かなえさんの休日
私にできることは、ベッドに横たわる最愛の彼女に、真紅の薔薇と甘いキスを捧げるくらいのものだ。
――刈谷かなえ
二〇一八年三月一四日 春休み 午前八時三〇分
箱庭を生み出してから、もう一年以上経っただろうか。
同じ社会的立場を演じ続け、変わらない人間の器を保ち続けている。
絶望的な状況に進展があったわけではない。私の罪は残されたままだ。
けれど、変わったものもある。
何もせずに呆然と暮らしているわけではないのだから。
*
ファミレスでほづみと一緒に苺味のシェイクを二個注文した。
ほづみは、まるで幼子のようにストローを啜っている。
「ほづみ、美味しい?」
「うん。かなえちゃんと一緒に飲むと、とっても美味しいよ」
「そう。よかった」
朝日が店内に差し込み、ほづみの金色の長髪を照らしている。
客の喧騒も、店員の形式的な挨拶も、店内の響くクラシック曲も、いまの私には届かない。あるのは目の前のほづみだけ。
「ぬ、なかなか吸えない……」
ほづみの頬が小さく膨らむ。見ているだけでこころが和んだ。
すべてを捨てて手に入れた、ほづみの大切な笑顔。後悔はしていない。
けれど、朱莉や美月、箱庭の住人と顔を合わせる度、胸が痛む。
ほづみに悟られないように胸に手を当て、息を整えた。時間が巻き戻っても、すべてが元通りとはいかなかった。私に課せられた罪と責任は重い。
お互いの左手の薬指に嵌められた指輪は、翡翠色の輝きを揺るがせている。
ほづみに合わせて、指輪の位置を変えてみた。
ほづみが喜んでくれるから、悪い気はしない。
シェイクを一口啜った。強烈な甘さが舌の上で渦巻いている。
「美月ちゃんと朱莉ちゃん、遅いね。シェイク飲み干しちゃうよ」
「……そうね」
待ち合わせの時間から三〇分遅れている。いつまでほづみを待たせるつもり?
まさか、魔物に襲撃された? もし襲撃されたなら、すぐにテレパシーが送られてくるはず。けれど、結界の中に取り込まれたら、テレパシーが通じないかもしれない。それこそルナークのような魔物が現れて悲惨な目に遭っているのだとしたら……。
私はテレパシーを送ろうとして、やめた。向こうが結界に閉じ込められているのにテレパシーを送ったところで、何にもならない。
それに、日常生活で魔法を使うのは気が引けた。
ほづみとの約束だから。
「ちょっと心配だから、電話してみようかしら」
ほづみは目をぱちくりさせて、朗らかな笑みを浮かべた。
「かなえちゃん、優しいね」
「そんなことはないわ。貴重な戦力が魔物に襲われていたら、たまったものではないから、仕方なく掛けているだけよ」
「えへへ、かなえちゃんらしいね」
「む……」
わざわざ持ってきたポシェットから買い替え時を逸した簡素な携帯電話を取り出す。朱莉と電話番号を交換したはず。電話帳から朱莉を探す……必要もなかった。ア行には朱莉の二文字しかなかったから。
何年ぶりかに聞いた電子音が響く。よく壊れないものだ。計帯電話だけは次官が巻き戻ると同時に元通りになっているのだろうか。電話を掛けておいてなんだけど、テレパシーが通じない状況で携帯の電波が通じるのだろうか。
苛立ちと焦りで心拍数が上がっていく。
ほづみは対照的に、ほのぼのとシェイクを啜っている。
《よっ、かなえ。悪い。久々に歩いたもんだから、道に迷っちまった》
聴き慣れた快活な声が聴こえて、心底ほっとした。
左手の人差し指で、長く伸びた黒髪をくるくると巻きとる。
「わかった。美月はいる?」
《ん? ああ、隣にいるぜ》
「いま、どのあたりにいるの?」
《でっかい歩道橋の真ん中で右往左往してる。スマホの地図アプリの矢印がくるくる回りやがって、あー、頭がどうにかなっちまいそうだ……》
「近くに小学校とマンション、遠くに坂が見える?」
《んーと、それっぽいのが見えるな》
「坂の手前を左に曲がると、長い下り坂が続いているはずよ。真っ直ぐ行くと、そのうち左手に、いつものファミレスが見えてくるはずだから、せいぜい頑張りなさい」
