉にも色々あるんだろう。

 恐らく彼女は真面目なのだ。

 彼氏彼女の関係を真剣に定義している。

 イベントを共に過ごす存在、程度に考えているならあっさり彼氏の一人や二人作れそうなのに。

 でもこういう場合にどう言えばいいのかな。

 よく分からない。

 とりあえず「小泉はそのままでもいいと思う」とだけ言った。

 何の気休めにもならないか、これじゃ。

 でも彼女は「ん、そっか。ありがとう」と言ってくれた。

 少し嬉しかった。


† † †


 夢はそこで終わった。

 目覚めると辺りはまだ暗い。

 夜明けはまだか、いや、もうすぐらしい。

 気配で分かる。

 東の空が僅かに白っぽい。

 4時20分頃かな。

 時計を見なくても大体分かる。

 ウィンドジャケットだけ羽織って外に出る。

 夏なのに朝の風に肌寒さを感じた。

 夜の名残りの涼気がジャケットの首元から忍び込んできた。

 思わずジャケットをかき寄せた。

 空は深い藍色だ。

 西から東にかけて薄くなっていくグラデーションが美しい。

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