第十話 小泉との思い出
登山口もコースもあの時とまったく同じだ。
登り始めの辺りは木々の密度が濃い。
日が中々当たらず若干肌寒さすら感じる。
右に曲がったところで急な斜面にさしかかった。
杉の木がそこかしこに乱立している。
その合間を縫うように僕は登る。
陣馬山は初心者向けの山だけど、ここだけはちょっときつい。
もっともトレーニングにはちょうどいいけれど。
"もう11年も前になるのか"
登りながら思い出す。
心は過去に飛んでいた。
† † †
「話がある」と言っていた割に小泉の口は重かった。
登山についてのことは言うけどそれだけ。
僕に話したいことって何だろう。
不思議に思ったけれど、こちらから聞くのも気が引けた。
本人が話したいなら勝手に話すだろう。
割り切って僕は登っていったんだっけ。
僕が前で小泉が後ろだったはずだ。
20分ほど登った時だったかな。
ようやく小泉が話を切り出したのは。
「私さ、別れたんだよね」
唐突に言われてびっくりした。
「そうなんだ? ああ、付き合っている人いたんだね」と無難に切り返す。
「うん」と小泉の声が僕の背中に届く。
その声はいつもの溌剌さを欠いていた。
「高校の同級生で、卒業して別々の大学に進学したの。別に遠距離じゃないよ? 都内の大学だから会おうと思えば簡単」
一度話し始めるとスムーズだった。
僕は黙って聞くことにした。
登りの途中だ。
相槌打つと息切れしそうだというのもあった。
「去年の夏頃からかなあ。会う頻度がだんだん減ってきて。連絡するのも今日はいいやってしなくなる日が増えて。それでもね、イベントデーは一緒に過ごせたんだ。クリスマスとかバレンタインとか」
問題はその後だったそうだ。
「でも駄目だった。だんだん会話が噛み合わなくなってきて。私が会いたくても向こうは都合が合わなくて。どっちが悪いとかじゃなかったけど......この人とこの先も交際していけるかって考えたら」
しんどかったらしい。
だから別れた。
嫌ではない。
だけどもう好きでもない。
かつては好きだった相手に今は好意を感じない。
そのこと自体が辛かった。
小泉は苦笑いを浮かべていた。
似合わない表情だなと思った。
「好きになることは出来ても好きな気持ちをキープするのはずっと難しいんだなって。彼と、ううん、もう前カレか、と別れた後で思うようになった」
語尾が小さくなる。
気付かないふりをしておいた。
しかしこちらも気詰まりだ。
とりあえず自分の得意分野に誘導する。
小泉に「小休憩しよう」と言って立ち止まった。
コースの端に寄り、ザックのポケットから飴を取り出した。
小泉に手渡す。
「食べとけば。行動食」
「うん。ごめん、松田くん。こんな話聞かされても困ると思ったけど」
「ああ、うん」
まじで困った。
僕はカウンセラーではない。
ただ、小泉がこういう話の相手として僕を選んだ理由は何となく分かった。
ほとんど話したことがないからだ。
自分の感情を吐き出したい時は誰にでもある。
誰かに聞いてほしい時はある。
だけど日常的に行動を共にする相手に話すべきだろうか。
聞いてもらえるとしても、その後が問題じゃないか?
相手は自分のヘビーなことを知った上でこちらに接してくる。
心のどこかに貸し借りを作ったまま友達関係でいられるかどうか。
――なるほど。だから僕なのか。
納得がいった。
ほとんど接点の無い僕であれば、この先も引きずることはないだろう。
そういうことか。
小泉がこういう計算を意識的にしていたかどうかまでは知らない。
ただ無意識に考えて話し相手を選んだ可能性はある。
別に腹は立たなかった。
同じ部活の仲間なのだ。
重い気持ちの一つくらいは分かちやってやるのが人情だろう。
とりあえず小泉の告白というか自己懺悔の時間は終わったのは確かだ。
良かった、この縦走の最後までこんな話が続かなくて。
何となく気になった点を聞いてみた。
「森下や桜井だとこういう話は出来ない?」
「話すだけなら出来るよ。でも面倒なの。女の子って他人の恋愛話に首を突っ込みたがる部分あるから。悪意はなくてもこっちが聞きたくない一言を言ったり。あの二人とは仲悪くなりたくないから、だから話したくない」
「あー、分からなくは、いや、分かってないけどそういうものなんだ」
「ん?」
「いや、僕、中高一貫の男子校だから。小泉の言ったことを理屈でそういうものかって飲み込んだけど。自然に理解できてるわけじゃない」
「ああ、言ってたよね。自己紹介の時に」
「うん。宏樹や三ッ瀬に言うのはもっと無理だよな」
