そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)vol,03 < chapter.5 >
黒い霧は街のほうにも流れ込んでいた。
丘と街の境界線上にいたマルコは、黒い霧の中、必死に自我を保つ。少しでも気を緩めたらこの闇に呑まれてしまう。
今も心の中で、何かの声がささやき続ける。
(ねえねえ、キミ、いつまでそんな嘘つくの? 本当はもう気付いてるんでしょ? キミは可哀想な子。お母さんからは捨てられて、身分のせいで、育ててくれた人をママとも呼べない。キミは一人ぼっち。とっても可哀想な子……)
「違う! 私には仲間がいる! 一人ではない!」
(嘘。キミは一人。だってキミ、対等にお話しできるトモダチってロドニーだけなんでしょ? そのロドニーだって、隊長から『新人の教育係』ってお仕事を任されたから一緒にいるんだよ? みんな、キミが王子様だから仕方なく付き合ってくれてるだけじゃないかなぁ~?)
「そんなことはありません! ゴヤッチも、デニスさんも、みんな……」
(あれ? じゃあ、どうしてこれまで、トニーと顔を合わせなかったんだろうね~? 他にもまだ、ちゃんと話したことない隊員いるんでしょ~? それってさぁ、避けられてるんじゃないかなぁ~?)
「それは、任務の都合で会えないだけで……」
(大人のやさしさだね~。嫌われてる本人に直接言っちゃうのは、ちっちゃい子だけだもんね~? うわぁ、可哀想な子~。誰からも、本当のことを言ってもらえないなんてぇ~)
「わ……私は……」
(ねえねえ、認めちゃいなよ~。キミは可哀想な子。誰からも好きになってもらえない。強がってたって仕方ないよ。ね? 本当のことを認めて、みんなから好かれるいい子に生まれ変わろうよぉ~。それって、すっごく前向きな選択だと思うけどなぁ~)
「……生まれ……変わる……?」
(うん! これまでの辛かったことは、全部忘れてやり直そう? 大丈夫、手伝ってあげるから! それじゃ、まずはこう言って? 魔弾装填、《デスロール》!)
「……魔弾……装填……《デスロール》……」
(次はこう。こうやって銃を構えて……)
言われるがまま、マルコは銃口をこめかみに当てる。
心の中の何かは、ロドニーの姿と声でこう言った。
「そうだ、そのまま引き金を引け」
「引き……金…を……?」
「どうした? 大丈夫、お前ならできる。俺は信じてるぜ?」
「……でも……私は……」
「俺の言うことが信じられないか? 絶対うまくいくって。自信持てよ。お前は生まれ変わるんだ。みんなから大好きだって言ってもらえるように」
「みんな……から……?」
「安心しろよ。ほら、俺も一緒に逝ってやるから……」
ロドニーの姿をした何かは、マルコと同様に銃を構えてみせる。
「せーので逝こう? な?」
「……はい……ロドニー…さん……」
「それじゃ、いくぞ? ……せーの……」
震える指先に力を込めて、そして――。
低く、重い発砲音。
それは巨大な亀と戦うオオカミのところにも届いていた。
「っ! しまった!」
デカラビアをマルコの護衛に付けた。けれど彼女が持つのは、人の運勢をほんの少し良くするだけの力。彼女自身に戦闘力はなく、精神攻撃を阻めるような技能もない。
オオカミは低く唸った。
この亀――かつて『玄武』と呼ばれた者は、他のどんな神より優しく穏やかだった。自らが創りあげた大地に草花が芽吹き、虫や鳥、原始的な哺乳類が誕生したときも、それを誰より喜んだものだ。
けれど、生命は常に進化するもの。やがて知恵をつけ始めた動物たちには、古の神々の加護では不十分だった。
創造主によって神の世代交代が言い渡された。
泣きながら異界に送られた玄武の姿を、オオカミは覚えている。
「……やめろ玄武。これ以上堕ちるでない。其方は、いかなる生命も傷つけてはならない……!」
甲羅に閉じこもった巨大亀。黒い霧を発するそれに、もう《ティガーファング》を五十発以上撃っている。それでも、その甲羅に穴を開けることはできない。