《坂の手前を左に曲がって、真っ直ぐ。んで、左手な》
「そう。結構歩くけど、朱莉と美月なら問題ないはず」
《サンキュー、かなえ! 助かったぜ。美月は走るってさ。んじゃアタシも走る》
「……迷子にならないようにしなさい」
《任せとけって。アタシが美月を見張っとくから。あっ、おい、先に行くなよー。あー、悪い、切るぜ》
「早く追いかけて見張っておきなさい」
通話を切り、ストローをくわえた。
ほづみは机の上に頬を押し当て、のんびりとうたたねをはじめた。
ほづみの柔らかい髪をすくってみる。昨日は桃の香りのトリートメントにした。私と同じトリートメントをしているけれど、ほづみの香りが合わさって、いっそう心地よく、甘く感じられた。
箱庭を作った後、私の罪を詳細に伝えた相手は、ほづみと美月、それから朱莉。
私はほづみの記憶を切り裂くことができなかった。どうしても私のことを忘れてくれないから、ほづみが嫌というまでそのままにしておくことにした。そっと離れようとしても、すぐつかまってしまう。いつも傍にして、毎日ベッドで一緒に寝ている。昔はほづみに酷く虐められていたような気がするけれど、今となっては遠い思い出のひとつでしかない。私はそれ以上に、生命の冒涜と赤い操り糸をほづみに押し付けたのだから。
美月は笑っているけれど、内心、この終わりのない結末に納得がいっていないと話していた。けれど、ほかに、どうすることもできないから、仕方なく今を楽しく生きようと努力しているように見える。
朱莉には世話になった。朱莉は、たまに、つまらないことを言うけれど。ほとんど一日中魔物を狩っている。朱莉がいなかったら、私が一日中魔物と戦わなければならなかったかもしれない。
山河鈴白は、私が魔法の練習相手になってあげている。まだそれほどの仲ではないから、彼女にはすべてを話してはいない。けれど、身勝手な罪を背負う立場であることには変わりない。永い付き合いになりそうだ。
ほづみはもぞもぞと動いて、心地よい寝相を探している。
「まだかなー……」
「まだ一分も経っていないけれど」
できればもう少しほづみと二人きりでいたい、
けれど、無慈悲にも、来店のチャイムが乱暴に鳴り響く。
若干息を切らした美月が、ほづみの座るソファーにもたれた。
「ふぃー、やっほー。ごめんよ、ほづみん、かなえちゃん。お待たせ!」
「おはよう、美月ちゃん」
「ちょ、待って。待ちなさい」
一分もしないうちに美月が到着した。
「……いくらなんでも早すぎない? 屋根の上でも飛び移ったの?」
「あはは、つい本気で走ったら、ね。ちょっと、疲れちゃった……」
二分ほど遅れて、ぐったりした顔をした朱莉が来店した。朱莉も十分早い。
並の人間なら、普通に走っても十分はかかるはず。
朱莉は肘で美月を小突いた。
「イテ」
「おい、バカ。走るの、速すぎなんだよ……はぁ。道行く人に変な目で見られていたじゃねえか。怪しまれたらどうすんだ」
私は美月の足を思い切り踏んだ。
「ぐえっ」
「ほづみとの約束を忘れたとは言わせないわよ」
「ごめん、ごめんって……。もうしないよ……」
私と朱莉のやるせない溜息とともに、いつもの四人が揃った。
*
美月が観光案内のパンフレットを机に置いて、次々と提案してくる。
栗色のセミロングに栗色の瞳、手には青色の指輪が輝いている。
「遊園地はどう? 夜にオバケが出るっていう例のドリームランド」
「やめて」
美月はにやにやして、シェイクを口にする。
ほづみは手を合わせて、目を見開いた。
「あ、動物園にする? あ、魔法、使わないと辛い距離……かな」
「動物園……はじめて通ったのはいつだったか忘れてしまったけれど、楽しいところだったような気がする」
「動物さん、もふりたいな」
ほづみを見つめていると、朱莉が私の肩をつんつんしてくる。