「無理。穴水くんは彼女持ちだからややこしいことになるし。三ッ瀬くんはこういう話してもまったく分かってくれなさそう。前向きというより繊細さが無い感じ。いい人だけど」
ああ、三ッ瀬はそういうところあるよな。
僕らの中でも一番登山に染まっている。
あいつの思考の優先順位は山に置かれている。
「だからね」と小泉は右手で前髪をかきあげた。
セミロングの黒髪がふわりとなびく。
「松田くんが一番話しやすかったんだ。今まであんまり話したことなかったけど、この人なら信用できそうって思えたし。静かだから余計なことも言わなそうだなって」
「褒められているのかな」
「私的には高評価だよ。いや、私だけじゃないな。松田くん、皆に慕われてるよ。悠香やわかばも松田くんがいると何か安心するって言ってるし」
「嘘でしょ。僕、目立たない方だし」
謙遜ではない。
他の男子と比べれば明らかに特徴が無い。
穴水宏樹は抜群のリーダシップの持ち主。
三ッ瀬浩司は体力と山への飽くなき情熱という点で抜けている。
彼らに比べれば僕は平凡だ。
自嘲するでもなく自分自身が認めていた。
けれど小泉は。
「えぇと、何て言えばいいかな。松田くんは相手を否定することから入らないから。自分と違う意見の人でもまずは受け止めて、そこからきちんと話をする。だからこういう人がいないとグループとして駄目だろうっていうこと」
「そうかなあ」
「そうだよ。松田くん、柔らかい雰囲気あるからとげとげしくないし。顔も中性的で可愛いっていうのも関係するかな」
「最後のは余計だよ」
「ごめん、もしかして気にしてる?」
「もうちょい男らしい顔に生まれたかったとは思ってるね。ま、いいや。小泉に教えられて自己評価上がったから」
答えて再び登りに取りかかった。
あまり立ち止まっていると体が冷える。
それでも会話は続いていた。
「自己評価上がったんだ」
「うん。僕は自分が大したことない人間だと思っているからね。他人から褒められると嬉しい」
「ふふ、良かった。私の急なわがままに巻き込んで悪いなあと思っていたから」
いつしか小泉と並んでいた。
彼女の横顔が見える。
すっと通った鼻筋が綺麗な輪郭を描いていた。
美人の部類なんだろう。
自分の審美眼には自信がないけど、たぶん。
足元を僅かに滑らせた。
意識を山に切り替える。
「陣馬山はここの登りだけは急だよな」
「そうだね。神奈川方面の一ノ尾根や奈良子尾根の方が少し緩いかな?」
「その分距離は長いけど」
山岳部の山行とは違う登山だな。
二人で登るって悪くない。
特に僕には女の子の友達がいないから何だか新鮮だ。
あれ、もしかして。
「小泉が初めての女の子の友達ってことになる?」と呟いていた。
「えっ、そうなの? というか今までは? 同部活の同学年なんですけど?」
「いや、こう、お互いに話すことなかったからさ。顔と名前だけ知っている仕事仲間みたいなイメージだった」
「ええ......そっかあ。友達じゃなかったのかあ、私達」
「そうかも。だけどもし小泉さえ良かったら友達になってくれるかな。今日から改めてよろしく」
「お、おお。そうやって改めて挨拶されると照れるけど。もちろんいいよ。こちらこそよろしくね!」
にっこりと小泉夏穂は笑ってくれた。
僕も釣られて笑った。
心のどこかが温かくなった気がした。
† † †
――ずいぶんと遠い記憶なのに。
――鮮明に覚えているもんだ。
意識を現在へと切り替えた。
ザクリと土を踏む。
急な登りもあと少しだ。
振り返ると杉の根が重なって斜面に足がかりを作っていた。
これを登ってきたわけか。
調子は良好だ。
体が登山を思い出しつつある。
僕の思い出は今考えると何だかくすぐったい。
男子校育ちの僕にとって女の子は謎な存在だった。
その意味で小泉との会話は貴重な情報源だった。
異性がどういう考え方をするのか、ちょいちょい教えてくれたからだ。
彼女を通したからこそ、僕は異性を怖がらなくなった。
感謝している。
だけどもう、小泉はこの世にいない。
"あの頃は楽しかったね、小泉"
僕はまた登山を始めたんだ。
君と登った陣馬山〜高尾山の縦走をやっている。
あの時と同じく春だ。
新緑に包まれた山の情景はいいよね。
紅葉と同じくらい風情がある。
ほら、もうすぐこの急登も終わる。
ここからは明るい尾根道だ。
斜度も緩くなっている。
北側が開けているから眺めがいいんだ。
奥多摩の山も見えてくる。
気がつけば高度をだいぶ稼いでいる。
山頂までそう遠くないんじゃないか。
よし、一気に登ってしまおう。
陣馬山の山頂で休憩したら、いよいよ尾根沿いの縦走だ。