オオカミの頬を冷や汗が伝う。以前説得を試みたときより、ずっと大きく、頑なになっている。あのときはまだ、オオカミの声を聞いてくれていたのに――。
「玄武! 我の声を聞け! 其方は心優しき神! 恨むな! 憎むな! あれは必要なことだった! 其方はこの地で、安らかに過ごせばよい! 玄武! 頼むから聞いてくれ!」
ロドニーの体で、ロドニーの声で、オオカミは必死に呼びかけ続ける。しかし、玄武は出てこない。硬い甲羅の中から、どす黒く冷たい霧を振り撒くばかりである。
オオカミに玄武を殺す気はない。可能であれば再び、神としての姿を取り戻してほしいと願っている。
だが、それも無害であればこそ。今、この地に生きる生命体へ危害を加えるというのなら、役目に従い滅するのみである。
「……やむ無し。玄武よ、朱雀と同じところに逝くがいい……」
オオカミは魔導式短銃を収め、叫ぶ。
「《風陣》発動!」
半径二十五メートル。そこは嵐か竜巻か、オオカミを中心に突如として出現した暴風圏は、瞬間最大風速三百メートルの悪夢の世界である。
それはもはや風とは言えない。空気のヤスリも同然だった。甲羅を削り落とされながら、玄武は地響きのような悲鳴を上げた。
声とは空気の振動である。オオカミが操る風もまた空気。同属性の『攻撃』同士がぶつかり合い、オオカミの魔法が相殺される。
オオカミは即座に追加攻撃を放つ。
「《風陣・二式》発動!」
吹き付ける風にうねりが生ずる。空気の密度に変化を持たせることで、圧縮空気の炸裂と真空の刃を発生させているのだ。
これなら玄武も相殺しきれない。甲羅には幾筋もの傷が付き、炸裂する圧縮空気で傷口は押し広げられていく。このまま力押しで甲羅に穴を――オオカミが、そう考えたときである。
玄武が水を吐き出した。
空中に散布された大量の水は、空気の密度が薄い場所に吸い込まれるように移動する。それにより、真空の刃は無力化された。
風は水よりも軽い。自分より重い物体に衝突した瞬間、運動エネルギーの大半を損耗してしまう。《風陣》最大の攻撃、空気のヤスリに必要な『速度』が奪われる。
水滴が邪魔をして、うまく圧縮空気が形成されない。空気の炸裂による攻撃も、威力は半減した。
「……さすがは玄武……堕ちてなお神か」
オオカミはさらに魔力を注ぎ込み、《風陣》の立て直しを図る。
玄武は大地と水脈、大気を創った創世神の一人。創造主ほどではないにしろ、その力は強大である。風という単一属性のみでこれに打ち勝つことは容易でない。
これは想像以上の長期戦になりそうだと、覚悟を決め直したときだった。
背後からの打撃。
後頭部への強烈な一撃は、人の拳によるものである。
前のめりに倒れながら、オオカミは自身の手のひらで空気を圧縮、炸裂させた。地面に手をついた瞬間に、オオカミの体はゴムボールのように跳ね上がる。
コンマ五秒の差で、オオカミが倒れるはずだった場所に黒い影が飛び掛かる。
影は三体。形状は、体長百五十センチの大型犬。
背後から殴りかかったのはそれとは別で、身長百八十センチ、長髪、すらりと手足の長い男性の影である。
どう見ても、トニーとマルコの影だった。
オオカミは風を操り、宙に留まったままそれに呼びかける。
「トニー! マルコ! しっかりしろ! 闇に呑まれるな! その闇はお前らのモンじゃねえ! お前らが背負う事ぁねえんだよ!」
ロドニーの声、ロドニーの口調。二人の心に呼びかけるにはこれが一番だと考えたのだが、玄武に先手を打たれていた。
「要らなくなんか、ない……俺が……俺のほうが……だから……」
「私は……死んだほうがいい……死んで……死んでしまって、もう一度……」
「おい! 何があった!? トニー!?」
犬の形の影は、ロドニーの声に反応し、ふらふらと近づいてくる。
「俺……だよな? 必要なのは、俺、だよな……?」
「俺は、要らなくなんかないよな?」
「なあ、ロドニー。答えてくれよ。俺は、お前に必要だよな……?」
