狼の眷属
狼の眷属
うるさいほどに蝉の声が聞こえる。
あたしはいま浅間神社の石段を登っている。
103段。この急な階段は数えながら登るとかえってきつい。
別のことを考えながら登ったほうがいい。
神社の階段を登っているが、あたしは別に信心深いほうではない。
というより、神道というものがそんなに好きではない。
神道は、侵略戦争に利用されて多くの人の命を奪った。
だから、神社の境内を通って石段を歩いているが、お参りをしたことなど一度もない。
別のことを考えよう。
あたしがなんとなく考えたのは、「赤ずきんちゃん」のことだった。
現在、様々なことに「ポリティカル・コレクトネス」ということが言われるようになった。「政治的に正しい」という意味である。
だから、童話にも「政治的な正しさ」が求められるようになった。
かつての「赤ずきん」では、「狼に食べられたおばあさんと赤ずきんが、たまたま通りかかった猟師に助けられる」ということになっている。
しかし今は、「狼に呑みこまれる時に赤ずきんはナイフを握っていて、中から狼の腹を切り裂いて自らとおばあさんを助ける」という話になっている。
むろんこちらの方が正しい。
女性を弱者として、男性に助けられる弱い存在として描くのは間違っている。
この国は昔から男尊女卑の風潮が強い。
戦争に負けるまで、女たちには参政権さえなかった。
男たちはなんの根拠もなく、自分が女よりエライと思っている。
それは、この国のサブカルチャーにさえあらわれている。
あたしは、セーラームーンが嫌いだった。
男性であるタキシード仮面にいつも助けられている女の子が嫌いだった。
そして、そんな話を作っている男たちが嫌いだった。
あたしは、今でもキティーちゃんが嫌いだ。
キティーちゃんには口が無い。
女は黙っていろということか。
だからそういうキャラクターを作って喜んでいる男たちが嫌いだ。
だからこの国が嫌いだ。
いつか、この国の女性男性すべての意識を、「政治的に正しくする」のがあたしの夢だ。
だけどクラスの女子たちは、能天気に、アニメの男性キャラに恋したり、ジャニーズのタレントたちに夢中になったりしている。
それが、女を馬鹿のままにしておこうという男たちの陰謀だということに気がつかないのか!
いつか、この国の女たち全てを啓蒙したい!
あたしが休日のたびに山の中を歩いているのは、この国の、クルマ社会に呑みこまれたくないからだ。
このままでは、狼の腹に呑みこまれるように、あたしもこの国の常識に呑みこまれてしまう!
それだけはどうしてもいやだ!
浅間神社のあるこの山のことを賤機山という。もちろん山が先にあって神社が後にできたのだ。
だけどなぜか、この山のことを浅間さんと言う人がたくさんいる。こういう人間中心主義的なところが、この国のいやなところだ。
いま、ヨーロッパやアメリカを中心に、「自然を大切に」という機運が高まっている。しかしこの国では、国際捕鯨委員会を脱退してこれから商業捕鯨を再開するという。
しかも大多数の国民はそれに賛成している。
呆れて物も言えやしない。
そんなことを考えているうちに、とっくに石段を超え、頂上に出ていた。
いつの間にか蝉の声に慣れ、気にならなくなっている。
ここに、救世観音が立っている。
市内の戦災被災者の追悼のために立てられたらしい。
自分たちが侵略戦争を起こしておいて、自分たちの仲間の追悼も何もないものだ。
自分たちがアジア中に、どれだけ被害を与えたと思っているんだ。
すぐ隣に、B29がここに墜落したことへの慰霊塔が立っている。
救世観音より、かなり低くて小さい。
いやらしい。
あたしはそちらに目もくれずに、そのまま広場を通り抜けた。
広場を通り抜けると、ゴツゴツとした岩の突き出た、細い坂を下ることになる。
そこを下ると、枝がこちら側に伸びている平坦な道に出る。木漏れ日が美しい。木陰が涼しい。
そこを過ぎると、尾根そのものが通り道になっている場所に出る。
その時、パッとあるイメージが鮮明に頭の中に浮かんだ。
女の子、小さな女の子だ。
金髪で肌が抜けるように白い。
女の子は地面に膝をついて座っている。
目をつぶって、灰色のけものの首に両手を巻きつかせ、体を斜めにしてけものによりかかっている。
けものは、犬のように見えた。
その犬は、まっすぐこちらを見ている。そしてその目にはやさしさがあふれていた。
女の子の表情は、安心しきっているようだ。頬を犬の背中にこすりつけている。全身の体重を犬に預けているのがわかる。こんなことをしても、犬が怒るわけがないと、信頼しきっているような…。
そのイメージはずいぶん長いあいだ頭の中にあったようだが、突然パッと消えた。
今のは…。
あの子は、きっとこの国の人間ではない。
もしかしたら、自然を破壊し続けているこの国への警告として、彼女が愛する犬とともにあらわれたのではないだろうか。
そうだ。きっとそうだ!
