動き始める
和昭十四年八月。午前七時半松田家。
国防色の軍服。右の腰には拳銃。
肩には軍隊の階級章を付けた男が部下を二名従えやって来た。
「失礼します!」
男は腹の底から出たような声で、玄関の外から声を掛ける。
その声に気付いた友恵が、慌ただしく声の方向に小走りで向かう。玄関戸を横に半分引きそこから顔を出した。「どちら様でしょうか」友恵を見るなりその青年将校は、脱帽し頭を四十五度に下げ敬礼した。
その姿は美しく、いかに徹底して訓練を受けているのかが一目で分かる。軍服姿の部下が迎えに来ることは毎日だが、いつも来る顔とは別の人間で、友恵がその顔を見るのは実に久しぶりの事だった。
「富岡さんじゃないですか。どうしたんです?」
「ご無沙汰しております奥様。少将殿に急な用向きがありましたので、私がお迎えに上がりました」
友恵の慌てた様な声を聞き、身支度を半分済ませた剛作が玄関にやって来た。
三人の軍人は背筋を伸ばし、腕を四十五度に曲げ指を伸ばす。朝の玄関先の穏やかな空気が、
一瞬にして張り詰めた緊張感に変わる。照り付ける日差しが地面を乾かし、そこに風が吹き砂埃が舞う。
「何事だ」
「はっ! 島津良知陸軍大将より、緊急の呼び出しであります。
支度を整い次第至急参謀本部までとの事」
瞬時に、ただ事ではないと剛作の直感が働いた。どたどたと音を鳴らしながら部屋に戻り、鏡で確認しながらシャツの襟を整えた。壁に掛かった軍服の上着を友恵が外し剛作に着せる。
正座をし呼吸を整え床板の上、刀掛台に置かれた軍刀を左手で握る。
使い込んであるがその分手入れが行き届いた、黒光りのブーツを履き玄関を出る。
「では行ってくる」
「お気を付けて」
深々と頭を下げる友恵を後ろに、
車に乗り込んだ剛作。その横に富岡中尉が座る。
「よし、出せ」富岡の一言で、運転席の部下がギアをDに入れる。車は煙を巻き上げるように目的地へと向かった。車中。今日の招集について剛作が問う。
「何か聞いているか」剛作の問いに富岡が剛作の耳元に顔を近づける。口を隠すように手で覆い話し始めた。
「恐らくは華中の国に対しての事かと」
耳から入る情報に深く考え込む。
いま日本は、大国である華中民国と睨みあいを続けていた。十年前に終結した朝支那との戦争で勝利を収め、その地を”東亜国”とし、日本が実権を握っていたのだった。
だがその状況をあまり良いと考えていない華中は、自国の国民や土地、財産を侵される恐れがある為、最悪の事態に備えるという名目で国境に軍隊を集結させていたのだ。
これに日本国は国際的な平和を脅かすきわめて勝手な行為と猛反対し、すぐさま国連を通し軍の撤退を要求。だが華中国はその要請に対し無視を続けている。
境界線を挟んでの緊張感が続くこの現状。そして今日の呼び出し。
嫌な胸騒ぎが先ほどから剛作のなかで一層騒がしさを増していた。
「着きました」運転手が車を止めた。助手席に乗っていたもう一人の部下が先に降りてドアを開ける。
左足から地面に着け、脱いでいた帽子を被る。
視線の先には、大きく威圧的な建物。白を基調とし西洋風の造り。
門の前には実弾の入った銃を担ぐ二人の兵士が居た。その二人の間を剛作が通れば、
尊敬の眼差しを向け捧げ銃をする。そのまま先へと進み、観音扉を開く。
扉から現れる剛作を見た者の大半が、直立不動で敬礼をした。
それに答えるように剛作も立ち止まって敬礼をする。戦争の英雄に敬礼を返されて、
気分の高まらない軍人は居ない。特に青年将校達は一層職務へのやる気に満ちた。
階段を上がり左の一番奥の部屋。達筆な文字で”作戦会議室”と書かれた札が立て掛かっていた。
”コンコン”
扉の前に立ち、再度制服の乱れを確認した後ノックをした。
ドアノブを回し少し前の方に体重をかけるとその方向に扉が開く。
「失礼します。お呼びでしょうか」扉の向こうにある部屋には、位の高い階級章を身に着けた軍服姿の男が三人ほど居た。「来たか。まぁ入りたまえ」その言葉を聞いて剛作は扉を静かに閉める。何やらこの日本が、再び大きな転機を迎えようとしているのだろうか。