ほづみの髪よりも薄い色をした金髪が、赤いリボンでくるくると巻くことで、左右に束ねられている。
「なあ。猫カフェなんかどうだ」
私が口を開く前に、美月が身を乗り出してきた。
「巷を騒がせている、あの猫カフェ?」
「どういう意味?」
「近所にできたんだって、猫カフェ。なんでも、猫がたくさんいるのはもちろんのこと、猫の耳をした猫っぽい店員さんがいるとかいないとか」
「胡散臭い……」
朱莉がストローを吸い上げて、ずるずると音を立てている。
「あれっ、もう全部飲んじまったのか……」
朱莉は空のシェイクを縦に振る。氷のざらざらした音がした。
「おかわり、したいな……」
*
「猫さーん!」
「ほーれ、こっち!」
歩いてすぐのところにある猫カフェにやってきた。
コーヒーを一杯飲み干すと、猫とたわむれはじめる。
「猫ちゃんとは、やさしく接してあげてください」
エプロン姿の大学生くらいの女性が呼びかけてくる。
お客さんは私たちしかいない。
「ああー、まって、猫さん!」
猫の群れは、ほづみと美月から逃げるように走っている。
朱莉はフローリングでだらしなく座っているところを、猫にたかられている。
「おいこら、そこの黒いの。髪を喰うな、引っ張るな。千切れちゃうだろ」
美月は、朱莉に、にじり寄っていく。
「おっ、朱莉ちゃん、そこ動かないで~」
「おい美月、やめろ、アンタまでこっちに来るな」
反対側から、ほづみが朱莉に近づく。
ほづみも美月も、手つきがちょっぴり怪しい。
「朱莉ちゃん、じっとしててね」
「ブルータス、アンタもか」
「大きい声出したら、猫さんが逃げちゃうよ」
「アタシはマタタビじゃねえのに……。しょうがねえなあ」
朱莉はぴたりと動かなくなる。
「ナーイス、さっすが朱莉ちゃん!」
「やった。ありがと朱莉ちゃん」
ほづみと美月が猫をつかまえてもふもふしはじめる。
ほづみは猫に頬ずりをした。
「子猫さん、かわいい!」
ほづみから少し離れた位置で正座して、ほづみを眺める。
……ちょっとだけ、猫が羨ましい。
それにしても妙だ。私の近くには、一匹も寄ってこない。
じっとしているだけなのに。
本能で危険を感じ取っているのだろうか。
「かなえちゃんも、こっちおいでよ。猫さんいっぱいだよ」
「猫……」
ほづみに呼ばれて、おそるおそる猫の群れに近づく。
朱莉のブレザーの右ポケットから私の人形が顔を出した。
「ちょ」
朱莉に集っていた猫の群れが人形から一斉に逃げていく。
「あんまり怖がると猫さん逃げちゃうよ!」
ほづみに注意されて、何気なく近付いてみる。
一匹の白黒猫は、ふいと顔を背けて、そそくさと逃げていった。
「ぬ……」
背後から猫を抱えた店員さんが近づいてきて、耳打ちしてきた。
「猫ちゃんとは目を合わせないようにして、そっと近づきましょう。あと、上から近づくと、猫ちゃんが怖がってしまいます。はい、抱っこしてあげてください」
「はい。ありがとうございます」
ほづみから栗毛の猫を受け取る。ずんぐりしていて、ちょっぴり温かい。
そのまま猫は眠ってしまった。……警戒心のない猫だ。
店員さんが猫の額を撫でる。私も真似して撫でてみた。
「この猫ちゃん、もともと捨て猫だったんです。最初は人見知りでしたけれど、いまではすっかりお客さんに懐くようになりました」
「……そうですか」
身勝手な人間もいれば、救いを差し伸べる人間もいる。……いいえ、違う。手を差し伸べることも、身勝手なことでしかない。私がやったことが身勝手でなければなんだっていうの。
「猫ちゃんを飼うときは、最後まで責任を果たしてほしいものです」
責任、か。
最後まで責任を果たせるかどうか、
私に責任が果たせるだろうか。きっと、あまりにも背負うものが重すぎたのかもしれない。最初から選択を間違えていた。
たとえ願いを叶えても、過去の事実を変えることはできない。過去の事実を消そうとしても、覆い隠しても、どこかで付きまとってくるから。いまの私のように。だから、せめて、後悔するくらいなら、後悔しないように今を生きることにしよう。過去の事実は帰られないけれど、過去の評価は変えられるのだから。
