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短編 51 そらがけ 前編

作者: にょこっち


 うん、言いたいことは分かる。短編なのに前編だもんね。だって思ったよりも長くなったんだもん!


 終わらない……終わらないよぉ……と書き続けた私の苦悩を知るが良い!


 今回だけで一万八千オーバーだ!


 状況説明だけでそれだ! アホかー!




 かつて空は自由だった。





 五月の連休明け。公立の高校『大徳寺高等学校』の正門前に一人の少女が立っていた。眉毛が太くキリリとした濃ゆい顔の少女である。


「遂に来たわ。この大徳寺高校へと!」


 朝の時間。校内からは部活に勤しむ生徒たちの声が響く。そして少女は手を伸ばした。


「なんで正門が閉まってるのー!?」


 正門はきっちりと閉まっていた。それを揺らして少女は嘆く。自身の身長を遥かに越える巨大な門扉はびくともしなかった。


 別に遅刻というわけでもない。


 公立大徳寺高等学校はそもそもが全寮制の学校である。基本的に生徒は全て校内にある寮から学校へと通う。


 なので正門が開くのは大きな行事のあるときか、客人が来るときのみとなる。生徒の逃亡を防ぐ、そんな意味もあって、ここ大徳寺高等学校の正門は閉まっているのが常である。


「私はここの生徒なんですけどー!」


 少女……大空ひかるは門の鉄柵を掴んで叫んでいた。


 ほどなく騒ぎを聞き付けた警備員に取り押さえられる事になるが彼女は真実ここの生徒である。


 今日が初登校ではあるのだが。




 警備員に取り押さえられ職員室へと連行される事になった大空ひかる。職員室には彼女を待ち受ける者が居た。


 担任である。


 この学校の新入生として来る筈だった大空ひかるの担任である。


「……大空ひかるさんね?」


「そうです! そうですけど、なんで私は縛られているのですか! 私が田舎者だからってこんな仕打ちをするんですか!? この都会人共め!」


 大空ひかるは縛られた挙げ句、床に転がされていた。


「……なんで縛ったの?」


「暴れるので仕方無く」


 学校の警備員は床で暴れる芋虫を前にしても冷静だった。


 大徳寺高校名物『鉄面皮』


 どんな悪ガキも決して外には逃がさない。パンチラにも無反応。かといって男色でもないプロの警備員。


 この人がいるから大徳寺高校は都心という立地でありながら『全寮制』という無茶を実現させていた。


「むきー! これが都会の洗礼だとでも言うのかおらー! 田舎もん、舐めんでねっぺよ!」


 縄で芋虫にされた大空ひかるはいきり立っていた。


「大空ひかるさん。怪我の具合は……良いみたいね」


 担任はそれを見下ろし少し引いていた。


「全快バリバリだっぺよ! 田舎もん舐めんでねっぺよ!」


「……では、私には仕事がありますので」


 警備員『鉄面皮』はそう言うなり職員室から去っていった。


 大空ひかる。彼女は高校受験でこの大徳寺高校を受け、そして合格した。しかし大空ひかるは都会の高校に合格した喜びのあまり実家の畑に頭から突っ込み全治三ヶ月の重傷を負ったのだ。それが大体三月の中旬である。


「なんで全治三ヶ月の重傷が一月半で治るのかしら」


 担任は芋虫の縄をほどいてひかるの体を確認した。怪我は無い。痛がる様子もない。入学式の前に送られてきた病院からの資料では確かに重傷だったのだ。


「怪我をしたらご飯を食べて、よく寝るとすぐに治るのです」


 縄を解かれたひかるはケロリとしていた。


『これが田舎者の強さ……恐ろしい娘! ひかるちゃん!』


 と、担任の教師は驚愕したが黙っていた。口に出したのは別の事である。


「大空さんの荷物は今日の夕方に届くとの事よ。だから寮の案内も授業が終わってからになるわ」


「はい! あ、早く部活に入りたいんですけど!」


「……先生、まずは学校に慣れてからでいいと思うの」


 あまりにも元気なひかるの様子に担任は少し引いた。全治三ヶ月の大怪我を一月余りで治す野生児である。ただでさえこの担任は自分のクラスの問題児に頭を悩ませているのだ。


『今日もブランデー……ボトルでいっちゃおうかしら』


 そんな事をついつい考えてしまう。ここは全寮制なので教師も希望すれば寮で暮らすことが可能である。勿論生徒とは別の建物であるが。


 都心で部屋を借りるよりは格安で住めるとしてここの教師の大半は寮で暮らしている。そして教師の寮には何故かバーが併設されていた。


 この担任はそこの常連だった。


「私はここの『そらがけ部』に入りたくて受験したんですよ!? 折角合格したのに病院で一月も無駄にしてしまうなんて……」


 全ては合格した喜びのなせる業。それだけひかるはこの高校の『そらがけ部』に入りたかったのだ。


『合格した喜びのあまり畑に頭から飛び込んで全身複雑骨折……この子アホの娘ね』


 担任はとりあえず笑顔を浮かべた。既にいる問題児と比べても、どっこい。この生徒からはそんな気配がぷんぷんである。教師の仕事は心の棚を作ること。とりあえず棚に乗せておくことにした。今日もきっとお酒が美味しく感じるだろう。大人とはそういうものだ。


「じゃあ教室に案内するわね」


「はい!」


 こうして大空ひかるは他の入学生とは一月遅れてこの『大徳寺高校』に入学する運びとなった。


 この高校はそこまで偏差値の高い高校ではないが、さりとて馬鹿にはキツい学校ではある。


 全寮制ということで逃げ場がないぶん脱落者は基本的に出ない。担任はかなり心配になったが……やはり心の棚に乗せておくことにした。そのときはそのときであると。




 この日は五月の連休明け初日である。生徒達の大半は実家に帰る事もなく学校内で部活に勤しんだり校内の探検したりと折角の連休をわりと寂しく潰していた。


 全寮制の学校に来たのに一月で実家に帰るとかあり得ない。


 それが学校と、この学校に子供を送り込んだ親達の総意であった。


 元よりこの学校を選んだ生徒ならばそこまでこの学校からの脱出を熱望するアホも居ない。


 この学校が『全寮制』だと分かった上でみんな受験をしているのだ。


 この大徳寺高校は部活が盛んな学校で複数の部活において、それなりの結果を残している強豪でもある。


 だがどこにでも異物はいるものである。





 それは朝のホームルームの時間。担任と大空ひかるが教室に入ってすぐの事だった。


「何故だ! 何故俺達はこんな檻の中で縛られなければならぬのだ! 同志よ! 君達ならば分かるだろう!」


 そんな悲痛な叫びが教室に木霊した。ホームルームの時間である。一人の男子生徒が教壇に立ち熱弁を振るっている。男子生徒は至って真面目な顔をしているが着席している他の生徒たちは教壇の男子生徒を完全に無視である。


