静けさと青春
砂埃を舞わせ図書館へと駆ける武人、彼女に会うのも一週間振りだった。
早く顔を見たい、本について語り合いたい。たった一週間、これほど長いと感じた事は、
今までになく、そんな、剛作的に言えば”浮つき事”で頭が一杯だった。
小刻みに揺れる視線の先に、図書館の入り口が見えてくる。
高鳴る胸の鼓動を抑えるように、身だしなみを整え深呼吸を一つ。
入り口には館長が椅子に座りながら猫を抱いていた。
「いらっしゃい。今日は来てるよ」
館長の一言で落ち着いた心臓の音が、再び早まっていく。
扉を開けて一歩ずつ、振り子の様に目を右に左にと忙しく動かせながら奥へと進む。
これもいつもの事だが、お客さんが一人も居ない。お蔭で誰にも気兼ねなく本と向き合えるのだが、
時折武人はその事について心配をしていた。視線に机が映った時、武人の瞳は輝きを帯びた。
黒く艶やかな髪を耳に掛け、児童文学書に笑顔を向ける文華の姿。
その一瞬。心のカメラがシャッター音を鳴らす。
「こんにちは」声に気付き振り向いた彼女の目を見つめる。先ほどまで本に向けていた笑顔が、
今度は武人に向けられた。
「こんにちは。貸していただいた本、読み終わりました」
”混じり気の無い笑顔”という言葉がこの世にはある。彼女の笑顔はまさしくそれだった。
純粋さを具現化したその笑顔が、武人の心の奥底にある、誰もが持っている幸福の暖炉に火を灯した。
「隣良いですか?」
「もちろんです」
椅子を一つ開けて隣に座る。この禁断の距離に武人の胸はゆっくりを鼓動を速めた。
文華が鞄から借りていた本を取り出し武人に渡す。差し出された本に乗っている細く白い指に、自分の指が触れぬように武人は気を付けそれを受け取った。
「どうでしたか?」
「とっても面白かったです」
「それは良かった」
文華に貸した一冊の本。舞台は大昔の西洋。悪さばかりを働いた王が、
最終的に自国の国民に成敗されるといった内容の本。
「主人公のデイルの勇気ある行動が、見ていてとても胸が躍りました」
文華の一言に武人の耳が反応する。抑えていた感情がここぞとばかりに溢れ出す。
好きな本を褒めて貰えたことは、自分の事以上に嬉しかった。
「民衆を言葉で奮い立たせる所ですよね! 俺もその場面は印象深かった」
思わず声が大きくなる武人。
その声は館内を駆け巡り、再び自分の耳に戻って来た。自分の声の大きさに"すみません”と一言。
「よほどお好きなのですね」
「はい。児童文学はいつの時代も希望が詰まっている」
武人が言い放った希望と言う言葉に文華が興味を示す。物知りたげな顔をして武人に問う。
「希望ですか」
「この本で言えば、どんなに圧力を掛けられようと、それが不義であるならば、必ず正義には敗れる。
民衆の想いがまさしく希望です。希望が彼らを動かした」
文華は感心した。本に対する情熱とそこにある本への敬意。愛。
武人は本当に本が好きなのだと。尊敬の眼差しで彼を見つめ、そして一つの提案をする。
「良かったらご一緒に本探していただけませんか?」
文華からの提案に胸が躍る。堪え切れない喜びを顔に表し、
「はい」と気持ちを伝える。それから彼等は館内を歩き、本を探し回った。外の世界の出来事をこの時は考える事もせず、各々の価値観と文学にしばし酔いしれる二人の姿を、言葉で語るにはあまりにも軽薄だった。図書館の二階の窓から光が差す。伸びた光の道が、武人たちの使っている机に留まり光の池を作りだした。光の池には窓ガラスの小さな汚れが魚となり優雅に泳ぎ回っている。
ここまで本を通して、文華と心の距離を縮めていたつもりの武人だったが、
