大戦への導火線
時刻二十時。
卓袱台を挟み、親と子が眼を合わせていた。
いつになく真剣な面持ちで息子を見つめる剛作の姿。父親のそんな表情に思わず口に溜まった唾を、
ごくりと音を立てて飲み込んだ武人。剛作の子の表情は以前にも見たことがあり、
何を話されるかは瞬時に検討がついた。
「日本は隣国の華中と戦争することになった。父さんも大本営の命を受け、現地で指揮を執る」
剛作は軍人。だから戦争がある限り戦場へ赴くのは当然の事。
武人もその事については幼い頃より覚悟していた。朝支那、北露との戦争の際もそうだったように。
「出発はいつですか」
「明日の十一時だ。見送りは良い。お前はしっかりと勉学に励みなさい」
「はい」
これと言って別れを惜しんだり、何か言葉を掛ける事は無かった。軍人の家は日常的にその覚悟を皆がしているからだ。話が終わり武人が部屋に行くと、食器洗いを済ませた友恵が剛作の隣に座る。
そして彼の肩に寄り掛かり下を向きながら微笑んでいた。
「どうした?」
「何でもありません」
自分の部屋に戻った武人はノートを広げ、
鉛筆を手に取り勉強に励む。寝る時間さえも忘れる程に。勉強を終え布団に入る心の中で「明日は出来るだけ遅めに出よう」と呟いた。
翌朝。
いつもより十分遅れで学校に行く為の支度をしていると、
ラジオの向こうから臨時ニュースが流れる音が耳に入った。
「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、七月二十日午前七時発表。
帝国陸軍は本十日未明、東亜国と華中民国との境界線にて、華中民国軍と戦闘状態に入れり。
繰り返し申し上げます……」
雑音が混じった音と共に聞こえてきたのは、昨日剛作が話した華中民国との開戦を告げるそれだった。
いつもは少しほど賑やかな外が、この放送が流れている間だけは張り詰めた静寂が包んだ。
そんな人間の都合など俺達には関係無いと、笑っているかのように声をげる蝉。
「行ってきます」
「気を付けてな」
「はい、父さんもご武運を」
言葉を交わす父と子。
学校へと歩く武人の姿を今日ばかりは懐かしそうに見つめる剛作。
彼の目に映る武人の姿が、幼少の頃にタイムスリップしていた。
父の視線を感じながらも、自分のなすべきは勉学だと言い聞かせ学校に向け歩いた。
学校へと向かう途中十歩ほど先の道端で、謙太が仲間達とじゃれ合っているのが見える。
「おはよう」
「あ! 兄ちゃんおはよう!」
健全な子供たる、騒がしい程の声。そんな子供たちがウキウキと、
胸を踊らせる様にして軍歌を合唱する。
「万朶の桜か襟の色ー……」
「元気だなお前達は」
「だってまた日本が勝つんもんね!」
「そうだよ! 日本は強いんだから」
どうやら今朝のラジオに感化された様だ。田舎道を抜け学校のあるビルや、
店屋が立ち並ぶ場所でも、人々が皆開戦の話題で溢れていた。
その中を校門に向かい歩く武人の後ろから、
寝坊して家から服を着ながら走って来た龍平が声を掛けた。
「よっ、ラジオ聞いたか?」
「ああ、その前に昨日の夜、父さんからな」
「おじさんも行くのか?」
「そうらしい。今日の十一時家を出るとか」
話をしながら校門をくぐり下駄箱で履き替える。
校内でも学生たちが開戦のニュースについて語り合っていて、
いつもより少し騒がしかった。武人はいろんな生徒に声を掛けられ、自分がする訳でも無いのだが、
「頼んだぞ」などと声を掛けられる。毎度のことだがこれの対応は面倒くさいと感じている様。
昼休み。二人で弁当箱に喰らい付いていると、生徒の一人が何やら興奮した面持ちで、
窓の外を指差し声を上げた。
「おい! 陸軍だ、行進しているぞ!」