 友達と話をしているもの。何かの予習をしているもの。本を読むもの。教室にいる誰もが教壇を見ようともしていない。

 

「くそっ! お前らも外に行ってエロ本を買いたいだろうが! エロエロなビィディオゥも見たいんだろぅ? ほら、正直に言ってごらーん? エロ本欲しくないですかっ!」


 男子生徒は優しげな声のあと、いきなり語気を強めて問いかけた。大半の生徒は笑いを堪えるのに必死である。笑ってはいけない。反応してはいけない。そんな不思議なルールがこの教室には生まれていた。


「はい、肥田野君。君はエロ本買える年齢でもないでしょ! そしてなんでビデオをそんな風に言うの? あとみんなを悪の道に引きずり込まない!」


 教室内のあまりにも異常な光景にさしもの田舎娘、大空ひかるもポカンとするばかり。しかし担任は慣れていた。何故ならこいつこそが担任の頭を悩ます問題児『その1』なのだから。


 担任はとりあえず突っ込みを入れることを覚えた。この男子生徒は勢いを利用するのが抜群に上手い。だから無理矢理にでも自分の流れにしなければ如何に教師とはいえ簡単に丸め込まれてしまうのだ。こいつのせいで担任は毎日バーテンダーに愚痴る事になっていた。


「ぬ! 今日はお早いお着きですね。先生殿。今日もパンストが素敵です」


 教壇の男子生徒、担任に肥田野と呼ばれた生徒は何故か担任の前に進み出ると直前で跪き、拝み出した。


「肥田野君! 先生を拝まないの!」


 担任もこれにはたじろいだ。


「エロス! 女教師というエロス! 連休中はライブにも行けなかったんです! せめて先生殿のエロスを浴びなければ私はきっと死んでしまいます!」


『頼む。どうかそのまま死んでくれ』


 教室にいる他の生徒達の思念は肥田野君には届かない。彼が見ているのは女教師のパンストのみである。


「どうか! どうかその素敵なおみ足でわたくしめを踏んで下さい!」


 拝みからの土下座。頭を床にすり付けての懇願である。その流れはあまりにも美しく無駄がなかった。


「…………みんなには以前話していたと思いますが……こっちの生徒。入学前に怪我をして入院してましたが先日退院したそうなので今日からこの学校で一緒に頑張る事になりました。みんなの仲間になります。では大空さん、自己紹介を」


 担任は土下座する男子生徒を無視する事にした。


「はい! 大空ひかるです! ちょっと前まで骨折で入院してました! もう元気です!」


 田舎娘の大空ひかるも土下座する男子生徒を無視した。細かいことは気にしない。それが田舎の鉄則である。


 担任のあとに続き、元気はつらつと自己紹介する大空ひかるの様子にクラスの面々は嫌な予感がビンビンである。


『あー……こいつもひょっとして……』


 そんな思いがひしひしと湧いてくる。教室の生徒達は一斉に担任へと目を向けた。


 ……プイッ!


 担任はその視線に耐えられず顔を背けた。足元には依然土下座する男子生徒。


 カオスな教室である。


「えっと……」


「大丈夫よ! 肥田野君よりはきっとまともよ!」


「そうだ! きっとまともだ!」


「肥田野と離せ! 絶対に接触させちゃならねぇ!」


「どんな化学反応が起きるか分からねぇよ! 女子! 頼むぞ!」


「男子は肥田野君を抑えてよ!」


「無理だよ!? だって肥田野だよ!?」


『都会ってノリが違うっぺなー』


 大空ひかるはそう感じながらクラスの騒乱をただぼんやりと眺めていた。


「ふむ。先生殿……伝線しておりますな」


「どこ見てるのよぉ!」


 結局肥田野君は半べその先生に蹴られる事になった。肥田野君は恰幅のよいデブ。多少の蹴りではご褒美にしかならない。


 半べその担任による朝のホームルームはその後、恙無く進んでいった。蹴られた肥田野君も満足したのか大人しく席に座って……まるで普通の生徒のようであった。


 大空ひかるはそんなことを気にもしない。何故なら彼女の心を占めるのは『そらがけ部』ただそれだけだったのだから。


 そして連休明けの授業が始まった。まずはどの先生も大空ひかると自己紹介をしてから授業に入っていった。


 まだ入学したばかりでろくに授業も進んでいない時期である。授業がいきなり始まっても特に問題は起きなかった。大空ひかるはアホの娘だが、勉強は大丈夫なアホの娘だったのだ。


 クラスメートはそれを確認してものすごく微妙な空気に包まれることになった。教師も同じ空気を出していた。大空ひかるはそんな空気に気付かない。


 朝のホームルームで大騒ぎした肥田野君だが、その後の授業では至って真面目に授業を受けていた。


 こいつは基本的に真面目なのだ。でも問題児で間違いなし。朝の騒ぎでそれは証明されている。


 これで授業妨害を行ったり勉強に着いてこれない、というのであればクラスメートは容赦なく彼を糾弾しただろう。


 でも肥田野君は出来るデブだったのだ。無駄に空気の読める問題児だったのである。


 クラスの女子で彼に何かをされた者はいない。今朝半べそをかいていた担任も彼からセクハラを受けたことは一度たりともない。


 何度も蹴りを入れてその度に彼から感謝される事はあれど。


 入学したばかりの時に大問題を起こした肥田野君ではあるが、クラスメートからの評価はそこまでド底辺というわけでもないのだ。


 だからこそ悩ましい。


 お前、本当に……お前。


 そんな感じである。


 授業では極めて普通。この新たなメンバー『大空ひかる』も似たようなアレなのか? なんでこの教室には二人もこんなのがいるの?