ここに来て一つ疑問が浮かんできた。それはとても単純で当たり前な疑問だった。だからその分、質問を投げ掛けるのは、少しだけ小恥ずかしくもあった。少しの勇気を言葉に乗せて口を開く。
「夢元さんって一人っ子ですか?」
唐突な質問に一瞬キョトンと表情が止まり静寂が訪れ、その後笑い出す。
あまりにも本とはかけ離れた質問と言う事もあったが、何よりも真剣な面持ちで聞いて来た、武人に笑いを消せなかった。
「急にすいません……」
瞬間に武人の顔が茹で上がる。内心、穴があったら入りたいとも思っているだろう。
しかしその勇気は実を結び二人の新たな道を開く。
「私は一人っ子です。小さい頃から家に帰れば本とにらめっこをしていました」
「そうなんですね、俺も同じです」
自分と同じ幼少期を送っていた。そんな共通認識が生まれたことで、
より一層文華の事を理解したい、その思考で武人の貯水槽が満たされた。
「そう言えばこうやってお互いの、個人的な事については話していませんでしたね。
会うのは初めてではないのに」
そう言って文華は微笑んだ、霞草の花言葉のような表情で。
彼女の微笑みが武人の貯水槽を打ち砕き、背中を優しく強く押し出した。
「あの、もっと話しませんか? 今度はお互いの事について」
柔らかな静けさの中、文華の心に言葉が届く。彼女の中から、自分でも分からないほどに、
湧いてくる喜びが体の中で騒ぎ出した。
「どのお話からしましょうか」また一歩、二人の距離が縮まった。愛と想いを縫い合わせ作る心の編み物に、一つの針が糸を通す。
夕暮れを告げる虫が鳴く、早くおうちに帰りなと。
図書館を出て二人、また会おうと約束を一つ。さようならを言おうとしたまさにその時、
いかにも男臭そうな荒い声が五、、六人ほど聞こえてくる。見たくは無かった武人だが仕方なく左を向く。やはり見慣れた顔だった。汚れた制服姿の龍平達がニヤ付きながら駆けてきた。
「やっぱり居たか」
「なぁ? かわいい子と一緒だろ?」
どうやら龍平が同級生に要らぬ事を言ったようで、一瞬怒りが込み上げた武人だったが、
文華が居る手前それを表情には移さなかった。文華の姿をジロジロと見つめる同級生達。女学生と話す機会などめったにない為か、我先にと自己紹介を始める。
少し困ったように引きつった笑顔を見せる文華を察し、武人がすかさず間に入る。
「お前ら困ってるっだろ。恥ずかしい」
「何を言う、お前こそこんな可愛い子と何してた!」
「全く松田ちゃんも隅に置けんですな~」
羨ましさ半分で武人をからかい始め、それに腹を立てた武人が一人の頬を掴む。
その光景を楽しそうに見つめる文華。あんな笑顔を見せられては、学生達も顔が赤く火照る。
「皆さんご学友ですか」
「恥ずかしながら、そうです」
「賑やかで楽しそうですね」
細腕に巻いた時計の針を見て文華が言った。
「もう帰らないと。では失礼します」
「はい、また」
龍平たちにも一礼をし、家路へと向かった。その謙虚な姿勢に皆で学帽を脱ぎ、それを手に持って大きく回し、さようならと大声を上げる。
「良い子じゃないか」
「そうだろ?」
「応援してるからな」
拳を握り腕を伸ばす。武人の左胸を軽く叩き励を入れる。
龍平の行動を他の生徒も真似をする。ふざける事に神経を使っている連中が、他人を思いやれるのだと感心している武人だった。
「皆ありがと」
「よーし、駄菓子屋でも寄ろうぜ! 武人のおごりだってよ!」
淡く夕焼け色に染まる街中を、肩を組み、小歌を口ずさみながら歩き始める。
通りを横一列に並んで歩く姿に、汗臭い男の友情が垣間見える。
過ぎ行くときの中で、忘れることの無い青春の一ページ。
お読み頂きありがとうございました。
好きな異性の前では男はいつだって少年。
次回も読んで頂けたらと思います。