このことを明日、クラスの子たちに話してやろう。
めんどくさがれてもいい。嫌われてもいい!
その時、尾根の真ん中にある大きな木を中心にして、白いもやが現れた。もやはどんどん濃くなっていく。馬鹿な。霧や霞が出るような季節じゃないはずだ!
いつの間にか蝉の声がやんでいる。
もやの中から、大木を背にして、ぼうっと人影が現れた。
女の子? いや、大人のようだ。だけどさっきの女の子の面影がある。さっきの子が成長したら、こんなきれいな女性になるような気がする。
女性は上衣は赤と黒の柄のブラウス、色彩のバランスが整っている。それに白のロングスカート、ヒールのついた白い靴をはいている。とても山道を歩く姿ではない。汗じみたTシャツにジャージズボン、履き古したスニーカーの自分がなんだかみじめだ。
そしてこの女性の傍らには、寄り添うように一頭の獣が立っていた。
シェパード? いや違う。狼だ!
犬よりもはるかに大きい。銀色の長い体毛がふさふさしている。両耳がピンと立っている。鼻は黒く、口を閉じているので牙は見えない。
「あなたは…」
かすれた声が出た。
「スカーレット」
スカーレット。緋色…、赤。
「赤ずきん…ちゃん?」
「そういう風に呼ばれるのはいや」
そうか。大人の女性だものな。子どものころの呼び名で呼ぶのは失礼だろう。
「わたしをその名で呼んだ、母親も祖母も嫌いだ」
えっ…。
「二人ともあたしをいじめていた」
そんな…。
「母親は、それを知っていながら、祖母のところに使いに出した。行けばわたしがひどい目に合うとわかっていたのに! 自分が行きたくなかったから! 二人とも鬼ばばあだ! 父親もわたしをいじめはしなかったけど見て見ぬふりをしていた!」
「そんな…、だけど、ひどいことってどういう…」
「言いたくない! 思い出したくもない!」
狼は、じっとあたしの方を見ている。あたしを警戒しているようだ。
目は大きくはないが矢のようにまっすぐな視線をこちらに向けている。
口が真一文字に閉じられている。
その表情には高貴さがあふれていた。
野生動物に、これほどまでの気品を感じたのは初めてだ。
すると、スカーレットが狼の頭頂部あたりの毛皮をつかみ、ぎゅぅっとつねった!
狼が首だけで振り返り、彼女の顔を見上げた!
怒ったのか?
何か大変なことが起きそうな気がする!
しかしスカーレットは、ばつが悪そうに顔を背けた。
「ごめんね…、あなたがあんまりこの娘を見ているから、やきもち妬いちゃった」
狼に話しかけているらしい。
これほどまでに神々しい女性の口から、「やきもち」なんていう人間くさい言葉が出てきたのは意外だ。スカーレットは顔を背けたままわたしに話しかけた。
「…そんな、ひどい目に合わされるとわかっている祖母の家に行く途中、わたしは彼に出会った。彼に言っても仕方がないとわかっていたけど、わたしは自分の境遇を話した。彼はあたしのために…、憎い祖母を食い殺してくれた!」
あたしの聞いてきた話と違う。スカーレットが顔をこちらに向ける。
「ねえ、彼がはじめからわたしを食べるつもりだったら、なんで森の中で会ったとき、食べなかったと思う?」
わからない。
「母親は彼にその母を食い殺させたわたしを憎み、家から追い出した。わたしは森に行って彼と棲みはじめた。だけど母親に雇われた猟師に彼は撃ち殺された。わたしは彼のなきがらを抱きながら餓死した。外聞を気にした母親は、わたしも彼に食い殺されたということにした。その話がわたしの国で言い伝えられて、この国にまでやってきた」
いや、だけどこの国に伝えられた話は。
「狼と七匹の子山羊」
えっ?
「わたしの国の言い伝えを本にするとき、他の民話の結末をもってきてくっつけてしまったんだ。だからこの国でも、彼はわるもの。だけど、わたしの経験した事実はそうじゃない」
そんな…。
「森の中で死んだわたしたちは、人でも狼でもなくなった。わたしの国では自ら命を絶つことは禁じられている。人を殺めた彼と同様、あえて餓死を選んだわたしも罰を受けることになった。だけどわたしはそれで良かったと思っている。おかげでわたしも彼と同じように人狼、ヴェアボルフになることができたのだから。わたしと彼は互いに唯一の伴侶となることができるのだから」
伴侶? 夫婦なのか? だけど、そうすると、この女性と狼は同じ種ということになるが、それにしては外見が全く違う。
「人狼は、人間の姿にも狼の姿にもなることができる。彼がいつも狼の姿をしているのは、その姿を私が好きだから。わたしがこの姿をしているのは、彼の趣味にすぎない」
のろけになってきた。だけど、なぜここに姿をあらわしたのだろう。
「それは、この国では、もともとわたしたちのようなカップルが珍しいわけではないから」
えっ?