 そんな空気が教室に立ち込める。


 そして授業は重苦しい空気のまま続いていき、やがて昼となった。


 ここは全寮制の学校。なので学生も教師もお昼はみんなで食堂に集まりご飯を食べるのが普通である。


 大空ひかるもクラスメートに連れられて一緒に食堂でご飯を食べることになった。


 校内の食堂は主にお昼ご飯を。


 朝と夕飯は寮の近くにある食堂でご飯を食べる。


『なんかすげー所に来たっぺなー』


 クラスの女子から説明を受けたひかるはそんな風に思った。


 そして午後の授業も特に問題は起きずに進んでいくことになった。


 何故か午後最初の授業で肥田野君の顔に真っ赤な紅葉が浮いていたが、誰もそれに突っ込むことはなかった。


 クラスの女子の一人が真っ赤な顔をしていて、周りの女子が労る様子を見せていたのだが……ひかるはそんな事に気付きもしない。


 彼女の心は逸る一方だったのだから。


 午後の授業が終われば部活の時間である。


 幼き頃に見たアレを、ようやく自分も体験することが出来る。


 彼女はその為にこの学校を受験した。田舎ではどの学校にもその施設がない。都会の学校、それもかなりの強豪校であるこの大徳寺高校ならばと大空ひかるは一念発起して勉学に勤しんだのだ。


 なんと足掛け六年の大事業である。アホの娘ひかる。努力の娘でもあったのだ。


 そのアホの娘が人生の大半を掛けてまで体験したいと思っていたもの。


「大空さんは何か部活とか考えてるの?」


 その日の放課後。帰りのホームルームの時間である。担任が来るまでのアンニュイでどこか疲れた空気の流れる教室で、ひかるはクラスメートから質問されていた。

 

「私はこの学校のそらがけ部に入るために頑張ってきたの!」


 この大徳寺高校は全寮制ということも有名だが部活が強い事でも全国的に有名な学校である。


 だから部活目当てで入学するものも多い。それは全くおかしくない事なのだ。


「……え、そ、そら部なの?」


 クラスメートの女子は青ざめた。今日1日大空ひかるを密かに観察していたこの女子は気付いていた。


『肥田野君よりはずっとマシ。でも奴と掛け合わせたら絶対にダメな人間だ』と。


 そら部自体は何の問題もない。むしろ学校側もかなり力を入れている真面目な部活である。


 でも、だからこそ、何故そこに来るの!?


 とクラスメートの代表みたいな立ち位置にある女子は悩み、苦しんだ。根が真面目な彼女をしてこの問題は手に余るのだ。


 何故ならば。


「大空さんは『そらがけ』に興味があるのか?」


 空気の読めるデブ。肥田野君、いきなりの登場である。この唐突なる割り込みにクラスの空気が凍り付いた。


「うん! 絶対にここの『そらがけ部』に入って空を跳ぶの! 都会にしかまともな設備が無いし、部活なら格安で靴も手に入るって聞いたんだけど、あってるよね?」


 クラスの空気は凍り付いたのだが、やはりこのアホの娘ひかるはそれに気付いていない。空気が読める肥田野君はクラスの雰囲気を気付いているが無視しているだけである。


 彼は本来真面目な性格で面倒見が割と良い。だからこそ困るのだ。


「まぁ学割でもそれなりに掛かるっちゃ掛かるかな。先輩達のお下がりなら確かに格安というか、ただで貰えたりもするだろうが……性能は高くないぞ? 型も古いし」


『お前は誰だ?』


 クラスの雰囲気がまたしても変わりつつあった。エロスと二次元に熱い男。それが肥田野君である。それ以外は至って真面目。むしろ寡黙。そんな肥田野君がここまで会話を続けるのはかなり珍しい光景だった。


「空を跳べるならそれで十分だよ! はー……早く部活に入りたいなぁ」


「空を飛ぶ……か」


 うっとりしているひかるの顔を見て、肥田野君はなんとも言えない顔をした。その顔には、いつもの彼が決して見せない色が浮かんでいるように見えた。


「ひ、肥田野君? お、大空さんに何を企んでいるの?」


 なのでいつの間にかクラス代表にされている女子が恐る恐る聞くことになった。


 どうしてもこの肥田野君には入学したばかりの自己紹介でやらかした件でのイメージが強くこびりついている。


 クラス代表の女子が感じているのは『恐怖』である。


 エロスと二次元に熱い肥田野君は実はクラスの全員から『恐怖』を抱かれていた。


「……一応俺も『そら部』に入っているから多少は役に立てるかな、と思っただけだ。それにしても随分と顔色が悪いな。保健室に連れていこうか?」


「ふぇ? …………ええええ!?」


 肥田野君に心配された女子の脳裏では保健室で押し倒される自分の姿がありありと浮かんでいた。勿論押し倒すのは肥田野君である。


 かなりの肉感男子である肥田野君に押し潰されて自分は……自分は……そんなだめぇぇぇ。


 彼女の妄想は止まらない。止まらないが助けは来た。


「はーい。みんなー。揃ってる?」

 

 帰りのホームルームが担任の到着によって始まったのだ。


 肥田野君も自分の席に戻り、妄想女子はとりあえず冷静になる時間が与えられる事になる。


 クラス代表の女子。青春の真っ只中にいる彼女もまた、エッチな事に興味のある普通の女の子なのだ。




「では今日の連絡はここまで。大空さんはこのあと寮の説明があるから一緒に来るように」


「え!? ぶ、部活の見学とかは!?」


「まずは生活の拠点を整えてから。部活は逃げません。今日は荷物も届くし知らないといけないことは沢山ありますからね」


「そんなぁ」


 そんなやり取りがホームルームの終了間際に行われた。


 妄想女子はクラスの女子が急いで保健室に連れていき、肥田野君は一人教室に取り残される事になった。


 椅子に座ったまま何かを考え込む彼の様子にクラスの面々は少し違和感を感じたが早々に教室をあとにした。


 そして肝心のひかるはといえば。


「ここが女子寮です」


 担任に連れられて校内にある寮へと来ていた。


 かつては校舎として使われていた建物を改修したのが女子寮である。少子高齢化による波はこんなところにも押し寄せていた。


 大徳寺高校の前身は小中校の一貫校である。大学も付属していたが子供が減少した為に高校一本運営へと変化した。元は私学でもあったのだがこれも時代の波に呑まれて公立へと変わらざるを得なくなったのである。


