第一話 最後の挨拶
時折思い出す言葉がある。
日常の中で埋もれていても、ふとした瞬間に思い出す言葉だ。
「大学最後の思い出に皆で冬の穂高登らない?」
涼やかに何でもないように彼女は言った。
大学卒業間際のある日の昼下がり。
この提案は実行されることは無かった。
仕方ない、各々事情もあったし急だったから。
僕も本気で受け取ってはいなかった。
まさか7年以上も経ってから真剣に向き合うことになるとはね。
† † †
人間が死と向き合う機会はどれくらいあるだろう。
生きているということが当たり前。
意識すらしていない。
けれど葬式というものは、否応なしに死を突きつけてくる。
濃い灰色の遺影を前に手を合わせる。
一礼してゆっくりと下がる。
この告別式の会場の空気と同じく、僕の気も重い。
肩もずっしりと重い。
自分の席に戻り、腰を下ろす。
左手首の数珠がしゃらりと鳴った。
はぁ、と思わず小さなため息が漏れた。
「お疲れ」
左隣から小さく声がかけられた。
視線をやる。
メタルフレームの眼鏡越しに怜悧な目が僕を捉えている。
彼の名は穴水宏樹。
僕の卒業校である明慶大学山岳部の同期だ。
この告別式の主役、つまり亡くなった人も同期の一人。
小泉夏穂という名を口の中で呟く。
もう二度と会えない彼女の名前。
「うん」
宏樹にだけ聞こえる小声で答えた。
何かが僕の中で終わった。
そんな気がした。
そのままじっと座り、式の進行を見届ける。
薄ぼんやりとした照明の下、厳かなBGMが静かに流れている。
ご焼香による線香の煙がうっすらと白く漂っていた。
嫌な匂いではない。
けれどもこの厳粛さが心に刺さる。
死という非日常がまさに今、目の前にある。
"きつい"
僕がそう思うのは甘えだろうな。
所詮僕は他人に過ぎないんだから。
残されたご家族に比べたら、いや、比べることすらおこがましい。
だからきついという言葉は胸の内に飲み込んだ。
顔を上げた。
喪主である彼女の父親が挨拶をしている。
その挨拶を聞きながら、視線を彼女の遺影に合わせた。
フレームの中の彼女は朗らかな笑顔だった。
目に焼き付けるようにして、僕はそっと瞼を閉じた。
告別式は終わった。
これからお通夜と聞いている。
家族だけで最後の夜を過ごすので、僕らはこれでおしまいだ。
宏樹が僕に声をかけた。
「帰る前に顔見ていくか」
納棺された故人との最後の面会だ。
やっておくべきだとは思ったが、僕は首を横に振った。
「そうか」とだけ宏樹は答えた。
何も言わないのは僕の気持ちを汲んでくれたからだろうか。
背後の二人が立つ。
僕と宏樹の隣を通り過ぎながら、ちらりとこちらを見た。
「それではお二人の分も代わりに。これが最後のお別れですから」
落ち着いた声が耳に届く。
視界の端で色素の薄い茶色の髪が揺れた。
声の主、森下悠香を見送った。
「あとで皆でお茶でもしようよ。夏穂の思い出話しながらさ」
もう一人の声は沈んでいる。
小柄な体が森下の後を追った。
彼女の名前は桜井わかば。
二人ともやはり山岳部の同期である。
「そうだな」と宏樹が答える隣で僕は目だけで同意した。
僕らの代は全部で六人。
僕、松田直人。
穴水宏樹
小泉夏穂。
森下悠香。
桜井わかば。
あと一人、三ッ瀬浩司はこの場にいない。
恐らくヨーロッパのどこかの冬山だろう。
彼は大学卒業後にプロのクライマーになった。
この時期は冬の岸壁に取り付いているだろう。
そうでなければガイドとして他のクライマーの登攀を助けているはずだ。
なのでこの告別式に参加できないのも仕方ない。
森下と桜井が棺の方へ歩いていった。
最後の挨拶くらいしなさい、とあの世で小泉は僕を怒るだろうか。
いや、そこまで怒らないだろう。
生きている時の顔を覚えておこうと思って、とでも答えておこう。
別に嘘じゃない。
告別式で疲れて立つ気力が無いという理由の方が大きいが。
だけどこのまま座っているわけにもいかない。
そろそろ解散だ。
「二人が戻ってきたら帰ろう」と宏樹に言った時。
「あの、もしかして山岳部の同期の方でしょうか」
かけられた声に振り向いた。
初老の夫婦だ。
見覚えが無いーーわけではない。
先ほど喪主として挨拶されていた、つまりは小泉夏穂のご両親だった。
「あ、はい」と反射的に答えた後で間抜けな返事だと思った。
幸運なことに相手が気にした様子は無い。
「やっぱり。この度はわざわざご足労いただきありがとうございます」
「いえ、とんでもありません。ご愁傷さまです」
宏樹が深々とお辞儀を返す。
僕も彼に倣った。
母親の顔をちらりと伺う。
すっきりした頬の線が夏穂に似ていた。
父親がおずおずと口を開いた。
「実は山岳部の方にお渡ししたいものがありまして」
「渡したいもの?」
「はい。この手帳なんですが」
怪訝そうな宏樹に父親が話しかける。
右手には手帳が一冊。
赤い革表紙の手帳だ。
見覚えがあるなと思った時には種明かしされた。
「あの子が山岳部にいた時に使っていたものです。登った山の記録などが書かれていました。あの子の遺品の一つなのですが」
父親は言葉を切った。
故人が残した物となれば、僕らがもらうわけにはいかないんじゃないのか。
けれどその無言の問いにすぐにカウンターが入った。
「夏穂の遺言です。山岳部の方に渡してほしいと言い残していました。たぶん山の思い出を共有した人に読んでほしかったのだと思います......」
語尾が涙混じりになっていた。
そうか。
彼女が病床でそんなことを言ったのか。
宏樹を目で制して、僕は手帳を受け取った。
シンプルな作りの手帳だ。
刻んだ歳月がページを微かに色褪せさせている。
「よろしいのですか」と念を押す。
「はい。あの子の思い通りにさせてやりたいので。お願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
もう一度頭を下げた。
不意に涙が零れそうになり、慌てて瞬きで止める。
小泉。
早すぎるよ、30歳で人生終えるなんて。
手の中の手帳は何も答えてくれない。