黒犬たちの問いに、ロドニーは――ロドニーの体を使うオオカミは、大きく頷いて見せる。
「当然だろ! お前は俺の大切な仲間だ! いまさら何言ってんだっつーの!」
オオカミは知らない。
この『当たり前の返答』こそが、トラップ発動のキーワードであることに。
「そう……必要なのは、俺だよな?」
トニーの体を覆っていた黒い影が消えた。オオカミはそれを、玄武の術に打ち勝ったと思ってしまったのだが――。
「じゃあ、こいつは要らないな」
トニーは何のためらいもなくマルコに飛びつき、その首に食らいつく。
あまりにも自然に、あまりにも無邪気に。
オオカミが何事か理解するまでに、マルコの首には、深々と牙が食い込んでしまっていた。
「な……おい! やめろ! トニー!」
風の魔法でトニーの動きを抑え込む。
空気圧で地面に縫い付けられた三頭の黒犬。その目は狂気に満ちている。玄武に心を支配されていることは間違いない。
「おのれ……玄武! この者たちに何をした!」
玄武は答えない。
返答の代わりとでも言うように、これまで以上に色濃い霧を生じさせる。
「マルコ! マルコ大丈夫か!? 俺の声が聞こえるか!?」
マルコのほうは、まだ全身が真っ黒な影に覆われたまま。トニーの状態から推察するに、この影が晴れれば術が解除されるわけではない。この影が消えることで、術が完成してしまうのだ。
つまり、マルコはまだ戦っている。
目には見えない、心の内での戦い。その戦いに自分が――ロドニーの声と姿が、何らかの影響を与えてしまったことは疑いようがない。そのせいでトニーは、完全に闇に呑まれてしまった。
(何を仕込んだ……? 先ほど、このヒトの子は『死んだほうがいい』と言っていたが……ケルベロスは他者を攻撃し、ヒトの子は己の死を望んでいる。これは同じ術なのか? それとも、別の……?)
オオカミには分からない。彼は世界の監視者として造られたもの。はじめから、その精神構造は人間と異なる。
もしも彼が人間ならば、これほど理解しやすい攻撃もなかっただろう。『他者への攻撃』も『自殺願望』も、人間ならば誰もが思う、たった一つの欲求に起因する。
愛されたい。
性愛のそれとは異なる、もっと幼く、純粋な思い。
父母や親族、コミュニティの仲間、友人――身近な誰かから大切にされたいという当たり前すぎる欲求。玄武はそこに、本人のコンプレックスを絡めて『攻撃』しているのだ。
そんな攻撃が可能なのも、玄武がヒトと同様の精神構造を持つからこそ。
だから玄武には、オオカミの声が届かない。
玄武が本当に望んでいることが、オオカミには理解できないのだから。
「ヒトの子よ……頼む。死ぬな。其方が死すれば、我は、本当に玄武を……」
不具合を修正し、不必要な情報を削除する監視者の能力。それを以って、今まさに逝こうとするマルコの命を必死に繋ぎとめる。
デカラビアの運命操作は効いている。
魔弾《デスロール》は発射の瞬間、『奇跡的な偶然』で銃が不具合を起こし、本来の数十分の一の威力しか発揮されなかった。魔弾は頭蓋を貫通せず、右側頭部と耳朶、顔の一部を爆砕するにとどまる。
トニーの牙は確かに首に食い込んでいたが、主要な神経や血管は傷ついていない。
ただ、痛みと失血、精神攻撃の影響で、マルコはピクリとも動かない。
意識はあるのだろうが、もう、何かをするだけの気力も余裕もないのだろう。薄目を開けたまま、瞬きすらやめている。
トニーのことがある。どんな言葉と行動がきっかけとなるか分からない。この顔と声で、迂闊に呼びかけるわけにはいかなかった。
(やめろ……やめてくれ、玄武……もうこれ以上、我に神殺しをさせてくれるな……)
玄武は動かない。
硬い甲羅の内側から、なおも霧を生じ続けるのみである。
マルコは走っていた。
どことも知れぬ、薄暗い景色の中を。
夜明け前なのだろうか。完全な闇とは程遠い、薄明るい闇の中。森と呼ぶには木は少なく、草原と呼ぶには植生が異なる。シダ類が生い茂る、太古の地平。そんな草むらに、一本の獣道がある。