 その為、この学校の施設は何かと豪華なものが揃っている。


 それは勿論寮の設備にも及ぶ。高校の寮としては破格の一人部屋、しかも各部屋にはシャワー、トイレ付きである。


 机とベットも完備されたホテルのような寮。それがこの大徳寺高校が全寮制とはいえ根強い人気を誇る理由でもあったのだ。


「ほぇ~」


 担任から色々と説明を受けて部屋に案内されたひかるは自分の部屋で呆けていた。


 実家の自分の部屋よりも広くて快適。


『これが都会だっぺか~』


 今さらながらこの学校の凄さにひかるは驚いていた。田舎で暮らしていたひかるは当然ながらホテルとは馴染みがない。高校受験はオンライン試験だったので自分の中学から受けたのだ。


『都会……ぱねぇっぺよ』


 まるで異世界に迷い込んだかのような感覚がひかるを襲う。ここは本当に自分のいた世界と繋がっているのか?


 珍しくひかるが思考の海に入ろうとしたところでドアがノックされた。


「大空さーん。今大丈夫ー?」


「ほぇ? あ、うん!」


「荷物が届いたってー」


「はーい!」


 結局ひかるはその日、ドタバタと荷物整理や何やらで忙しく過ごすことになった。



 そして夜。少し視点が変わって教師寮での一幕である。


「なんで私ばっかり問題児に当たるのよぉ」


「……」


「今日なんて新しいストッキングも渡されたのよ!? 購買で売ってる中で一番良いやつ! いつも使ってるのは一番安いやつってバレてるわよ……絶対にバレてるよぉぉぉ」


「……」


 今日も教師寮のバーには寡黙なバーテンダーに愚痴を溢すこの人の姿があった。この学校は全寮制ということで購買部が異常な程に充実している。


 当然ながら下着の類いも扱っている。が、エロ本の類いは置いてない。そういうものである。


 男子も理由があれば女性ものの下着を買うことは可能である。購買を取り仕切るドン『茜母ちゃん』を説得出来ればの話になるが。


 肥田野君はどうやら説得が出来た模様である。この学校の真なる支配者として恐れられる茜母ちゃんに嘘は通じない。


 だからこそ担任は恥ずかしくて酒に溺れるしかないのだ。


「男子生徒から新品のストッキングをプレゼントされる……しかもその理由が伝線してたから……女として終わってるのよぉぉぉぉぉ!」


 加えて使っていたものよりもハイグレードな品を進呈である。お酒を飲むピッチが全開になるのも、やむ無しである。


 担任は女として大ダメージを受けていた。茜母ちゃんから一言頂いたのも傷を深くした要因だろう。


『あんた……まだ若いからって油断してるんじゃないよ?』


 みんなの母ちゃんはそれだけを担任に言って去っていった。


「うううぅぅぅ……肥田野君のばかぁ……あれでスケベでさえなければ良い子なのにぃぃぃぃ」


「……」


 バーテンはグラスにそっと酒を注いだ。高校生ならば性欲に揉まれるのも仕方無い。だが、先生というものはその『当たり前』をなんとかしなければならない難儀な職業なのだ。


 今宵も担任は一人で飲んで一人で愚痴を溢しまくってボトルを一本開けた。そして夜が更ける前に確かな足取りで自室へと帰っていった。


 担任、うわばみである。


 ここは一応学校ということで万が一にもお酒によるトラブルは起こせない事になっている。その為のバーであり、バーテンダーなのだ。


「……」


 今宵も寡黙なバーテンは一人グラスを拭いている。


 彼が閉店の看板を出すまでがこの学校の1日である。





 そして次の日。



「ようこそ『そら部』へ!」


 時間は一気に進んで放課後である。そして部活の時間である。


「はい! 大空ひかるです! そらがけしたくてたまりません! 跳べますか!」


 ひかるはこの日早速、この学校の『そらがけ部』を訪ねていた。最早彼女を止めるものは存在しない。元気娘がフルスロットルである。


「え、いや、いきなりは流石に……」


「まずは見学とか……」


 元気すぎるひかるに『そら部』の部員達もタジタジである。


 放課後ということもあり、若干疲れを見せる部員もいるなかで、ひかるの元気な姿はとにかく目立った。


 ひかるが今居るのは校内にある体育館である。放課後である現在、体育館の半分をこの『そら部』が占めている。


 ここ大徳寺高校には3つの体育館があり、この『そら部』がそのひとつを半分独占していた。


 体育館の床にはマットが敷かれ、その真上、空中にはサーキットのような光の道が浮かび上がる。


 そらがけ。


 それは『空を駆けるスポーツ』なのだ。


 特殊な力場の上をこれまた特殊な靴で駆けていく。それが『そらがけ』である。


「ところで……これ、なんですか?」


 ひかるは体育館の中空に浮かぶ光の道、通称『フォトン回廊』を指差した。それはパッと見、陸上トラックと酷似していた。広い体育館の半分を埋める光の陸上トラックである。光の道がある空中はひかるの胸ぐらいの高さ。


 空中にあることを除けば、まんま陸上トラックそのものである。いくつもレーンに別れていてしかも楕円の形である。


 ひかるの知る『そらがけ』はこれではない。彼女の『そらがけ』にこんなものは存在しないのだ。


「……ん? 何って……そらがけのレーンだよ?」


「……レーン? そらがけですよね?」


「うん。だからそらがけだよ?」


 噛み合うようで噛み合わない。そんな会話が光の道の前でなされていた。部員とひかるの双方が頭を傾げる不思議な状況である。


 そこにまたしても現れたのが空気の読めるデブ、肥田野君である。今日は朝からずっと静かだった肥田野君である。あまりにも静かだったのでひかるの記憶には欠片も残っていないのだ。