*
二〇一八年四月一五日 日曜日 午前一時
春休みが終わり、退屈な授業の日々がはじまった。
どんよりと曇った空から、透明な雫がぽたぽたと落ちてくる。
私の部屋にあるベッドで、ほづみは眠っている。
ほづみの隣に寝転がり、頬を寄せた。
雨音を聴くと、あのときの戦いを思い出す。
酸の雨は、生命を溶かし、魔物に作り変えてしまった……はず。
だから、結界の中にいる生命は、私の作った模造品のはず。でも、どうしてか、作り物めいた感じがしない。まるで、あの酸の雨が幻影であったかのように。
あの雨でどれほどの規模の損害が出たのだろうか。
……結界の外側を除いて見ようかしら。
左手を宙に翳し、結界の外へと繋がる小さな歪を生み出そうとする。
けれど、偽りの世界を構成する結界が感じ取れない。
魔力が底と尽きたか? ……違う。結界がどこにも無い。
よく考えれば、おかしなことはいくつかる。結界の中で、どうして雨が降っているのか。私が降らせたわけでもないのに。……結界がないからだ。
ルリイロタテハの姿をした魔物を呼び寄せ。翳した指先にとまらせる。
この魔物は今や私の支配下にある。
幻影や幻覚を生み出す力を持つ魔物ではなかったのか。
まさか私は、酸の雨が降る幻覚を魅せられていたとでもいうのか。
そんなはずはない。なら、どうして結界がどこにもないのだろうか。
……誰かが願いを叶えたとでもいうの?
「かなえちゃん、起きてる?」
「ええ。どうしたの? 眠れないの?」
「うーん、ちょっと、ね」
ほすみがもぞもぞと身じろぎする。ルリイロタテハはい空間へと飛び去った。
思えば、ほづみだって、何度会うときも、優しいほづみがいた。私を恨むほづみは、今のほづみの意思で封じられ続けている。何度蘇っても同じほづみがやってくる? そんなことがあるのだろうか。
私は所詮、人間の姿をした悪魔のなりそこないに過ぎない。ルナークにでも訊けばわかるだろうか。
「あのね、かなえちゃん」
ほづみの吐息が耳にかけられる。
「かなえちゃんは、かなえちゃんのままでいてね」
「どういう意味?」
「何だか、かなえちゃんが、すごく遠いところにいってしまいそうな気がして、
「遠いところ? 私は、いつでも、ほづみの傍にいる」
「うん。そうだよね。変なこと言っちゃった。ごめんね。でも……、かなえちゃん。かなえちゃんは、結界の中に箱庭をつくったんだよね」
「……そうね」
今、ほづみの記憶は引き裂くことはできない。
だから、ほづみには目に見えた嘘が吐けない。
「わたしもかなえちゃんみたいに、不思議な力を感じ取れるんだよ」
雨音から浮かび上がるように、ほづみの声がはっきりと響いてくる。
「わたし、気づいちゃったんだ。聴きたい?」
「もちろん」
「……かなえちゃん、傷つかない?」
「ほづみの言葉なら平気よ」
「えへへ、そっか。じゃあ、思い切って言っちゃうね」
ほづみは少し思案して、私の耳に顔を近づけた。
「かなえちゃんが作ったものが、本物になったんだよ」
「……どういうこと?」
「そのままの意味だよ。まだ、かなえちゃんにしか教えてないよ。けど、もしかしたら美月ちゃんも朱莉ちゃんも、かなえちゃんに気をつかって、わかっていて言わないのかもしれない、かな」
息を呑んだ。
私は神にでもなったっていうの?
神というより、悪魔か。
……ばかね。ほづみの言葉を疑ってどうするのよ。
私にできることは、ベッドに横たわる最愛の彼女に、真紅の薔薇と甘いキスを捧げるくらいのものだ。
燃え盛る命の灯火と運命の赤い愛を捧げ、ほづみの頬に、そっと口付けする。
ほづみは微笑んで、私と一緒に瞳を閉じた。
「ここだけの話、ほとんど書き終えた段階でエクスプローラーがクラッシュして編集データが全部ぶっとんでしまった。つらい」