第十一話 縦走しながら思うこと
林を抜けた。
目の前の坂を登り終える。
視界が一気に広がった。
陣馬山の山頂だ。
なだらかな丘のようになっている。
他の登山者もそこそこいた。
春のうららかな陽気が心地よい。
視界の中心に大きなモニュメントが見えた。
陣馬山のシンボルである白馬の像だ。
台座含めて3メートル超の高さかな。
抽象化された像なので馬にはなかなか見えないけれど。
"下手にリアルだったら子供が怖がるかな"
白馬の像を背景にして写真を撮っている人達もいる。
邪魔にならないように迂回して周りを見た。
二軒ほど茶店があった。
木製のテラスのような場所にテーブルと椅子がある。
うどんや蕎麦、飲み物などを購入してテラスで飲食できる。
携行食を忘れても最悪ここで買えばいいというわけだ。
もっとも若干高いけど。
いや、値段は問題にならないな。
何と言っても景色がいい。
開けた眺望だ。
近くには高尾山、相模湖。
そこから西に視線をやれば丹沢の山々が稜線を伸ばしている。
やや北側にそびえるのは八ヶ岳だ。
長野県と山梨県にまたがる巨大な山塊。
頂上付近はまだ白い。
雪が残っているらしい。
そして何よりも。
「わー、富士山綺麗ー」
「登ってきてよかったー」
横から他の登山者の声が聞こえた。
まったく同感だ。
丹沢の山々の向こうには富士山の姿が見えていた。
白くなだらかな山の輪郭は圧倒的な存在感がある。
やっぱり富士山はいいな。
見る分には最高だ。
登る対象としてはいまいち魅力を感じないけど、見る分にはいいよね。
陣馬山が人気の山なのも、富士山がよく見えるというのも頷ける。
理屈でなく「富士山はいい」としみじみ思う部分があるんだ。
穏やかな春の風が頬を撫でた。
富士山を横目に見ながらザックを下ろす。
空いたベンチに座り、ドリンクを飲んだ。
まだ11時前だ。
昼ご飯には早い。
ここで小休憩を取って縦走を開始するつもりだった。
2時間ほど歩けば景信山に着く予定だ。
昼ご飯はそこでいいだろう。
今は最低限のエネルギー補給だけにしておく。
今日の行動食はキャラメル。
それに塩せんべい。
行動食には糖分はもちろん必要だ。
けれど多少塩分も摂取する方がいい。
汗をかくと体内の塩分も逃げていってしまうからだ。
塩せんべいを選んだのはその理由から。
真夏になると塩分補給はもっと切実な問題になる。
熱中症をケアするような時期は積極的に塩タブレットなどを食べないとまずい。
この季節ならまだ大したことはない。
ただ今回の陣馬山〜高尾山の縦走は長丁場だ。
無視できる問題でもなかった。
口の中で塩せんべいがパリッと音を立てた。
さっぱりした塩味が舌に残る。
スポーツドリンクで後味を押し流した。
体の調子はいい。
ベンチから立ち上がり大きく伸びをする。
キャップをかぶり直した。
さあ、そろそろ行こう。
ここからが本番であり、今回の縦走の醍醐味だ。
陣馬山の標高の方が高尾山より高い。
そのためここから高尾山へ向かえばトータルでは下りになる。
けれどなだらかな下り坂が続いているわけじゃない。
尾根道なのだ。
ところどころ登ってその後でがくんと下って、また登って下ってという繰り返しだ。
そのため単に陣馬山と高尾山の標高差よりもずっと多く高低差分を歩くことになる。
更に垂直方向だけを考えてはいけない。
道は一直線ではないのだ。
陣馬山を出る前に地図を確認した。
最初は少し南寄りに東に歩く。
そこから逆に北寄りになる。
北寄りに向きが変わってから30分ほど歩くと堂所山が目前だ。
この手前で高尾山への分岐があるので、そちらを選ぶことになる。
"標識がしっかりしているから迷うことはないけど"
見通しの良い尾根歩きだ。
きちんと人の手が入った林は気持ちがいい。
明るい木漏れ日の中を歩いていく。
すれ違う人の中にはトレイルランの人もいる。
山道をランニングする人達だ。
格好が登山に比べてかなりの軽装のためすぐ分かる。
背中に張り付く小さなバッグ。
恐らく中身は財布、スマホ、交通系ICカードぐらいか。
飲み物はペットボトル一本のみ。
ローカットのトレイルラン用の靴を履き、軽快なスピードで山道を走っていく。
中には地上と大して変わらない速度の人もいるくらいだ。
すれ違いざまに「こんにちはー」という挨拶だけ残して一瞬で駆け抜ける。
凄いな、まったく。
いくらポピュラーな登山道とはいえ舗装されているわけじゃない。
石や木の根、微妙な傾斜はそこかしこにある。
なのに彼らは走っていくのだ。
"何のために?"
僕は歩く。
歩きながら考えてみる。
答えは出ない。
トレイルランにはそれだけの魅力があるからだろうとしか思いつかない。
アスファルトで舗装された道路を走るのとは違うのだろうか。
きっと違うのだろう。
自然の中の風景を走り抜けるのが魅力なのか。
足元が不安であっても、いや、それすらも魅力の一つなのかもしれない。
分からない。
分からないけれど、普通に考えれば登山だって理解できない趣味だろう。
"登山なんか危ないからやめたらって言われたな"
思い返すと親もいい顔はしなかった。
積極的な反対こそしなかったけれど、賛成はしていなかった。
こちらも子供ではない。
親の意見は無視して自分のやりたい部活に入った。
山か。
山で得た思い出は色々だ。
他の部活に入ればまた別の思い出も出来たとは思う。
だけどその仮定は意味が無い。
今の松田直人を形成している要素の一つに大学の山岳部がある。
もうその要素を他の要素に取り替えることはできない。
良かったとか悪かったとかそんな評価も意味が無い。
僕はこれでいい。
30歳、もうすぐ31歳か。
松田直人はこれでいい。
このままでいいとは言わないけど、この自分で目の前のことを片付けていく。
そのうちにまた変わることはあっても当面は今の自分で勝負する。
上手く言えないけどそういうことだ。
ああ、そうだ。
山をやる理由の一つに思考の整理があったな。
登山中に妙に頭がよく働く気がする。
自然の中で体を動かしているからか。
新鮮な空気が脳を活性化させていくような。
別に何か特別なことを考えるわけじゃない。
山を下りたらやりたいことでもいいし。
定期試験の勉強のスケジュールでもいい。
自分の人生の意味って何だろうという青臭いことを考えたこともあったっけ。
その時その時で頭に浮かんだとりとめもないことを。
登山靴で山の土を踏むたびに、勝手に思考が回り始めるんだ。
特に自分一人の登山の時がそうだった。
話す相手がいないから自然と内省的になるんだろう。
今もそうか。
僕の隣には誰もいない。
静かな尾根道だ。
鳥の声が微かに聞こえた。
木々の豊かな緑が風に揺れる。
葉が擦れる音が鳥の鳴き声に混じる。
五感が鋭敏になっていく。
"一人か"
そう、一人の登山だ。
その分だけ自分を見つめて研ぎ澄ませる。
足の動きがシャープになっていく。
奈良子峠の分岐を通過した。
ここで右手に折れれば奈良子尾根だ。
藤野駅にエスケープしたければここで降りる。
でもここはパス。
目的地はもっと先だから。
更に10分で明王峠にさしかかった。
ここも分岐になっている。
右に折れれば相模湖駅へのエスケープルート。
当然パス。
行こう。
先は長い。
4月の緑の尾根道を僕は歩いていく。