「その子の言っている『そらがけ』は多分最初の頃の『そらがけ』だ。今のこれは……ただの空中スピードスケートだからな」


 体育館にのっそりと現れた肥田野君は普通に制服であった。部員とひかるは当然ジャージである。


 そのやる気のない服装に部員達の眼には怒りが宿る。


「……え? ど、どういうことなの?」


 困惑したのはひかるである。チャーハンを頼んだらピッツァマルゲリータが出てきた、そんな感じである。肥田野君に困惑したのではなく『そらがけ』ではない発言に困惑したのだ。


「空をとぶ。君がそう言っていた『そらがけ』は危険すぎるということで大昔に消されたんだ。今のこれは金儲けの為に作られた全く別のものだよ」


 肥田野君は体育館に浮かぶ光の道を眺めて寂しそうに言った。その声音には深い感情がこもっていたのだが、この場にいる誰もそれに気付く事はない。


 むしろその言い草に『そら部』の部員達は黙っていられなかった。


「そらがけは正式に認められたスポーツだぞ肥田野!」


「これのどこが金儲けなんだ! 俺達は真面目にやってんだぞ! お前と違って!」


 部員達が怒声をあげた。


 肥田野君は実は正式な『そら部』の部員ではない。


 入学したばかり頃、肥田野君は暴力事件を起こした。その罰として社会奉仕活動を命じられたのだ。その社会奉仕活動の一環として『部活の加盟、参加』というのが肥田野君には強制されていた。


 肥田野君は数ある部活の中からこの『そら部』を選んだ。そういうわけである。


 しかしそんな理由で部員となった肥田野君には『やる気』がまるで感じられなかった。


 こうして体育館には来れども基本的に制服姿。


 そして総勢三十名にもなる部員全員を怒らしている主な理由がこれであった。


「この『そらがけ』の醍醐味はなんと言ってもスカートから覗くパンチラだ。公式大会でもスカート着用が義務なのは他にテニスぐらいなんだが、この『そらがけ』はなんと言っても視線が高い! 見ろ! この高さ……丁度人間の目線に走者のパンチラが嫌でも入り込むように設定されている……見事だ」


 エロスに熱い男。肥田野君はぶれないデブだったのだ。当然女子部員からも男子部員からも蛇蠍の如く嫌われていた。


 しかしこの説明はアホの娘ひかるちゃんにはちょっとハイレベル過ぎた。


「……え?」


『何を言ってるっぺ?』


 それは言葉にしなくても、ひかるの顔に分かりやすく現れていた。


「ああ、心配しなくて良い。テニスのようにスコートを履いてもいいし、スパッツも許可されている。ブルマもオッケーだ。公式は分かっていやがる。どうだ。これでも金の匂いを感じないのか、貴様らは」


 ふーやれやれ。困ったものだ。そんな気配すら肥田野君は醸していた。意外と器用なデブである。


「感じてたまるか! この変態!」


「確かに丸見えだが見ないようにするのがマナーだろうが!」


「そうだぞ! 俺達がどんな思いで毎日耐えてると……あ」


 男子部員の慟哭は体育館全体に響き渡る大きな声であった。


 この大徳寺高校の『そら部』は強豪。その部員数は三十名と少なくない。今日もほぼ全員が参加している中で女子の割合は六割程になる。


 そのすべての瞳が男子部員へと冷たい視線を向けていた。


「……さいてー」


「肥田野と同類じゃん」


「だから私達の練習をあんなに熱心に見てたんだ」


 体育館の空気は一気に最悪なものへと変わっていった。


 しかしアホの娘ひかるちゃんはそんなことなど気にしない。


「えっと……『そらがけ』は出来ないの?」


 彼女の行動原理はそれに集約されていた。


 大空ひかるがかつて見た『そらがけ』は自由だった。

 

 それは空を自由に飛び、宙を駆け、風と一体となっていた。


 ひかるの見た『そらがけ』とは、そういうものだった。


 自分も空を飛びたい。あんな風に自由に跳んでみたい。


 それだけを考えて勉学に励んできたのだ。その他の事は後回しにして。


「……これは『そらがけ』じゃないからな」


「……そんな」


 ひかるは崩れ落ちた。その様子を見つめる肥田野君も苦しそうな顔をしていた。アホの娘ひかるちゃんの自業自得と言うか自爆と言えるが肥田野君には彼女の苦しみがまるで自分の事のように感じられていた。


 空気の読めるデブ。こいつにも色々とあるのだ。


「いやいや、これが『そらがけ』だっての! 大会とか普通にあるし!」


「そ、そうよ? 本当にこれが『そらがけ』なのよ? そのデブは信用しちゃダメだから……」


 女子部員はついつい言ってしまった。何の気なしに言ってしまった。


 絶対に使ってはならないとされたその言葉をポロっと使ってしまったのだ。他の部員達が真っ先にそれに気付いて凍り付く。


 ぴしっ。


 そんな音が肥田野君から聞こえた。より正確を期すのならば……その握り締めた拳からビキビキバキバキと暴力的な音が響き渡る、だが。


 肥田野君には二文字の単語が禁句である。入学して直後に暴力事件を起こしたのも『ひたのだからデブってんのかー?』と自己紹介の時に同じクラスの男子から、からかわれたことが発端である。


 この時の肥田野君は『ひたのじゃねぇ! ひだの、だぁぁぁ! そして俺はデブじゃねぇよ! ぽっちゃりさんだぁぁぁぁ!』


 と、その恰幅のよい体から全体重を乗せた肉ストレートパンチを放ち、からかってきた男子生徒をぶん殴り、壁にめり込ませた。


 デブのパンチは異常に重い。


 からかってきた男子生徒は肥田野君の肉ストレートで殴り飛ばされて教室の壁に激突したのである。


 それはまるで少年漫画のような光景だったという。


 この男子は全治五ヶ月の重傷を負った。そしてまだ入院中である。


 最初にからかったのは壁にめり込んだ男子生徒であるし、揶揄したのを他の生徒全員が見ていた事もあり、肥田野君へのお咎めは軽くなった。


 部屋に謹慎、三ヶ月である。


 一発退学もあり得たが、肥田野君が殴ったのは一発のみ。そこに悪質な暴力性は無いとして恩情裁判となったのだ。パンチ一発で人間を壁にめり込ませたので教師陣がドン引きしたともいう。