道なりに、ただ道なりに。
マルコは走り続けていた。
走らなければならなかった。
なぜなら、立ち止まればそこに必ず――。
「ねえ、どうして逃げるの?」
影が現れる。
真っ黒な影が、どこまで逃げても追ってくる。
何度叫んだことだろう。けれど、助けを求めても誰もいない。誰も助けに来てくれない。
ここには自分だけ。たった一人でこの影から逃げ続け、走り続けている。
しかし、もう足が動かない。足がもつれて転倒する。立ち上がるだけの体力もなく、乱れた呼吸を整えることも出来ない。
体力を使い果たした虚脱状態。霞み狭まった視野には、真っ黒な地面以外、何も映らない。
「……ねえ、もう終わり? 逃げないの?」
影がいる。
うつぶせに倒れた自分のすぐ前に、あの影がいる。
自分が一番見たくないと思う、あの頃の自分の姿、あの頃の自分の声で――。
「……先ほどからずっと俯いておられますが……どこか痛むのですか? お医者様を御呼びしましょうか?」
聞きたくなかった。
何もかも、この一言が悪かったのだから。
影は笑う。
「キミ、本当に悪い子だよね。だってさ、これまでさんざん被害者面してたけど、よく考えてもみなよ。キミさえクエンティン家に引き取られてこなければ、お兄ちゃんは引きこもる必要もなかったんだよ? 半端に出来のいい弟がお兄ちゃんの生活荒らしまくって、引きこもりになるくらい傷つけて……そのくせ自分は、『兄の分まで努力せざるを得なかった』とか思ってるんでしょ? どんだけ迷惑なの? キミ、本当にひどいよ。人として最低だよね。それで自分は、騎士団の花形部隊で市民のヒーローなんか気取っちゃってさ? 台無しにされたお兄ちゃんの人生について、考えたことある?」
やめてくれ。
もうやめてくれ。
何も聞きたくない。
「え? 聞きたくないって? なにそれ、本当に自分勝手。キミは部屋から出られないお兄ちゃんに、言いたい放題、自分の主張を押し付けてたくせに。自分は何も聞きたくないだって? それってさ、自分でも『そりゃあないだろ』って思ったりしない? するよね?」
分かっている!
分かっているから、だから、もう――。
「もう……なに? 楽にしてくれって? じゃあ、楽になっちゃいなよ。ボクが手伝ってあげるからさ!」
――違う。
私は、死を望んでなどいない。
私はこの程度のことで、殺されたりしない。
「……どうして? キミ、なんで折れないの? もう何度もへし折れそうになってんのに、どうして?」
――が、私を――から――。
「……え? なに?」
玄武は神。マルコの心の声を、聞き取れないはずはないのだが――。
「キミが、なんだって?」
マルコは答えない。
玄武は声を荒げる。
「答えろ! 貴様の心の支えは何だ!? そんなもの、欠片も残さず破壊しつくしてくれるわ!」
マルコが動いた。
弱々しい動作ながら、自らの意思でしっかりと地面に手をつき、体を起こす。
影をまっすぐに見据え、はっきりと宣言する。
「私だ! 私を支え、立たせているのは私自身! 世界の誰が私を認めてくれずとも、私は生きる! 私が、私を認めているから! 私が、私の記憶を信じているから! お前の言葉がすべて真実であったとしても、私は私の記憶を……かつて受け取った人々の言葉と、やさしさを信じる! さあ! 私は答えたぞ! 次はお前だ! お前は何を信じて生きる!? 己の信条も唱えられぬ者に、他人の人生をとやかく言う資格などない!」
玄武は答えない。
答えられないのだ。
信じるものなど、何もかも失ってしまった。空っぽの甲羅に孤独と涙だけ詰め込んで、ここでずっと眠っていた。
生きる理由なんて、もうよくわからない。
大昔、オオカミに泣き止むように言われたとき、玄武は必死に訴えた。
涙が止まるまで、一緒にいてほしいと。
けれどオオカミは聞いてくれなかった。神の涙はこの地の生き物には害になるからと、泣くことすら許されず、そのまま封じられてしまった。
それがオオカミの役目。与えられた役目を全うすることが彼の信条。
ならば、自分は?