「そしてこの山。神々が住まう場所。ここでわたしのことを考えながら歩いてきた少女。知らず知らずのうちにわたしを呼び出したのだろう」
スカーレットはそこまで言うと、そちらを見続けている狼に顔を向けた。
「行こう。子供たちが待っている」
狼が正面を向いた。スカーレットは狼の背にまたがった。狼は大人の女性ひとりの重みなどまるで意に介さないらしい。体格的にもまったく危なげが無い。彼女は腰を折って胸から腹をぴったりと狼の背中につけた。両腕を狼の胴体にまきつける。それは、振り落とされないようにしがみついているというより、恋人に抱きついてるように見える。彼女の表情は、安心しきっているというよりも幸福そのものと言った方が正しい気がした。
狼は地面をひと蹴りすると、そのまま空を飛んだ。
あたしは驚かなかった。なぜかそれで当たり前のような気がしていた。
みるみるもやが晴れて、見慣れた賤機山のハイキングコースが現れた。
蝉の声が聞こえる。いつの間にか消えていた真夏の熱気に一気におそわれた。
山を下りた後、浅間神社の境内の中にある博物館に寄ってみた。
ふだんは気に留めることはなかったのだが、ポスターに「ニホンオオカミの剥製」とあるのが気になったのだ。
受付で200円を払って中に入る。こういう地方の博物館はどこかほこりっぽいところが多いのだが、ここはそんなことはない。もっとも展示品への配慮のためかどこか薄暗い。徳川家康の銅像とか、駿府城跡からの発掘品などの展示の奥に「ニホンオオカミの剥製」があった。
あっ…。
声を出してしまった。
あの、山の中でスカーレットと名乗る女性に出会う直前、女の子に抱きつかれている獣にそっくりだったからだ。
あれは…、犬ではなかったのか。
ならばあのイメージは、彼女が家を追い出されて狼のもとにやってきた時のものか。
あたしの声を聞いたのか、博物館の人がやってきた。丸い顔に目も鼻も口も大きい。典型的な日本人顔だ。白い着物に水色の袴を身に着けている。神主のようだ。
「それは、ニホンオオカミです。明治になって絶滅しました。この国が、西洋の真似をするようになってから、ね」
そんな。それでは、アメリカやヨーロッパで広まっている「自然を大切に」という運動と矛盾するじゃないか。
「オオカミという言葉は、文字通り『偉大なる神』という意味です。『カミ』とは、上という字もそう読むように、『人間よりも上位の力』をあらわします。日本人は『自然』という言葉をつくる前から、自然とともにあった。西洋には、『かえる王子』『白鳥の湖』『白鳥の王子』『美女と野獣』と、人間が罰として動物の姿に変えられてしまう話は珍しくないけれど、動物が人間に化けるという話はひとつもない。しかし日本にはそんな話はいくらでもあるし、人間と結婚する話もたくさんある」
「そうなんですか?」
「木下順二の『夕鶴』。これは『鶴女房』という民話がもとになっています。また、『日本霊異記』にも狐を嫁にする話が載っています。また、『古事記』には、これはワニザメのことらしいですが、『わに』と結婚する話がありますし、その他には蛇、亀、蛤を嫁にする話さえあります。動物ではなくて妖怪ですが、小泉八雲の『怪談』の雪女なども人外と結婚する話ですね。」
「しかし、動物を嫁にする話はあっても、婿にする話はないでしょう。これは日本人の女性への差別意識のあらわれではないでしょうか。」
「静岡市には『牛妻』という地名がありますが、これは異類婚姻譚の言い伝えからきています」
「妻、ですよね」
「『つま』という古語は、夫も妻も指します。性別に関係なく配偶者をあらわすのです。
そんな動物たちも、『カミ』つまり、『人間よりも上位の力』であり、そんな『神々』を祭ることによって人に害をなさないようにお願いする場所が『神社』なのです」
「しかし神道は、侵略戦争に利用されました」
「国家神道ですね。あれも明治になって西洋の真似をするために、中国の儒教の一派である朱子学の排外主義をまぜて人工的につくられたものです。宣長翁が見たら『漢心そのものだ!』と嘆くでしょう。翁の歌の『敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花』に詠まれている『山桜』は、賤機山のハイキングコースにもありますが…」
そうなのか。気がつかなかった。
「ソメイヨシノのような華やかさなど全くない素朴な花です。そして神道も本来素朴なものです。そんな気持ちを込めて、一度あなたもお参りをしてみたらどうですか。本社の主祭神はコノハナサクヤヒメ…」
神主はそこまで言ってにっこりとわらった。
「女神様ですよ」
博物館を出た。
いつのまにか夏の夕方が近づいていた。
広い境内にはほとんど人影がない。
ジージーという虫の声がはっきりと聞こえてくる。
神社の本殿に提げられた提灯と、たくさんの灯籠がやわらかな光をたたえている。
今日の神主の話に全て納得できたわけではない。
たとえ印象的な事件が起きたとしても、たった一日の経験で今まで考えてきたことをひっくり返すことはできない。
だけど「女神様にお参りするのは悪くないかな」と思った。
了