 だが問題はここからだった。


 この『なんか異常に強いデブ』の噂があっという間に学校中に広まり、イキリ盛りの少年少女達がこぞって肥田野君を挑発しに来たのだ。


 わざわざ謹慎してる部屋にまで押し掛けて。


 そして全員が壁にめり込んだ。


 肥田野君の肉ストレートは男女の区別をまるでしなかった。


 男女平等。絶対正義。


 全寮制ということで頭のおかしな生徒もわりと居たのだ。三年間を寮で暮らすうちに狂う人間も少なからず出る。


 学校側には生徒を止められなかった責任がある。問題のある生徒を放置していた責任もある。何せ肥田野君は謹慎中。イキッた少年少女達は鍵の掛かったドアをこじ開けてまで一人のデブを馬鹿にしたのだ。


 これにより肥田野君の刑罰は更に軽くなった。


 部屋に謹慎、一ヶ月である。


 十人以上を壁に埋めたのに罰は軽くなった。


 肥田野君本人も頭を傾げていたが、とりあえず大徳寺高校は平和になった。問題児を一人を残して他は全て壁に埋まり、退学処分となったのだ。勿論入院のおまけ付き。


 肥田野君が最初に壁に埋めた男子生徒もこれの波を起こした犯人として退学処分となった。


 とんだとばっちりとも言えるのだが……謹慎している肥田野君の部屋に乗り込んだバカの一人に男子生徒の実兄が居たのだ。


 これにより病院で入院している男子生徒も連座で退学。もしこの男子の兄が素手で部屋に乗り込んでいればそこまでの処分とはならなかった。


 彼はイキってしまったのだ。


 野球部にいた彼は金属バットを持ち出していた。当然野球部も連座で責任を取らされることになった。野球部、無期限の部活動停止。事実上の廃部である。


 大徳寺高校は野球部もそれなりの強豪である。しかし部員がバットを持ち出しての人傷沙汰である。こうなると言い訳なんて待った無し。たとえ返り討ちにされていても一発アウトである。


 当然の流れとして他の野球部全員が肥田野君の部屋にバットを持って殴り込みをかけるのも……ある意味では起こるべくして起きた事象だったのだろう。


 野球部の部員は全員がやはり壁に埋まった。顧問の教師も壁に埋まった。


 肥田野君の罰は更に軽くなった。謹慎が解けて社会奉仕活動のみの罰となった。


 そこには大人の事情も多分に含まれていた。


 口外せず。喧伝せず。


 それらを条件として肥田野君はシャバに出されたのである。しかしそれはあくまで過去の事件である。


「デブだ豚だの好き勝手に言ってくれて……女だからって容赦してもらえると思ってんのか? 三次元なら歯ぁ食いしばれ!」


 肥田野君と学校側は互いに要求していた。二度と同じような事件を起こすなと。それが手打ちの条件だった。


 今回のこれは管理する学校側の問題である。肥田野君が我慢する理由が無かった。


「やべぇ!? 早く体育教師を呼んでこい!」


「顧問が真っ先に逃げたぞー!」


「馬鹿女! お前のせいだぞ!」


「うっさいわね! あんたたちだってあれが居ないところでブタブタ言ってるじゃないのよ!」


「おまっ!? 何バラしてんだよ!」


 体育館は修羅場と化した。泣き叫ぶ生徒に逃げ出す生徒。額に血管を浮き上がらせて口汚く罵り合う部員達。


 醜い。ただひたすらに醜い人間関係がそこにはあった。


「……大空さんや」


「……はい?」


 部員達の大騒ぎを前に更にポカンとしていたひかるは肥田野君に話し掛けられた。崩れ落ちたままの姿勢なので巨漢のデブに見下ろされている形になる。


 二人は大騒ぎしている部員達を眺めて逆に冷静になっていた。


「君の求める『そらがけ』は、きっと違うものなんだろう。でも一応これも空を……まぁ滑る事は出来る。飛べはしないがエア靴に慣れる練習と思えば……いや、まるで違うものだからなぁ。うーん」


 肥田野君は腕を組んで唸った。ひかるはここでようやく、はたと気付いた。


「そらがけ……やってたの?」


 目の前の肉塊。あまりにも大きな体と厚みを誇るデブ。『そらがけ』とはまるでかけ離れた存在だが『そらがけ』にあまりにも詳しすぎる。アホの娘ひかるの女の勘が炸裂した。


「昔ちょっとな。こうなる前の本当の『そらがけ』をやってた最後の世代じゃないか?」


 女の勘は当たっていた。しかしというか、やはりというか。ひかるはやっぱりアホの娘だった。


「……最後の世代? なんで変わっちゃったの?」


 肉を見上げるひかるは疑問を投げ掛けた。


 二人は普通に会話をしているが、なおも修羅場が体育館内部で継続中である。男子と女子が取っ組みあいの喧嘩をしていたりもする。二人はそれを冷めた目で見ながら会話しているのだ。


「……家の仕来たりとかでテレビとか見ないのか?」


「い、田舎者だからって馬鹿にすんなっぺー!」


 大空ひかるは確かに田舎の出身である。だがいくらなんでもテレビが無いほどの田舎ではない。だから怒った。


「……いや、大ニュースになっただろ? 超人気アイドルが『そらがけ』を体験中に落下して大怪我したって。それがあって『そらがけ』は今の空中スピードスケートに変わっていったんだ」