せっかく創りあげたあの世界から追放された自分は、何を信じて生きていけばいい?
「……ないよ……」
玄武は震えた。
拳を握り締め、幼いマルコの姿のまま、小さな子供そのものの仕草で叫ぶ。
「わかんないよ! 主さまも、オオカミも、キミも……どうしてみんな、ボクと一緒にいてくれないの!? ボクを一人にしないでよ!」
世界が壊れた。
夜明け前のような薄暗い草むらが、ガラスのように砕けて消える。
心の壁の向こう側――そこには、本音をさらけ出した玄武の、本来の『心の世界』があった。
どこまでも高く、澄み切った空。
高台から見下ろす森、その先に広大な海。
台地を流れる川から続く滝、そこにかかる虹。
足元の柔らかな草も、そこから跳び上がろうとするバッタや蝶も――世界のすべてが美しく、色鮮やかに輝いていた。
ただし、何も動かない。
ここは静止した世界。
玄武の心の中にある、一番美しかったころの地球の景色だ。
そんな景色の中で、小さな子供が泣いている。
マルコは残った力を振り絞り、立ち上がった。
どうしてそんなことをしたのか、マルコ自身にも分からない。気付けばマルコはその子供を抱きしめて、こう言っていた。
「……我慢しなくていいんです。泣いてください。貴方の気持ちが晴れるまで、いくらでも……」
世界に雨が降る。
雲の有無など関係ない
晴れ渡った青空の、どこからともなく雨が降る。
星が瞬く月夜でも、どこからともなく雨が降る。
世界各地で、同時刻、全く同じ現象が観測された。
この雨に打たれた者は、誰も皆、優しい気持ちで涙を流した。
オオカミは身構えた。雨が降り始めると同時に黒い霧が消えた。巨大な玄武の姿も、いつの間にか消失している。マルコの体を覆っていた影も綺麗に消えたのだが、トニーのことがある。これは術が解除されたのか、まだ続いているのか、オオカミには判断できなかった。
次の行動を決めあぐねていると、黒犬が声を発した。
「おい、こら。ロドニーの偽者。拘束を解け」
オオカミはロドニーの体を使っている。外見上、ロドニー本人かどうかは分からないはずなのだが――。
「はあ? おいトニー、お前、いったい何言って……」
「ロドニーの声で嘘くさい芝居をするな! このクソ野郎! あのガキがふてくされた原因は貴様だ馬鹿野郎!」
「……我が原因とは、何のことだ?」
「何のことだと? ガキが泣きじゃくってたら、落ち着くまで一緒にいてやる。常識だろうが!」
「一緒に? 我が? そんなことが、何になるという?」
「分からないのか!?」
「ああ……我は世界の監視者。其方らとは異なる存在だ。教えてくれ。玄武は、なぜ今も泣いている? 其方は、玄武の心と一つになっていたのだろう? 其方には理由が分かるはずだ」
「……貴様は、なんだ? 心が無いのか?」
「精神と自我はある。ヒトのそれと異なるだけだ」
「……ならば、何を言っても無駄だ。今、貴様にこの気持ちを『分からない』と否定されたら、あのガキは一生泣き止まない……」
黒犬は低く唸る。威嚇ではない。伝えることができないもどかしさだ。
オオカミも言葉を発しかけて、やめた。
ヒトの心は分からない。ヒトにも、オオカミの心は分からない。通じ合えない言葉をいくつも重ねるより、伝わる言葉を交わしたほうが建設的である。