そんな事、
図書館に居るこの二人には知る由も無く、今日も文学についての語り合いが行われた。
誰も来ないこの図書館で二人の楽しげな笑い声だけがこだまする。
普段は大人しい武人も文華を目の前にしては違っていた。本に魅了された者として、同じく本に、
文学を愛する文華と共に語れる喜びに浸っていた。それらの喜びを溢すように口数が多くなる。
帰り際、一冊の本を鞄から取り出した。武人が家にある本の中から寝不足になってまで選んだ、
彼女が喜ぶであろう児童文学書。
「これ良かったら読んでみてください。とても面白かったので」
受け取った文華は嬉しそうに微笑み鞄に入れる。「それではまた」と一礼してその場を去る文華。
顔を上げた瞬間に髪が靡き、艶やかな色がきらきらと輝気に見とれ目尻えお下げていたが、
彼にとって大事なことを聞き忘れたと慌てて追いかける。
「あの、次はいつ会えますか?」
「この本を読み終えた頃にまた来ます」
そう言って街の方へと歩いて行った。小さくなっていく文華の姿を、
瞬きを忘れるくらいに見つめる武人。彼の中で今日ほど時間が恋しいと思った事は無いだろう。
図書館の入り口で一人立ち尽していると、どこかから慣れ親しんだ声が耳に入って来た。
だが同時に、今はその声に持ち主と顔を合わせたくなと思っていた。
「お前も隅に置けんな」
振り返ると、電柱の影に龍平の姿があった。憎たらしくニコニコとしながらゆっくりと近づいてくる。
そして武人の肩に腕を回し、小馬鹿にするように話しかけてくる。隠している訳では無いが、こういう事を龍平に話すのは小恥ずかしく、面倒な為極力言いたくは無かった武人。
「誰だ今の子は。あの制服、帝女学園だろ?」
「此処で知り合ったんだ。彼女も本が好きなんだと」
見つかった以上変な誤解をされては文華に失礼だと、武人の話を聞いている龍平は、
終始ニヤついていた。だが龍平の頭には都合のよい単語だけが入って来る。
「お前まさか。彼女じゃ無いだろうな?」
全くとして話を聞いていない。
「そんなんじゃないって言っただろう。
彼女とは本について語っていただけだ。んじゃまたな」
そう言って足早にその場を去った。龍平が声を掛けるが、振り向かずにただ左手を上げる。
どんなことでもお互いに居に共有し合ってきた二人。
だが今日の武人の様子は少し変だった、まるで文華の事を取られない様に。
「ったくあいつも案外単純じゃねーかよ」
田んぼ道をいつも通り本を片手に歩く武人、田んぼに張られた水に居るアメンボが、
その振動で綺麗な輪をいくつも描く。その光景に武人は水田の絵描きとかってに名を付けた。
家に着くと剛作が庭で木刀を振るっていた。
空気が割けるのではと思う程、びゅんびゅんと音を鳴らせ、その風が与え理の草花を揺らす。
「只今帰りました」
武人の言葉に返事では無く頷いてそれに答える。
二人の間には独特の距離感が出来ていた。でもそれは決して悪い意味ではなく、
父と子としての適切な距離と言えるだろう。
夕食の時間になり三人で卓袱台を囲む。今日の夕食はすき焼き。いつになく豪華だった。
「今日はご馳走だね」
「たまにはこういうのも良いと思ってね」
武人が呟くと友恵が笑顔を浮かべる。彼の目に映った母の笑顔が少し悲しそうに見えた。
いつもなら質素を好む剛作も、今日は嬉しそうにしていた。普段の食事風景なのにどこか皆、気を遣っている。武人はその原因を薄々ではあるが気付いていたが、それより今は、皆で囲むこの食事を楽しんだ。
「ご馳走様でした」
食事が終わり、友恵が片づけを始める。武人も自主学習をしなければと部屋に戻ろうとする、
すると剛作が彼の方を向いて声を掛けてくる。
「武人、お前に話がある。座りなさい」
久しぶりにまじまじと見た父親の顔は、険しく覚悟に満ちた表情をしていた。
読んで頂きありがとうございます。
日本はどこへ向かうのか。
次回も読んで頂けたらと思います。