「へー」


 返事が幼稚園児な大空ひかる。この場合、怒られるべきはこいつなのだろう。


 ひかるはある意味で究極のワンオフタイプの人間である。


 一意専心、それを貫いたから彼女はここにいる。もう少し他にも心を配れば良かったのだが、彼女自身が他人の忠告を聞かなかったのだ。


 家族からも同じような事を何度も聞かされているのだが本人はそれを聞き流した。


 一意専心。


 つまり専心しているもの以外は耳にも入らない。


 アホの娘の面目躍如といった所なのだろうか。


「……興味のあることならちゃんと下調べはした方がいいぞ?」


「うちの親と同じこと言うんだね」


 カラカラと明るく笑うひかるに肥田野君も軽く引いていた。


『田舎の女の子って……怖いな』


 肥田野君はそう思った。


 結局この日は部活にならずに終わった。修羅場と化した体育館は教師陣が集まりなんとか鎮圧したがその場にデブと極楽蜻蛉の姿は無かった。





 居なくなった二人のその後である。


 二人は体育館を早々に抜け出して学内デートと洒落込んでいた。


「こっちが購買部。バイトの知らせもここで聞くのが早い。大抵は掃除とかご飯の準備とかになるが、色々と勉強になるぞ」


「へー。バイトも出来るんだ」


「学内バイトということで、かなり安いけどな。仕送りが無い生徒は大体働いてる」


「うっ……私もバイトするべきかなぁ」


「社会勉強の一環でもある。やっとけ。一応内申にも加点される」


 デートというか学校案内だった。


 意外と面倒見の良い肥田野君と天然極楽蜻蛉なひかるの相性は悪くなかった。


「うーん。部活にお金が掛かるって話だし」


 ひかるは悩んでいた。購買部に張り出された『お手伝いのお知らせ』を睨みながら自分のお財布の中を考える。


 小さい頃から『そらがけ貯金』をしてきたのである程度は大丈夫。でも折角都会に来たんだし少しは都会を堪能したくもある。


 楽しみにしていた『そらがけ』が残念な結果になっていたのが、さしものひかるをして『都会の波に呑まれるっぺー!』という気持ちにさせていたのだ。


 一意専心ひかるちゃん。でも彼女はまだ高校生になったばかりの女の子である。そこはちゃんと女の子だったのだ。


「エア靴がアホみたい高いからなぁ。初心者モデルでも万越えするのが当たり前になってるし。練習する分には部室に転がってるお古でも良いんだが、やっぱり自分用の靴はあった方がいい。改造とかカスタマイズとか……まぁそれをやると公式試合に使えなくなるんだけど擬似的な『そらがけ』は出来るようになるぞ」


「え、本当に!?」


 落ち込んで都会の波に呑まれようとしていた田舎者ひかるは間一髪の所で救われた。


「部活の奴等からは邪道扱いされると思うが可能だ。あくまで擬似的になるけどな。あとすごく大変」


「やる! 大変なのは分かってたもん! 私は空を跳びたいの! 海の中を舞うペンギンのように空を跳ぶの!」


「……ペンギンっすか」


 肥田野君は乙女としてそれはどうなの? と思うような鼻息荒いひかるの剣幕に押されていた。


 初期の『そらがけ』は力場の道を走るのではなく、空間を限定し、そこに力場で作られた極小の足場を複数設置したものだった。


 空間の広さはおよそ30メートル四方。この三次元空間の至るところに見えない足場が生成され、それを踏み台にして、重力を無視した絶え間ない三次元アクロバットが空中で披露されたのだ。


 それがかつての『そらがけ』だった。


 走るものではなく魅せるもの。


 そして何より『そら』を『楽しむ』ものだったのだ。


 でも肥田野君は少し考える。


『ペンギンみたいな動きをしてたヤツ……居たっけか?』


 足場を踏んで跳ぶ。それが『そらがけ』の基本なのでペンギンのような弾丸飛行はかなり難しい。というかそんな動きをするのは変態的とも言える。


 昔の『そらがけ』はごく一部を除いて、まったりふわりが基本のゆるふわ三次元アクロバットだったのだから。


 記憶の中を旅する肥田野君はひかるの様子が少し変わっていることに気付かなかった。


「肥田野君は『天宮翔』って人知ってる?」


「……お、おう。知ってるぞ? 『そらがけ』の第一人者ではないか?」


 それ、自分の事です。


 肥田野君はなんとかそれを飲み込んだ。


 肥田野君。


 彼の本名は肥田野翔である。


 そして彼の旧姓は『天宮』である。


 両親の離婚と共に名字が変わっただけで肥田野君は『天宮翔』本人となる。


 だからどうしたということもない。だが肥田野君はようやく気付いたのだ。


 目の前にいる少女が『恋する乙女』に変わっていることに。


 咄嗟に彼は嘘をついた。彼の本能がこう命じたのだ。


『ここ、地雷原。迂回せよ』


 どくろのマークも脳裏に浮かんだので急ぎ隠すことにしたのである。


「私が小さい頃に『そらがけ』のイベント会場で見たんだ。ものすっごく格好いい男の子でさ。私は一目惚れしちゃったんだ。天宮君と『そらがけ』の両方に」


 ……え、浮気前提ですやん? 二つに惚れてまっせ?


 思わず脳内が関西人になってしまった肥田野君。しかしひかるちゃんのノロケ話はまだ続く。


「何もない空間を彼が一人だけ駆けていくの。始めは地上を走っていたのが気付くともう空の上。天地なんて無視して逆さになって空を歩いてた。すごかったの。くるくる回ったり、くるくるしながら空に向かって落ちたりしてさ」


 当時のひかるちゃんはまだ小学生。語彙に期待するのは間違いである。


「……ペンギンってまさか」


「うん。天宮君がね? びゅーんって空をペンギンみたいに跳んでたの。縦横無尽って言うのかな。もしお魚さんだったら絶対に逃げられないよね! ってくらいすごかったの!」


 大空ひかる。その瞳の熱と上気するお顔。それはまさに恋する乙女そのものであった。


『……俺か。俺がペンギンだったのか』


 だがしかし! その『天宮翔』本人である肥田野君は一人ダメージを受けていた。ペンギンヒットである。


「あの頃天宮君は小学生くらいだったのかな。私とあんまり変わらない年齢だと思うんだけど……何か知ってる?」


「ほわ!? お、おう。元気に暮らしてるのではないかい? 高校生として」

 