「ケルベロス、拘束を解いてやるが、その前に確認させてくれ。其方は、本当に操られていないのだな?」
「ああ、今はな! あのときも操られてさえいなければ、あんな生温い攻撃はしなかった! 一撃で頸骨を粉砕して、頸動脈を噛み千切ってやったのに!」
「……? 其方の目は正気に見えるのだが、その殺気は何だ?」
「何? 決まっている! あのクソ王子が心底嫌いだから、操られていなくても事故に見せかけて殺してやったのにってことだ!」
「……邪気が感じられない……? ヒトの心とは、一切の穢れなく殺意をいだけるものなのか……?」
「おい! そんなことはどうでもいい! 早くこの拘束を解け。今すぐ下水処理場を稼働させないと街が水没するぞ!」
「水没? なぜだ?」
「なぜ? なぜだと!? いいかよく聞けクソ野郎。この街にはドブが無い。道路に排水口もない。何かが足りないと思っていたが、操られている間に、建築学会で聞いた新素材の話を思い出した。この街の道路に使用されているのは多孔質構造の舗装材だ。雨水は路面全体と路肩の緑地帯から地下に浸透する。そして埋設された余剰地下水排水パイプから、下水処理場に流れる設計だったんだ。通常雨量なら処理場のメインシステムを稼働させなくとも、高低差を利用して勝手に排水される。だが、この雨量では排水が追い付かないはずだ! 処理場のメインシステムと予備の排水ポンプを全機稼働させる必要がある! 分かったか!? 分かったら早くこの拘束を解け!」
「いや、待て。ロドニーの記憶を読み込んでいるが、下水処理場の稼働についての知識が不十分で……」
「あああっ! もう面倒臭い! 原始時代の神はすっこんでろ! ロドニーを出せ! おいロドニー起きろ! いつまで寝てるんだ!? おーいっ! ロドニーッ!」
「無駄だ。我が顕現している間は、ロドニーにこの体の制御権はない。其方の声もロドニーの精神には届いてはおるま……」
「ラーメン食いに行こう!」
「……ラーメン?」
「こってりとんこつ! チャーシュー山盛り! 背油ニンニク増し増しで、煮卵二個追加! 早く起きないと俺とゴヤだけで行くからな! 置いてくぞ! いいのか! 起きろぉーっ!」
「食欲か。なるほど。しかし、その程度の欲求で我の力を上回ることはない。ヒトの精神が我を打ち負かすことなど……」
「おっぱーいっ!」
「……?」
「おいロドニーッ! 童顔巨乳のオネエチャンがいるぞ! 今ならお前の大好きなおっぱいが見放題だぞ! いいのかロドニー! 今を逃したらあんな美巨乳、一生拝めないぞ~っ!」
「……何を言っている? どんな呼びかけであろうとも、我の内にまで声が届くことはないと言っているでは……」
「あああっ! ロドニー早く起きろーっ! 今ならお触りOKだってよーっ!」
「ウッソまじでどこどこ!? ロリ顔美巨乳オネエチャンどこにいるんだよおいっ! ……って、あれ? なんだこの状況? 俺、どうしてたんだっけ?」
オオカミにヒトの心は分からない。『おっぱい星人』と呼ばれるごく一部の人類は、ときにその『おっぱい魂』で限界を突破する。同じ人類からも理解されないレベルの、強烈すぎるフェチシズム。神をも凌駕するその力に、体から弾き出されたオオカミは戦慄していた。
(なんだ? なんなのだ? 今のエネルギーは……?)