声に釣られ窓の外を見る。するとそこには銃を担ぎ背嚢を背負って武装する陸軍の兵隊達が、
戦地に行く為列になり行進をしていた。一糸乱れぬ統率された行進は、
大地を揺らし、その足音は気持ちの様程に揃い鳴る。兵士達の目は一点を見つめ、
これから戦地へ向かい、戦果を挙げると意気込む勇ましさと、使命感が現れている。
その光景を見た生徒達は各々に反応を見せた。窓を開け大声を上げながら手を振る者、
校門を飛び出し列の近くまで行き声を掛ける者この日ばかりは教師も校門を出た生徒を叱らなかった。
日本中が歓喜に満ちる。希望的価値観に身を任せ、日本が勝つと信じて疑わず。
そんな中、武人の瞳には別のものが映った。兵隊たちを見送る人々の中に一人、
ハンカチで頬に流れ落ちた涙を拭く女性の姿。
彼女の表情は、歓喜に燃えている他の者達とは全くの正反対だった。
横顔が表した悲しいという訴え。兵隊の中に彼女の近しい者、いや、
愛を誓った者が居たのだろうか。窓の外の映るその光景に、武人は立ち尽し見ている他無かった。
「おい、どうした?」
そんな武人の様子を気にし龍平が声を掛け、「なんでもない」と椅子に座る。
武人の頭に浮かんだのは、母友恵の姿だった。
いくつもの戦場を歩んだ父。そんな旦那を信じ、家を守り続け、
戦場に送り出す母の気持ちはどんなものだろうか、女性の姿と母の姿を重ねる。
午前十一時頃。松田家。
支度を済ませた剛作は、置かれてある軍刀を一人見つめ、深く一回呼吸をし静かに目を瞑る。
静まり返る部屋の中で呼吸音だけが柱や畳にしみ込んだ。
そしてしばらくして部屋の戸を叩く音と共に、少し寂しげな友恵の声が剛作を呼ぶ。
「貴方、お迎えです」
「今行く」
ゆっくりと目を開け胡坐を崩し左足に力を入れ立ち上がる力の入った左足の重みで、
畳が少し沈む。軍人たる者毎日を死ぬると生きる、剛作にとってもなんということの無い一日。
玄関を見ると富岡中尉がすでに待機していた。
「少将殿! お迎えに上がりました」
ゆっくりと軍靴を履き、友恵から軍刀を受け取る、不安を一つも見せずいつもと変わらぬ、
ニコやかで穏やかな顔で剛作を見つめる友恵。
「では行ってくる。しばらくの留守、頼んだぞ」
「はい、貴方もどうかご無事で」
「大丈夫だ、すぐに戻る。向こうに付いたら手紙を書くから」
車に乗り込むその時に、剛作が振り返り不器用ながら笑顔を見せた。その後車は飛行場へと向かい走らせる。車が見えなくなるまで頭を下げ見送る友恵。姿が見えなくなり顔を上げると、我慢していた涙の貯水槽が壊れ、その瞳からは大粒の滴が流れ出していた。
”どうか無事で”
友恵の想いはその一心だった。彼女だけではない、大切な者達を戦地へと見送った全ての者は、
皆その思いで胸が一杯だったのだ。
喜びと悲しみは共にあり、その中で人は定められた道を歩む。
たとえその道が茨の道であると知りながらも、そこに守るべき者が居るならば進むしか他は無い。
学校を終えた武人は足早に家にへと向かう。家に着いて直ぐ辺りを見渡す。
いつもは聞こえてくる木刀が風を切る音がわずかも聞こえず、
代わりに近所の子供たちの健全な声が響いていた。ついに行ったのだと理解し、
仏壇にて線香を一つ、火を灯し鐘を鳴らす。
「ただいま」
「お帰りなさい。暑かったでしょ、顔でも洗っておいで」
何事も無かったかのように振る舞う母に武人も普段と変わらぬ態度で過ごす。
学校での出来事を冗談交じりで話し、友恵を笑わせた。食事の時間になる。
いつもなら剛作の一言で始まるが、今日からは武人がその役割を受ける。
「頂きます」
静まり返った部屋の中、いつもより遅めの食事を取った。
読んで頂きありがとうございました。
見送る者、赴く者。すべてが時代の犠牲者。
次回も読んで頂けたらと思います。