 肥田野君は空気の読めるデブである。


 大空ひかるが恋しているのは『天宮翔』であるのだ。それも少年天宮君である。ペンギン天宮君でもありそうだが。


 だがしかし。彼女が恋をしているのは決して『高校生肥田野翔』ではない。


 彼もそれを理解した上で話を合わせていくことにした。


「スッゴいイケメンになってるんだろうなぁ。あのときもイケメンだったし」


 肥田野君は恋する乙女の独白を聞かされることになったのだ。


 とんでもないダメージが発生する音波攻撃である。しかも肥田野君特効。


『……神様ごめんなさい。部屋に隠してあるエッチな本を……いや、あの本は決して手離さぬぞ!』


 肥田野君、見えない何かと格闘中。


「あの頃の天宮君……可愛かったなぁ。最初見たとき女の子だと思ったんだよねー。でも男子トイレに入って行くのを見たから男の子だったんだよねー」


 肥田野君。ここで少し背筋が寒くなった。聞くべきか、聞かざるべきか。


 肥田野君は……踏み込んだ。


「……大空さんや」


「なーにー?」


「……トイレの中まで入ったのかい?」


 漢、肥田野翔。勝負に出た。


「うん。入り口までだよ? ちゃんと立ちションしてるの見たから間違いないよ?」


 肥田野君。普通に背筋が凍り付く。少年天宮君の記憶には全く残っていないが、とんでもない奴にストーキングされていた事が今、ここで判明した。


「天宮君のおちんちんは可愛かったなぁ」


 そして勝負は負けが確定した。


「……」


 エロと二次元をこよなく愛する男。それが撃沈である。いや『可愛いちん』である。


 今にも崩れ落ちそうなデブに気付かぬひかるちゃんは掲示されていた募集のひとつに目をつけた。


「あ、この『皿洗い』のバイトなら私にも出来そうかも」


「……うん。食堂のおばちゃんにこのバイトがしたいですー、と言うとバイト出来るから……とりあえずやってみる?」


 肥田野君の眦からはキラリと光るものが溢れていた。しかし案内は止めないところに彼の人柄が現れている。


「うん! あ、肥田野君はどうするの? 一緒にやってみる?」


「自分は調理の方のバイトを取ってるから……寮の食堂まで一緒に行こうか」


「うん! 男女で寮が別れてるけど食堂は共通なんだよねー。自炊しろとか言われなくて助かったよー」


「うん。そだねー」


 肥田野君、ギャル化。


 しかしそれも仕方の無いことなのだ。今の肥田野君は身の丈180センチに体重95キロの巨漢である。


 間違っても『ぽっちゃり』で済ませられない巨体である。


 それが昔の話とはいえ『可愛いちん!』である。そのショックは計り知れないものなのだ。


 そんなおデブと少女が連れだって食堂目指して歩いていく。食堂も購買部も同じ建物なのでわりと近いのだ。


 時刻は夕飯までまだ時間がある微妙な時間である。人が集まるにはまだ早い。無人の廊下を二人が歩く。


「ちんちんちーん。ちんちんちーん。たっま、つっぶせー!」


 無人の廊下をとんでもない歌が木霊する。可憐な少女の声でとんでもない内容の歌が廊下に鳴り響いたのだ。


「大空さん。なにその歌」


 肥田野君は驚くよりも先に、隣を歩く女の正気を疑った。そして聞いたこともないような不安を煽る旋律はデブの鳥肌を立たせていた。


「玉つぶしの歌だよ?」


 そんなことも知らないの? ひかるの顔はそう言いたげである。


「……ちんちん言ってるのは……なんなの?」


 肥田野君は男としてまずそこが気になった。何故今唐突に歌い出したのか、それも気になるが、まずは『ちん』である。


「鐘の音なんだってさー。うちの田舎に伝わる話なんだけどさー」


 それは大昔のこと。


 どうにもならないクズが村にいた。


 何度も悪さを繰り返して一向に反省する事もないクズである。村人はこれの対処に困り果てたそうな。


 みんなの相談を受けた寺の住職は考えた。


『そうだ。玉を潰してしまえば大人しくなるじゃろう』


 クズはまたしても悪さをし、捕らえられた。全く反省する素振りも見せない男である。


 男は寺に連れて来られ柱に縛られた。そして今まで迷惑を被っていた人々から玉を潰されることになったのだ。


 住職は寺の鐘を打ち鳴らして男の悲鳴を掻き消した。


 それからというもの。鐘の音がすると村に男の絶叫が鳴り響くようになったという。


 めでたし、めでたし。



「というわけなのよ」


「……へー」


 どこがめでたしなのか肥田野君には分からない。でもとりあえず感心しておいた。


 アホの娘ひかるちゃんは満更でもないご様子である。


「心が落ち込んだとき、この歌を歌うと元気になれるんだよ?」


 気分が良いのか、そんなことも言ってきた。


「……何故に?」


 確かにひかるには落ち込む要素はあったのだろうが、何故にその歌で元気になれるのか肥田野君には理解が追い付かない。むしろ元気は無くなるだろう。男は特に。


「えーっと……恨みを晴らした時のスッキリ感? とか先代の住職さんが言ってたよ」


 肥田野君は内股になった。


『やべぇ。作り話じゃなくて実話だ!』


 肥田野君は直感した。


 話の全てが事実かどうかは分からない。しかし大筋でそういうことが実際にあったのだろう。


 これは……ヤバイ!


「騒ぐと怒られるから無人でも歌うのは止めとこうね」


「はーい」


 肥田野君は話を逸らしてひかるを黙らす事にした。


 アホの娘で助かった。いや、危険水域は脱していない。とはいえここでこいつを投げ出すのもアカン!


 肥田野君は久し振りに自分の信念が揺らぐのを感じつつ、食堂へと重い足を動かしていった。


「んふっふー。尻に竹竿ぶっさすの~」


「……」


 鼻唄レベルのものに文句は言えない。パンクを和訳した歌と思えば良い。肥田野君は思考を切り替えた。パンクに竹竿が出てくるのか果たして疑問だが。


「ふんどしを~……ぶちん!」


 はうっ!


 思わずびくんとしてしまう肥田野君。パンクにふんどし……あるよね? きっとあるよね?

 

 もうロックでもいい。ロックの神様助けて!


 その願いは確かに届いた。肥田野君の必死な思いは天に通じたのであった。


「石を~詰め込め~! 溢れる~までに~」

 

 ……確かにロックやな。いや、そうやない。そうやないんや!


 変な歌を歌う少女と煩悶するデブが食堂に到着するまでまだ少し掛かる。


 例年ではそこまで荒れないこの大徳寺高校に嵐が迫っていた。


 ……既に嵐が校内を掻き回している気もするが嵐はこれから来るのである。


 嵐の前の静けさ。


 無人の廊下はそれを示唆しているように肥田野君には思えていた。


「ばーちゃんのくっわで~。たっがやっすの~」


 なにを?


 その答えを得ぬままその日は過ぎていった。



 とりあえず中編に続く。





 今回の感想。


 これ短編じゃなくて連載作品だよね?


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