考えたところで、分かるはずもない。オオカミは生殖行動を必要としない神的存在。生殖本能に起因するあらゆる欲求は認識不能な領域にある。
体から弾き出された『神』はヒトの目には映らない。トニーはまるで何事も無かったかのように話を進めた。
「ロドニー、お前、空から落ちて気絶してたんだ」
「ロドニーが寝てる間に全部終わった。変な神は消えた」
「あとはこの雨。排水が間に合わない」
「下水処理場を稼働させないと洪水になる」
「予備の排水ポンプも動かさないと」
「この街、ドブも排水口もない。全部路面からの浸透」
「だから雨水は全部地下パイプに集まる」
「低地は水浸しでぐちゃぐちゃになる」
大昔の神様と違い、こちらは現代人。都市インフラの知識は、漫画や映画でなんとなく知っている。
「あ、そうか。排水ポンプがまだ稼働してないから、小学校の敷地もあんなにぬかるんで……」
「こんなに雨が降ったんじゃ、もっとひどくなる」
「行こうロドニー」
「電源入れれば何とかなる。たぶん!」
こういうときにはとりあえずそれらしい場所に移動して、それっぽいボタンを押してみるのがお約束である。B級パニック映画ファンのロドニーは、なんの疑問も持たずに頷いた。
「よっしゃ! そんじゃ、下水処理場に行こうぜ! ……って、マルコ? なんでこんなところに倒れてるんだ……?」
足元のマルコにようやく気付いたロドニーだが、銃創と咬傷はオオカミによって通常状態に『修正』されている。今はすやすやと眠っているようにしか見えない。
「魔力を使い果たして寝てるだけだ!」
「どこも怪我してない!」
「ここは安全だから連れてきた!」
「ここに置いていこう!」
「早くしないと街が水没する!」
「行こうロドニー!」
黒犬たちはさらりと嘘をついて、マルコを放置する方向で話を進めた。
ロドニーとトニーは、Cエリアの下水処理場に向かった。
商業区画・Cエリア。ここにはショッピングモールのほか各種娯楽施設が立ち並び、小さいながら遊園地も造られている。
小高い丘を切り崩した造成地の最奥でありながら、他のどの場所よりも標高が低い。その理由はもとの地形にある。この場所は川筋によって丘が削られた谷底の部分で、丘を切り崩した土砂によって埋め立てられた土地なのだ。
邪魔な土砂の廃棄と、商業地の造成。一切の無駄を排除した低コスト工事計画の結果、最奥なのに低地という不思議な土地が出来上がった。一見危険そうな元川底の低地でも、川そのものは上流域の人工運河で流れを変えられている。河川の氾濫を心配する必要は無い。
危険なのは、雨季の集中豪雨である。
「うっわ、なんだこりゃ!」
商業地の中でも特に標高が低い遊園地の中央のコンサート広場。もとの地形を活かす形で、すり鉢状に掘り下げた円形劇場になっている。
古代遺跡風に装飾した円形劇場と、その周りの広場。ざっと見渡しただけで五百メートル四方はあろうか。その全域が、周辺から流れ込んだ雨水で冠水していた。
「やべえな! 早く処理場の電源入れないと……」
幸い、下水処理場は分かりやすい場所に造られていた。一応は施錠されていたが、そこは人狼の腕力でドアごと取り外して先に進む。
制御室と書かれた部屋に入り、操作盤の一番大きなレバー、『主電源』を押し下げる。
「……お、点いた!」
ブゥゥゥゥンと、低く鈍い駆動音がする。操作盤と室内のランプが次々と点灯していき、次に操作すべきボタンを照らし出す。
「ロドニー、これだ! 余剰地下水排水ポンプ!」
「こっちもだ! 一時貯水槽・取水口!」
「たぶんあれも! 一時貯水槽・放水口!」
とにかく水を放水路に流せばいいのだ。細かい設定は気にせず、一人と三頭は稼働スイッチらしきものを押していく。
操作盤上のモニターに、各所の稼働状況が表示された。
「……よし! これの、ここの表示……たぶん放水路の水位だよな!?」
ロドニーが指し示した数字を見て、トニーも頷く。
「ちょっとずつ上がってくっつーことは、街のほうは、ちゃんと排水できてるんだよな?」
「たぶん!」
「きっと!」
「おそらく!」
「それじゃ、次はBエリアの排水ポンプも稼働させようぜ! さっき見て回ったとき、あっちもかなり水はけが悪くて……」
そう言いながら、操作盤から離れようとしたときである。
