風に揺られて
図書館。それは本に触れ、本を堪能し尽せる空間。
静まり帰ったこの部屋の中に流れる風が、
彼女の黒く艶やかな髪を揺らし、その光景に武人の眼は一瞬にして奪われた。
「あの」彼女が不思議そうに武人を見つめる。目と目が合い、一瞬の本能的な緊張感が走る。
慌てて視線を本へ移紙幣全を装うが、心臓は正直で、鼓動が少し早まっていた。
ここで説明をすると武人は極度の人見知り。気軽に話せるのは家族、近所の人々、そして龍平位のもの。人が嫌いなのでは無い。何をどう会話して良いか分からないのだ。
である故、昔からあまり友達が多いとは言えない。それでも尽きることの無い本の中の物語と、
唯一の友龍平が居るならばそれでいい。だから自分からは決して話しかけたりはしなかった。
二人だけのこの状況で何を話したらいいか、
武人の脳内で渦を巻くが如く思考が絡み合う。その時だった。
「その本私も好きなんです」
少女が声を掛けてきた。武人の持っている本を指さして。
自分のお気に入りの本を好きだと言った少女の言葉に、体の芯から喜びがじわじわと沁み出してくる。
あたかも自分の事を褒められたかのような錯覚を抱くき思わず口元を緩ませる武人だが、
それをぐっとこらえ問いかける。
「本好きなんですか?」
「はい」
「俺も好きなんです、本」
一瞬、二人の心の周波数が重なった。本が好きという自分と似た人に出会った瞬間のこの嬉しさ。
到底言葉に出来るものではない。直感的にこの人と仲良くなりたいと感じていた。
「俺は松田武人」照れ隠しながら、引きつった笑顔を見せた。
自分から自己紹介をするなんて、いつ以来だろうか。一冊の本の存在が武人の背中を優しく押した。
「私は夢元文華と申します」彼女が発した上品な言葉遣いと彼女が身に纏っている制服を見て、
ある事に気付く。
「もしかして国帝女学園の子?」
「はい、あそこの二年です」
国帝女学園は日本でも有数の女子高で、そこに居る学生は皆、名のある資産家の娘や大企業令嬢など。
高等学校から歩いて十分ほどの所に建っている。
歩けば百合の花が咲くとまで言われるほどに、礼儀や作法等を徹底されている。
「そう言う貴方は国帝高等なのですね」
「はい、帝高の二年です」
ぎこちなくお互いの自己紹介を済ませる。話を続けなければと思い武人が口を開いた時、
腕時計を確認した文華が慌てた様子で図書館を出ようとする。
「もう帰らないと、それでは失礼します」
会釈をし、図書館の扉を開けその場を去る文華。途中で言葉を飲んだせいか、
胸がムカムカと気持ちが悪い。彼女の姿が遠くなる。扉を開けると外の光が眩しくて、
底光に彼女が包まれ同化する。音を鳴らした扉を、武人は勢い良く開け直し外へと飛び出した。
「明日も此処に居ます!」
自分でも驚くほどの声が清涼で作られ口に出て、発した声が夕焼けの町に広がった。
彼なりの精一杯。武人の声に応える様に振り向く文華。
そして笑顔を見せ一礼した。汚れの無い向日葵のような笑顔に、
武人心は風に靡く木々の様に揺らされた。
家路へと着くと父親がすでに帰って来た。
茶の間に居る父親に、学帽を脱ぎ帰宅の挨拶をする。この時間帯の日課だ。
「ただ今帰りました」
「うむ、学校はどうだった」
「はい、充実しています」
「そうか」
武人の挨拶に背中を向けたまま軽く頷く剛作。
身に纏った浴衣がしわがない程に張ったその背中からは、
父親の威厳を感じる。洗面所に行き手を洗った後、顔に水をかける。
夏のこの時期は毎日これをする。スーッと冷たい水が顔から涼やかな空気を運ぶかのようだ。
二階にある自分の部屋に行き、制服や鞄を置いて再び下に降りる。
少し大きめのちゃぶ台を三人で囲み、剛作の合図で食事が始まる。
「いただきます」
今日の夕飯は鰯の梅煮。松田家の家庭の決まり事として、
食事は父親から食べる。家族のために働いてくれる父親に感謝の意味を込めて。
「美味い」
剛作が一口食べた頃に二人も食べ始める。
鼻から香る梅の何とも爽やかな匂い。
鰯に箸を入れれば、その身が自ら崩れる。
口に入れた瞬間、梅と鰯の身のが混ざり合い舌を唸らせる。
醤油と味醂の程よい甘さが後から押し寄せ、白米を食べずにはいられなかった。
食事を済ませ、二階にある自分の部屋に戻る。
少し窓を開け、夜風に当たりながら自主勉学に励む。
鉛筆を走らせていると、下から友恵が風呂だと声を掛ける。
返事をし鉛筆を置く。風呂場に向かい、服を脱ぎ、少し熱めの湯船に浸かる。
思わず”はぁ”と言葉が漏れた。
風呂を済ませ自分の部屋の戻ると、
風が机に置いてある本で遊んでいたのか、ページが一枚ずつきれいにめくれていた。
そしてしおりが挟まったページが顔を出す。
開いた本を見つめながら、その本の内容とは全く関係の無い今日の出来事を振り返った。
”あの子は明日来るだろうか”武人は心の中でそう呟くと本を閉じ、鉛筆を手に取った。
翌日。支度を済ませ家を出る。
「一、二、三、四」
庭では剛作が、木刀を振り朝の鍛錬に励んでいた。
「行ってきます」
「気を付けてな」
緑が初々しい田んぼ道を歩く。いつも持っている本とは別の、短編小説を片手に。
歩いていると後ろの方から、子供たちの無邪気な叫び声が聞こえてくる。
賑やかなその声の群れは武人の前を横切った。
「武人兄ちゃんおはよう!」
ガキ大将の謙太が友達を引き連れて走って来たのだ。
この辺の子供たちは皆、武人が好き。
普段は母親の言う事を聞かないような子供達でも、
彼の言う事ならば聞いた。そんな親たちは皆、武人に感謝している。
「おはよう皆」
「兄ちゃん聞いてよ!
俺、逆上がり出来るようになったんだ」
「おれも!」
各々武人に聞いてほしい事を思いつくがままに話し始める。子供の話は順序が時に反転し、
難解な時も在るが、入り混じった声をしっかりと聞き分ける。
武人でも子供相手ならば人見知りにはならない。
「そうか、凄いじゃないか。勉学の方はどうなんだ?」
武人の言葉に、顔を歪ませ渋い顔になる子供達。
そんな彼らの頭を撫で少し微笑み声を掛ける。
「まぁ焦らなくていいさ、自分の調子で頑張るんだぞ」
「頑張る!」
武人の言葉が効いたのか、そう言って小学校へと走って行く。その姿に手を振り応える。
”そろそろ急ぐか”
手にした本を閉じ、学校へと急いだ。
お読みいただき誠にありがとうございます。
淡い恋の始まる音。聞こえたでしょうか。
次回も是非読んで頂けたらと思います。