室内の電源が一斉に落ちた。
急いでペンライトを取り出したロドニーは、操作盤を照らす。
主電源レバーは下がったまま。非常停止ボタンも押されていない。
ならば電気の供給元に問題が発生したのかと、操作盤から延びる配線を辿っていくと――。
「嘘だろ!? マジかよ!」
ケーブルがつながる先は、ディーゼル式の簡易発電機だった。
ここはまだ住民がいない街。街そのものに電力が供給されていない。既に完成した施設の定期点検のために、仮設電源を持ち込んでいたらしい。
室内をくまなく見渡し、燃料タンクを発見するが――。
「駄目だロドニー、こっちの二つは空っぽだ!」
「こっちのは……下のほうに少し!」
「でも、一リットルもない……」
「うわぁ! 最悪! まだ店もやってねえし……仕方ねえな! トニー、そのケーブル、仮設じゃなくて正規の電源のほうに繋ぎ直せ! 隊長に連絡して、セントラルから電力を融通してもらおう!」
通信機を取り出し、ベイカーを呼び出す。
ワンコールで通信に出たベイカーは、開口一番に言った。
「おいロドニー! 変な雨のせいで市内が大変な騒ぎだ! お前いったい何をした!?」
「知りませんよ! 俺は何もしてません!」
事実だ。ロドニーは何もしていない。
「隊長、その雨のせいで、こっちもやばいです。まだ住民がいないせいで、下水処理場に電源が来ていないんです。排水ポンプが動かせなくて、商業地が一部冠水しています」
「何!? おい、どこだ!? ショッピングモールではなかろうな!? あそこにはベイカー家も出資しているのだぞ!」
「モールの奥の円形劇場が完全に水没。コンサート広場も水浸しです。このままじゃモールのほうにも水が行きますよ」
「処理場自体は使える状態か?」
「大丈夫です。さっき、点検用の仮設電源でほんの何秒かは稼働できました。でも、もう燃料がありません。隊長、電力供給公社のほうに掛け合って、こっちに電力の融通をお願いできませんか? 電源さえあれば排水できるんです」
「いや……それは無理だ。つい先ほど、こちらでも大規模停電が発生した。セントラルステーション横の変電設備が、漏水でショートしたらしいのだ……」
「ステーション横!? それって、ハイランドエリア全域カバーしてるやつですよね!?」
「ああ。今ハイランドで電源が生きているのは自前で発電できる騎士団と中央総合病院だけだ。王宮も外郭部は照明が落ちている。非常用電源で本宮のみ維持している状態らしい」
「魔導式バッテリーへの切り替えは? 普通、電源落ちたら勝手に切り替わりますよね?」
「それが、なぜか一切の魔導式機器が使えない状態なのだ。この雨自体に《封魔結界》と同様の作用があるらしく……今、魔法省と王立大学の識者が緊急会議を開いている。原因が全く分からない」
「そんな……」
なにやら市内は大変なことになっている。その事実は理解できたのだが、ここで諦めるわけにはいかない。
「隊長! 隊長は、魔法が使える状態ですか?」
魔法を封じる呪詛・術式は数種存在するが、いずれも完全に封じることはできない。規格外の魔法技術を持つ者なら《封魔結界》の中でも魔法を発動させることができるのだ。
ロドニーの問いに、ベイカーはさも当然のように答える。
「先ほどペガサスで中央市庁舎まで移動したが?」
「ってことは、今市庁舎ですか?」
「ああ。だが、もう発つところだ」
「どこに!?」
「そこだ! 俺が出資した店だぞ? 自分で様子を見に行かなくてどうする」
「隊長最高! ナイス判断! おいトニー! ストップ! やっぱそのケーブルつながなくていいから! 予備電源確保できたぞ!」
「ん? おい、ロドニー、何のことだ? 俺は発電機なんか持って……」
と、言いかけて気付いた。
違う。俺『が』発電機だ。
降り止まぬ雨の中、市庁舎前から飛び立ちながら考える。
自分は雷獣族。いつでもどこでも放電できる。この雨に打たれても、難なく魔法が使えるだけの技術力もある。
だが、しかし。
ロドニーが想定している発電方法に、技術力は必要ない。
必要なのは、おそらく――。
「……あ、これ、メンタル死ぬやつ……」
落ち込みつつも行かねばならぬ。
ベイカーには、守るべきものがあるのだから。




